深夜プラス1 - 赤井秀一 (ライ)


 凪いだ海を背景に静かに佇む黒のシトロエンを目視したライは、仕事前に呼吸を整えた。煙草は後でいい。愛人が眠っているギターケースを担ぎ直し、歩を進めた。港には街灯なんてものは無く、日が沈むと一気に闇の色を濃くする。微かに漂う潮の香りは、アンダーグラウンドな世界の全てを曖昧にさせた。腕のいいドライバーだと聞いているが、今日の相棒となる人物が明日もまた生きているとは限らない。それはライも同じ事だが。
 窓を2回ノックし、明日の天気を問う。すると相手は、ツバメを見たと返事をした。合言葉というのは、然るべき場所で口にされてこそ意味がある。人通りの多い街路でまずい相手に聞かれたとしても、それと悟られないよう如何にもさり気ない言葉を口にするのであれば。馬鹿みたいだと思ったが、初対面の人間と会う瞬間というのは、相手がどんな奴であろうと極めて危険だ。2人の人間が関わり、2つの命が失われかねないのだから。
 声は女のもので、それに随分と若かった。ライは相手が腕利きのドライバーと聞いていたので、てっきり男だとばかり思っていた。少々、肩透かしを食らった気分だった。シトロエンの助手席に乗り込めば、ドライバーの女は落ち着いた様子で握手を求めた。

「初めまして、ライ。ずっと会ってみたかったんだ」
「こちらこそ」

 ライは握手に答えた。柔らかく小さな手だったが、あまり温度は感じられなかった。

「深夜プラス1みたいだ」

 ドライバーが感心したように呟いた。腕利きのドライバーとガンマンのコンビが、次々と迫る困難を切り抜けながら、タイムリミットまでに目的地へ到達出来るのかを描いたハードボイルド小説だ。それに出てくるのが、今2人が乗っているのと同じ型、同じ色のシトロエンだ。今夜の相棒は読書の趣味が良いらしい。ライは煙草を取り出し、ゆっくりと味わうように吸い込んだ。自分でも知らない内に、緊張のせいかずっと息を殺していたらしい。革張りの椅子は座り心地が良く、何時間でも座っていられそうだった。

「良い車だな」

 ライは左手で皮を撫でた。

「10年進んだ車を20年間作り続けるメーカーだからね」

 仕事用には勿体ないくらいだよ、とドライバーは自分の車を褒められたからか、含羞みながら嬉しそうに言った。

「プライベートでは何に?」
「スタハチって名前の赤い稲妻」

 カッコイイんだ、と自慢げに話すドライバーとは裏腹に、ライの表情は驚きで固まっていた。フォード・グラン・トリノは誰が見ても名車だと言える。それを乗るには、余りにも若すぎやしないか。それに、刑事スタスキー・アンド・ハッチを知っている事にも。

「70年代のドラマを知っているとはな」
「祖父が好きだったからね」

 ドライバーは親指でハンドルを撫でながら、何かを思い出すようにして言った。

「仲が良かったんだな」

 ドライバーはライの言葉に返事をしないまま、2度ほど頷いた後アクセルを踏み込んだ。

「ライは何に乗ってるの?」
「赤のマスタング」
「いつかドライブに行こう」

 普段から名車を2台は乗り回すドライバーを納得させられた事実は、少なからずライの気分を上げた。マスタングとグラン・トリノにコブラエンジンを用いているという共通点があるように、自分とドライバーの間にも共通の何かがあるように思えた。シトロエンは滑らかに港から離れ始める。
 この車はとても優れた車だが、それ以上に奇妙な車でもある。ギアチェンジはマニュアルだが、クラッチがない。前輪駆動だし、一切が油圧で作動する。サスペンション、パワーステアリング、ブレーキ、ギアの切り替え……その全てが油圧式だ。この車には人間の体内よりも多くの血管が走っている。それをこのドライバーが手懐けられる手腕を持っているかどうかは、これから直ぐに分かるだろう。
 彼女の右手に付けられた腕時計が0時1分を指していたが、ライは何も言わず眼前に広がる闇を見据えた。


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