お時儀 - 観音坂独歩
独歩は三十になったばかりである。その上、あらゆるサラリーマンと同じように、目まぐるしい生活を営んでいる。だから「明日」は考えても「昨日」は滅多に考えない。と言うより、考える余裕が無い。しかし往来を歩いていたり、電車に乗っていたりする間に、ふと過去のある出来事を鮮やかに思い浮べることがある。それは従来の経験によると、大抵の場合、嗅覚が刺激され、連想ゲームのように、その匂いに関係する様々な事を思い出すらしい。その嗅覚の刺激にしても、新宿に住んでいる訳だから、悪臭と呼ばれる匂いばかりであるが。例えば、車の排気ガスの匂いなんかを良い香りだと言う人など居ないだろう。けれども、ある女性……いや、この場合は女子生徒や少女の方が正しいか。とにかく彼女の記憶、──五、六年前に顔を合せた、ある少女の記憶などは、あの匂いを嗅ぎさえすれば、煙突から迸る火花のように、たちまちよみがえって来るのである。
この少女に会ったのは、駅の停車場である。或いはもっと厳密に言えば、あの停車場のプラットフォームである。雨が降っても、風が吹いても、午前は七時発の下り電車に乗り、出勤するのが毎日のルーティンワークの始まりだった。毎日、同じ時間の同じ電車になど乗れば、顔見知りの一人や二人はたちまちの内に出来てしまう。彼女もその中の一人である。
彼女は十六か十七だろう。いつも私立高校の制服を上品に身にまとい、ピカピカに磨き上げられたローファーを履いていた。背は少し低い方かもしれない。けれども、見たところはすらりとしている。殊に脚は、──ほつれ一つない真っ黒な靴下に、高そうな革製のローファーを履いた脚は、鹿のようにすらりとしている。顔は美人と言うほどではない。しかし、──独歩は、近代の小説の女性主人公によくある、無条件に美人な人を見たことはない。作者は女性の描写になると、たいてい「彼女は美人ではない。しかし……」とか何とか書いてある。きっと、無条件の美人を認めるのは、近代人の、特に女尊男卑な社会に生きる男性の面目に関わるらしい。だから、独歩もこの少女に「しかし」と云う条件を加えるのである。──念のためにもう一度繰り返すと、顔は美人と云うほどではない。しかし、少し鼻の先が上を向いた、愛嬌のある可愛らしい顔だったと言っておこう。
彼女は騒がしい人ごみの中に、ぼんやり立っていることがある。人ごみを離れたベンチに座って、文庫本を読んでいることがある。或いは、長いプラットフォームの縁を、ぶらぶら歩いていることもある。
独歩は彼女の姿を見ても、恋愛小説に書いてあるような動悸などの高ぶった覚えはない。ただ、やはり顔馴染みの得意先の人や、家の近所に住み着いている野良猫を見た時と同じように、「いるな」と考えるばかりである。しかし、とにかく顔馴染みに対する親しみだけは抱いていた。だから、時たまプラットフォームに彼女の姿を見ないことがあると、何か失望に似たものを感じた。何か失望に似たものを、──それさえ痛切には感じた訳ではない。独歩は現に野良猫が二、三日行方を晦ました時にも、同じような変りのない寂しさを感じた。もし得意先の人が事故死か何かを遂げたとすれば、──この場合は、いささか疑問かも知れない。が、まず猫ほどではないにしろ、勝手の違う気持ちが起きるはずである。
ところが三月の二十何日か、生暖い曇天のことである。独歩はその日も七時発の下り電車を待っていた。何でも、かすかな記憶によれば、前日に大きなミスをした部下の後始末のせいか、気休め程度の睡眠も取れず、眠気やら頭痛やらと戦っていたように思う。気を紛らわす為に、喫煙所で煙草を吸っていたのを覚えている。いつか読んだ小説に、平地を走る電車の音を「Tratata tratata Tratata」と写し、鉄橋を渡る電車の音を「Trararach trararach」と写したのがある。なるほど、ぼんやり耳を貸していると、ああ言う風にも聞えないことはない。──そんなことを考えたのも覚えている。
独歩は物憂い一服の後、喫煙所を出た。プラットフォームには、少し前に着いた電車が止まっている。独歩は人混みに混ざりながら、ふとその電車を降りる人を眺めた。すると、その人混みの中から見知った顔を見つけた。あの少女だった。いつもなら、一番前の車両の、真ん中のドアの前で電車を待っている彼女が、今日は、独歩と同じ場所で電車を待っている。独歩は勿論「おや」と思った。彼女も確かにその瞬間、独歩の顔を見たらしかった。と同時に独歩は思わず彼女へお時儀をしてしまった。
お時儀をされた彼女は、きっと吃驚したに違いない。が、どう言う顔をしたか、生憎もう今では忘れている。いや、当時もそんなことを見る余裕を持たなかったのであろう。独歩は「しまった」と思うが早いか、たちまち耳の火照り出すのを感じた。けれどもこれだけは覚えている。──彼女も独歩に会釈をした!
やっと停車場の外へ出た独歩は、彼自身の愚行に憤りを感じた。なぜ、またお時儀などをしてしまったのだろう?話したことも無いような他人に、いきなり頭を下げられれば、気味が悪いと思うに決まっている。しかし、あのお時儀は反射的にしてしまった。ぴかりと稲妻が光る途端に瞬きをするのと同じことである。そうなると、意志の自由にはならない。意思の自由にならない行為は、責任を負わなくてもいい筈である。だが、しかし。彼女は何と思っただろう?彼女の方も会釈をした。しかし、あれは驚いた拍子に、反射的に返しただけなのかも知れない。今頃、きっと独歩のことを変質者か何かと思っていそうである。いっそのこと「しまった」と思った時に、無躾を詫びてしまえば良かった。そう言うことにも気づかなかいとは。だから俺は、他の人より仕事が出来ないんだ………
独歩は自宅であるアパートへ帰らずに、人影の見えない砂浜へ行った。これは珍らしいことではない。独歩はどうしても我慢ならないことが起きた時や、世の中やら、仕事やら、人間関係やらが嫌になると、必ずこの砂の上へ煙草をふかしに来る。この日も曇天の海を見ながら、まず煙草へライターの火を移した。今日のことはもう仕方がない。けれどもまた明日になれば、必ず彼女と顔を合せる。彼女はその時どうするであろう?独歩のことを変質者と思っていれば、避けられるのは当然である。しかし、変質者と思っていなければ、明日もまた今日のように、独歩のお時儀に答えるかも知れない。あの、お時儀に?独歩は──観音坂独歩は、もう一度あの少女に恬然とお時儀をする気なのか?いや、お時儀をする気はない。けれども、一度お時儀をした以上、何かの機会に彼女も独歩も会釈をし合うことはありそうである。もし会釈をし合うとすれば、……独歩は、ふとお嬢さんの眉の美しかったことを思い出した。
H歴二年を経過した今日、その時の海の静かさだけは妙に鮮かに覚えている。独歩はこう言う海を前に、いつまでもただ茫然と火の消えた煙草を咥えていた。もっとも、独歩の考えは彼女のことばかりがあった訳ではない。たとえば、この前なんとなく読み始めた小説のことも思い浮かべた。その小説の主人公は、革命的精神に燃え立った、あるイギリス語の教師である。日本に蔓延る女尊男卑や、いかなる権威にも屈することを知らない。ただし前後にたった一度、ある顔馴染みの少女へ、うっかりお時儀をしてしまったことがある。彼女は背は低い方かも知れない。けれども見たところはすらりとしている。殊にほつれ一つない真っ黒な靴下に、高そうな革製のローファーを履いた脚は──とにかく、自然と彼女のことを考えがちだったのは事実かも知れない。
翌朝の七時五分前である。独歩は人のこみ合ったプラットフォームを歩いていた。独歩の心は、彼女と出会った時の期待に張りつめている。出会わずにすましたい気もしないではない。が、出会わずにすませるのは不本意のことも確かである。云わば、独歩の心もちは、強敵とのラップバトルを目前に控えた時と変わりはない。しかし、それよりも忘れられないのは、彼女と顔を合せた途端に、何か常識を超越した、莫迦莫迦しいことをしはしないかと言う、妙に病的な不安である。昔、ジャン・リシュパンという詩人が、たまたま通りがかった女優のサラ・ベルナールへ、傍若無人にもキスをした。日本に生れた独歩は、まさかキスはしないかも知れないけれども、いきなり舌を出すとか、あかんべいをするとかはしそうである。独歩は内心冷ひやしながら、捜すように、また、捜さないようにあたりの人々を見まわしていた。
するとたちまち独歩の目は、悠々とこちらへ歩いて来る彼女の姿を発見した。独歩は宿命を迎えるように、まっ直に歩みをつづけて行った。二人は見る見る接近した。十歩、五歩、三歩、──彼女は今、目の前に立った。独歩は頭をもたげたまま、彼女の顔を眺めた。彼女の方も独歩を見ていた。二人は顔を見合せると、何ともなしに行き違おうとした。
ちょうどその刹那だった。独歩は突然、彼女の目に何か動揺に似たものを感じた。同時に、またほとんど体中にお時儀をしたい衝動を感じた。けれども、それは一瞬の間の出来事だった。彼女は、はっとした独歩を後ろに、しずしずと通り過ぎた。家の近所に住み着いている野良猫が、路地裏に入っていくように。
二十分ばかりたった後、独歩は電車に揺られながら、彼女のことを考えていた。彼女は何も眉毛ばかり美しかった訳ではない。ぱっちりとした二重の目に、大きな黒い瞳。心もち上を向いた鼻も、……しかしこんなことを考えるのは、やはり恋愛と言うのだろうか?──独歩はその問いにどう答えたか、これもまた記憶には残っていない。ただ独歩が覚えているのは、いつか彼を襲い出した、薄明るい憂鬱ばかりである。独歩は窓枠に流れるいつもの風景を見守ったまま、しばらく、この憂鬱の中で、彼女のことばかりを考えつづけた。電車は勿論そう言う間も、朝日の光りを浴びながら、新宿を走っている。
「Tratata tratata tratata trararach」
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