アンダンテ - 槙島聖護


 彼が今読んでいるのはシェイクスピアのハムレットだ。一体どこで見つけてきたのやら、彼が所持している紙の本の数々は、今やもう価格も付けられない程の価値を持つ初版本が多い。その中でもシェイクスピアは彼のお気に入りだ。
 私は戯曲があまり好きでは無いのでわざわざ手に取って読む、という事をしない。彼に言わせれば読まず嫌いなだけ、だそうだが。
 私は今日も彼の為に紅茶と茶菓子を用意する訳だが、私はどうも彼のマドレーヌの食べ方も好きになれない。マドレーヌを紅茶に浸してから食べる。これはプルーストの小説『失われた時を求めて』に出てくる食べ方らしい。残念なことに私はその小説を読んだことがないので、誰かが万が一、億が一、私に紅茶とマドレーヌを用意してくれたとしても、そうだこの食べ方をしよう、などと思わないのだが、私が映画『コンスタンティン』を見る時にアードベッグを飲むのと似ているのかもしれない。……いや、ちょっと違うのかな。でも、作品と五感がリンクするその瞬間は私も大好きだ。まるで自分も作品の中の登場人物の1人になったような気分になる。至福の時間だ。だから、彼がどんな風にマドレーヌを食べようが彼の自由だ。だが、それを私にまで共有させようとするのは如何なものか。そう思っているし、私がそう思っている事を彼は知っている。知っていて尚、勧めるのだから性格が悪い。わざわざ、言ったりしないけれども。
 ここ最近はグソン氏も忙しいらしく、彼のおやつの時間を提供するのは専ら私の仕事になっている。私が彼の為に紅茶を用意する時、世界で一体何人くらい死んでいるのか。知りたくもないが、この紅茶が死人の血で出来ているとするなら、少し面白いとも思う。ハドソン夫人と呼ばれる日もそう遠くないかもしれない。
 あら2人とも楽しそうね、不謹慎だこと。不謹慎が何だって?不可解な自殺?4人とも自殺なんて有り得ない!やっと楽しくなってきたのに家になんていられるか!
 なんて槙島聖護が探偵役を買って出る日なんて来るはずも無いが。彼はどちらかと言うとジェームズ・モリアーティの方が合っている。犯罪者という点に於いて。彼とモリアーティの間に何らかの共通点があろうと無かろうと、彼と私の間には様々な、好きになれそうにない物が隔たっている。お互いに。つまるところアンダンテが噛み合わないのだ。
 これは人間関係における関係の破綻の大きな要因とされるが、何故か彼と私は共有する時間が割と多い。お互い、口には出さないが些細な事で心にささくれが出来る。最早、嫌がらせに近い意地の張り合いだ。
 私はテーブルの上にお茶のセットを置いて、ソファに座った。すると彼は本を片手に立ち上がった。見計らったこのタイミング。こういう所が好きになれない。

「それから、ハムレット殿下のことだが、殿下の気まぐれなご好意は、結局、若さのさせる一時の浮気だと思わなきゃいけないよ。早咲きのすみれの花のようなものさ、言ってみれば。咲くのは早いがすぐしぼんでしまう。見た目にはきれいだが永もちはしない。あれはただほんの束の間の香り、一時の慰めだ、それだけだよ」

 私の目を見てそう言う彼は、実に楽しそうで腹が立つ。束の間香り?一時の慰め?初恋は実らないというセオリーは流石のシェイクスピアも知ってたみたいだ。因みに私の初恋はトマス・ハリスの小説『羊たちの沈黙』に出てくるハンニバル・レクターだった。勿論、実る訳が無かった。私の顔が僅かに引き攣ったのを見た彼は、本を閉じてこう言った。

「僕は君の事が好きだけれど、それは恋愛とは少し違うように思う。慰めも勿論含まれているだろうし、そこには肉体的な欲求が満たされた満足感だってある。だがそれはメインではなく付属の物だ。かと言って、さっきも言ったように恋愛感情を君に対して抱いている訳では無いんだよ」

 張り倒してやりたいと思ったが、我慢した。私も似たような感情を彼に向けているからだ。恋愛ではなく、セックスありきの関係でもなく、かと言って家族や友人とも違う。なんと表せばいいのか分からないが、嫌悪とは程遠いそれ。私だって今まで何度も私たちの関係について、どう言えば一番最適なのか思考を巡らせてきたが、求めている答えと出会った事はただの1度もなかった。

「私に対してある一定の好意を持ってるのは知っているし、私も同じように思ってるよ」
「うん、それは良かった」

 ただ、やはりアンダンテが噛み合わないのは事実だ。

「私の嫌いなところを挙げていけば?」

 その方が色々と手っ取り早い気がしてきた。彼の返答次第では関係すらなくなって、ただの他人になってしまうかもしれないが、その時はそれが潮時というヤツなのだろう。きっと。

「そうだね、嫌いなところか。敢えて言うなら、僕に対して盲目過ぎるところじゃないかな?僕は普遍的な人間にすぎないのに、どうも君は僕を神聖視しているように思う。それは僕ではなく、君の中に生まれた虚像にすぎない。その虚像を通して僕を見ている君の事は嫌いだ。君が見ている僕が、僕自身では無い別の誰がだというのは、とても腹立たしい事だ」

 ……彼に対して見解を改めるべき時が来たと思った。確かに、押し付けがましい理想と、槙島聖護は私の中ではこういう人物だ、こういう人物でなければならないという偶像的な崇拝に似た何かを無意識に抱いていたかもしれない。

「貴方が何かの宗教の教祖じゃなくて良かった。もしそうだったら水晶玉とか買ってたかも」
「それよりも先に言う事があるだろう?」
「……申し訳なかった、ごめんなさい。貴方は確かに、人間的な人間だ」

 神様には程遠い。何処にでもは居ないし、ここにしか居ないけれど、槙島聖護はこの国には珍しい普通の人間だ。

「折角のお茶が冷めてしまったね」

 淹れ直して欲しいなら、そう言えばいいのに。と思いながら立ち上がったらストップが掛かる。

「そのままで構わないよ。その代わり砂糖を幾つか持って来てくれないかな?」
「自分で取りに行くって選択肢は?」

 彼は長い足を組んで微笑んだ。綺麗な顔した神様め。ただの平民である私は彼に献上する為の角砂糖を取りに立ち上がるしかなかった。

「どうも」
「お気になさらず」

 言わなくても気にしないだろうけれど。彼は砂糖を3つ、4つと調子良く入れていった。

「入れすぎじゃない?」
「紅茶は好きだが、渋いのは苦手でね」
「貴方のそういう割と大雑把なところ、ほんっっと嫌いだわ。だから淹れ直そうかって言ったのに」
「言ってないだろう」

 ……確かに。不味いとわかっている紅茶を、彼は何も気にせず飲んだあと顔を顰めた。

「これは駄目だな。やっぱり」
「淹れ直さないから」

 ほらね。私たちは、いつだってアンダンテが噛み合わない。





ウィリアム・シェイクスピア
『ハムレット』第1幕第3場より
三神勲/訳 河出書房新社
世界文学全集T シェイクスピア

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