Schwarzwälder Kirschtorte 2 - トレイ・クローバー
客が居ない時、トレイはよく本屋の主人と一緒に店の前に座ってのんびり時間を過ごす。歩道に古い木の椅子をいくつか置いていた。トレイは多くを語らない。ただ、時々、愚痴を言うだけだ。
「本当を言うとケーキ作りのマイスターなんだ。冷凍の生地を自動パン焼きオーブンに入れるだけの仕事なんて好きじゃない。昔の真っ当なケーキ屋が懐かしいよ。アレは本格的だったからな。だから、いずれこんな所から抜け出してみせるさ」
本屋の主人は頷くだけで、何故、今のようになったかを訊ねはしなかった。例え、訊ねたとしてもトレイが9年間の刑務所暮らしについて語る事はなかっただろう。灰色の日々、ただ釈放を待つだけの歳月、そこで味わった孤独、その他様々な思い、それは気軽に語れるものではない。店で客を待つだけでは暮らしていけないので、トレイは毎朝パンの配達をしていた。パンを紙包みに入れ、家の前に置く。一人でも注文客が出来ると、その隣人も暫くして注文してくる。ドアの前に置かれたパンが焼きたてで、いい匂いがしたからだ。
注文のあったアパートへ行く。その手には紙包みを何袋も提げていた。3階に若い女性が住んでいる。トレイは大学から戻ってくる彼女をよく見かけた。彼女は店の前に座るトレイを見つけると、会釈したり、声をかけたりする。そして、いつものように微笑んだ。週に一度、彼女は店にやって来て、配達した分のパン代を支払う。その時、二人は言葉を交わす。トレイが彼女の姓を上手く発音出来なかったので、彼女は斎と呼んでくれと言った。
トレイはいつしか彼女に恋をしていた。自分の気持ちに気付いたトレイは、どうやって彼女に伝えようか悩んだ。そして、良い方法を思い付いた。トレイはケーキ作りのマイスターだ。何度もケーキのコンテストで優勝している。翌朝、さっそく作業にとりかかった。
作るのは、五層からなるタルト。どこでも買えるような普通のタルトではない。上から見ると、丁度、花びらが開いたような形をしている。それぞれの花びらに、違う果物を使った。出来上がった時には疲れきっていたが、満足だった。その夜は中々、寝付けなかった。
翌朝、タルトを木箱に詰め斎の部屋に向かった。彼女が出てきたら、なんと声を掛けようか。ところが、ドアを開けたのは男性だった。下着一枚、首にはダルメシアンのペンダントを下げている。その男は片手をドア枠に当てながら、何の用だと尋ねた。開いたドアの隙間から部屋の中が垣間見えた。ワンルーム、シャワーの音が聞こえる。トレイはダルメシアンを見つめた。小さな天眼石の目とリングが目に止まった。そのダルメシアンは、そこにずっと居続けるのだろう。トレイは急にそのダルメシアンが可哀想になった。
トレイは木箱を持って下りた。中庭のベンチに腰掛け、木箱の蓋を開けた。美しいなと思った。冬の日差しの中、タルトはオレンジと赤と深紅に輝いていた。暫く見とれてから、タルトの最上部を指でちぎって食べた。
「俺が作った最高のタルトだ」
トレイは小さく独り言を呟いた。そして、また一欠片を口に入れた。時間をかけ、綺麗に平らげた。
その日の午後、トレイは本屋の主人と店の前で会った。二人でコーヒーを飲んだ。それから二人は暫く無言だったが、トレイが口を開けた。
「全部売り払おうと思ってる。店も家具も」
本屋の主人は黙ったままだ。
「別の街にでも行って、新しくケーキ屋を開くんだ。シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ(黒い森のサクランボケーキ)をメインにしようと思ってる。俺は黒い森のサクランボケーキを作るのが得意なんだ」
本屋の主人は何も言わず、コーヒーを飲み干した。
「是非、遊びに来てくれ。店が軌道に乗ったら電話でもするよ」
本屋の主人は頷いた。トレイはズボンで両手を拭いた。その夜、ベッドに入るとトレイはまた斎の事を思った。いつしか睡魔に襲われ、斎が彼の作った黒い森のサクランボケーキを美味しそうに食べる夢を見た。目を覚ますと、もう斎の事など頭になかった。
サイドテーブルからダルメシアンのペンダントを取り出す。こびり付いた血と肉片は綺麗に拭い去っている。暫くそのペンダントを見つめた。何もかもが混ざり合っている。トレイはそう思った。だが、どうしてそんな事を思ったのか分からなかった。それから目を閉じた。開けっ放しの窓の外から、降りしきる氷雨の音が聞こえた。
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