暗闇心中相思相愛 - 糸色望


 乾いた唇は罅割れ、裂け目からは血が滲んでゐた。その赤があまりに唆るものだから、つい噛み付いてしまつた。どうせ、こんな真夜中だ。人も居ないのを言ひ訳に、口付けはどんどん深くなるばかりで。ああ、このまま窒息死してしまへれば、どれほど素敵だらう!
 彼女を抱きしめた時、足元のスウツケエスが倒れたが、気にしてゐられなかつた。私の人生もこのスウツケエスと同じに、踏んだり蹴つたりだつた。それでも生きてこられたのは、偏に、こんな私を芯から愛してくれた彼女のおかげなのだ。
 深夜のプラットフォオムには、冷たい風が吹き抜けていく。海からの潮風が、いやに身体に沁みた。

「斎さん、愛してゐます。愛してゐるんです、どうしやうもないほど」

 ほとんど、涙声になつてゐた。身を切るほどの愛は、人間の生命力とでも言はうか、生きる活力とでも言はうか、そんな何かを吸ひ尽くし削り取る力があつた。

「先生。私も、先生と同じだけ貴方を思つてゐます」
「貴方だけを先に逝かせたりはしません。死ぬ時は、一緒に」

 どんな風に死んだか、どんな最後を迎へたかで、その人間の一生を垣間見れるやうな印象を与へるのであれば、私は彼女との終はり以外のヴィジヨンを想像できなかつた。どんな風に生きたかなんて、そんなの。ただ愛に溺れて、抗はうともがゐて、その分だけ沈んでいつた。ただ、それだけだ。
 深夜零時ちやうどの夜行列車が、けたたましい音を立てプラットフォオムに辿り着く。切符を握り締める拳に力が入つた。

「私と先生の辿り着く先は、きつと地獄なのでせう。天国なんて初めから期待してゐません。先生と二人なら針の山でも、業火の釜戸の中でも構ひません」

 彼女が私の手を取るので、三等列車の切符を捨ててやつた。イタズラが親にばれた時の子供のやうな、それでゐてどこか愛らしい眼差しの彼女の微笑みで、またこの瞬間、死んでもいいと思つた。心臓が撃ち抜かれる、その絶望はあまりに甘美で身体がくらりと倒れさうになつた。

「さあ。お手をどうぞ、レディ」
「はい、先生」

 貴方が私を独占したいと思つてゐるやうに、私も貴方を独占したいと、何度さう思つたことか!
 地獄の底でも、何処へでも。美しく従ひ、付き従ひ、最期まで彼女と共に。死こそが永遠ならば、この貧相な命でも彼女の為に使ひ果たさう。さうして、やつと私の願ひは叶ふのだ。彼女の細く小さい身体を目一杯抱きしめたまま、石になつてしまつても構はない。

「愛してゐるよ、モナ・ムール」


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