絶望から始まる 1 - 糸色望
「絶望したー!」
まだ肌寒さの残る三月末、柔らかい太陽の光が満開の桜の木々を包む朝。静かな住宅街に響く、男の叫び声が一つ。斎は、またあの人ねと一つため息を吐き思った。道を挟んだ向かいにある一軒の下宿屋に、眼鏡を掛けた気難しそうな書生風の男が引っ越してきたのだ。その男は学生帽こそ被っていなかったが、まだ年若く物腰柔らかな言葉遣いで、斎の周りにいる男よりもよっぽど魅力的でいて、引っ越してきた際の挨拶でその書生風の男を見た時、人の良さそうな感じで素敵だと思った。ただ、少し神経質そうな所が見えたが、人間一つくらい駄目な所がないと生きてる気がしないと思い気に留めなかった。
男が引っ越してきて数日が経ったある日、斎は毎朝と同じように新聞を取りに外へ出た。その時、一本の桜の木にぶら下がる男を見つけた。ぶら下がるというよりも、桜の木にロープを括りつけて首を吊っているといった方が正しいが。とにかく、斎は急いで男の元へ向かった。
「糸色さん、糸色さん!」
必死になってロープ外そうとするも首に食い込んでいるばかりで、なかなか外れない。男は息が吸えず苦しいのだろう、ばたばたと足を動かすがそのせいで斎が蹴飛ばされてしまった。思ったよりも力が強かったせいか何度か咳き込んだ。斎がやっとの事で息を整えた時、男の首を絞めるロープがぶちりと音をさせて切れた。男からはヒューヒューと呼気の音がしたが何事も無かったかのように立ち上がり、自身の服に着いた土を叩き落とした。そして斎に向かって叫び出した。
「絶望したー!まともに自殺もさせて貰えない世間に、絶望したー!」
それを聞いた斎は驚きのあまり呆然と二三度瞬きをする他、どうする事もなかった。然し、自殺しなければならないような何かがこの男にはあるのだろうと思い、話を聞く事にした。
「何か、あったんですか?死にたくなるような事でも」
男は斎の手を両の手で掴み「聞いてくれますか」と食い気味に言った。この日は幸い日曜日で勤めの休みの日だったので、斎は一つ提案した。
「良ければ家へ来ますか?話くらいなら聞きますよ」
その後、男は斎の家でコーヒーを一杯飲んだあと自殺の理由を話した。だが、その理由があまりにも下らなかったので、斎はつい笑ってしまった。
「糸色さんったら、そんな事を気にして死にたくなったのね。ほんと、おかしな人。星座占いの順位が最下位だからって、何も死ななくても良いじゃない。それとも、星座占いに特別何か思うところがあるのかしら?」
「いいえ。特にこれといった思いはないのですが、やはり朝一番に自分が最下位の人間だと知らされると、一日のやる気を全て失うというか、そのまま死にたくなるというか」
「今どき、学生だって気にしやしないわよ。ふふ、星座占いだなんて。糸色さんは乙女な人ね」
「乙女だなんて、とんでもない!私はこう見えても学校の先生をしている、立派な大人の男です!」
「あら、学校にお勤めになってるんですね。知らなかったわ。私、てっきり書生さんとばかり思っていましたから」
「この服装のせいですかね。服を新調しようとは思うんですが、服屋の店員は何を着ても褒めるばかりで、本当にいいものかどうか、信用に足りないんです」
どうやらこの男、ありとあらゆる物や人をまず疑ってかかる人間らしかった。神経質なのも合わさって、面倒なことこの上ない。それでも斎はこの男をどうにも嫌いになれずに居た。
「おや、もうこんな時間ですか。長い間居すぎましたね。すいません」
「いえいえ。何かよっぽどの事があったのかと思いましたけど、星座占いなんですもの。心配が一つ減って良かったわ」
男が白木の下駄を履きながら言った。
「何だか、話せばスッキリしました。もし良かったらですが、また相談に来ても構いませんか?」
「ええ、もちろん。相談でも愚痴でも、せっかく隣人になったんだもの。私も仲良くしたいわ」
この一件があってから、斎は度々、男の「絶望したー!」という叫び声を聞くことになった。初めのうちは男の絶望を数えていたが、そのうちキリがないと思い数えるのを辞めた。
今回は何に絶望したのかしらと想像しながら、気分転換に花見にでも誘おうと算段をつけた。飲もうと思っていた牛乳の賞味期限が切れていただとか、そんな愚痴を聞くのだろうと思いながら。
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