絶望から始まる 2 - 糸色望


 桜の木々に囲まれた一軒の下宿屋がある。新築されたばかりの下宿屋で、前を通ると新しい木の匂いがした。ここに一人の男が越してきたのは三月の末の事だった。男は、窓から外を眺め一つ長いため息を吐いた。春は過ぎ、青々とした桜の葉が太陽に向かって手を広げている。陽の光は暖かく男を包んでいたが、それさえも男の陰鬱な気持ちを増幅させるばかりであった。その陽の光に彼女を思い出したからだ。
 男がこんないい天気にため息を吐いたのには訳がある。恋の悩みを抱えていたのだ。男は普段からどんな小さな事でも気にする繊細な質の人間で、自分が生きている事にすら絶望を感じる程だった。そんな男がある女性に恋をしたのだ。
 何をしていようが、どこにいようが、彼女の事を思い出しては、自分のような人間に好かれるなんて彼女はきっといい思いをしないだろうと考え、また考えながら歩いているので電柱にぶつかったり、片足を踏み外し用水路に突っ込んだりする。それを見ていた近隣の住人は井戸端会議だの回覧板を回す時だので、ひそひそと声を落として男の話をしていた。

「きっと振られたのよ、あの先生」
「お勤めが忙しすぎて二人の時間がなさすぎたのね」
「お似合いだったのにねぇ」

 そんな話を小耳に挟んだ男は、またいつもの様に叫んだ。

「絶望したー!恋人でもない相手に振られる自分に、絶望したー!」

 そうして部屋に篭もっては、練炭自殺にしようか、 一つ闇医者か誰かから莫児比𣵀でも買って毒死でもしようかと部屋中を歩き回った。歩き回って窓の前に立った時、ふとここに越してきて直ぐの事を思い出した。あの時はどうして死のうと思ったのか理由はもう覚えていないが、丁度、桜の木で首を吊ってもうすぐ死ねると思った時に彼女に助けられたのだ。それから、何かにつけて彼女に逢いに行き話をして、また花見に出掛けたり、それから、それから……
 自殺しようにも彼女の事ばかり考えてしまって、肝心な死に方が何一つ思い浮かばない始末。男は居てもたってもいられなくなり、白木の下駄に足を入れた。そのまま、ずんずん道を進み彼女の家の前に着いた途端、ぴたりと動きを止めた。
 さて、何をどう話せばいいのか考えていなかったのだ。四六時中、貴方を思ってはヘマをするのでどうすればいいですか?などと口が裂けても言えないし、かと言ってこのまま居座るのも気が引ける。お時間が宜しければカフェーでお茶でも……有名な俳優が出演している新しい映画が公開したらしいので……そういえば以前から服を新調したいと思っていたのですが……
 男は頭を抱えながら、ああでもないこうでもないと独り言をした。その時である。玄関から彼女が出てきたのだ。

「あら、糸色さん。こんにちは」
「こ、こんにちは」
「また、いつもの相談かしら?」
「まあ、そんな感じです。いつもの……」

 そうだ。彼女はよっぽどの事がない限り、自分の話を聞いてくれる。男は既に無様な姿を何度も見られているので、今回も同じようにただ話をすればいいと思った。

「窓から見えていたんですよ。余りに早歩きだったから何か急ぎの用かと思ったのに、中々チャイムが鳴らないんだもの、どうしたのかと思っちゃったわ」

 そう言って彼女は微笑んだ。アーモンドの形をした目が少し細くなるのを見て、男は彼女のまつ毛が長い事に気が付いた。それから、目の色が黒ではなくチョコレートのような色をしている事にも。そうして、矢張り好きだと思った。リビングで彼女がお茶を入れている後ろ姿を見ても、好きだと思った。自分が仕事から帰ってきた時さっきの様な微笑みで迎えられたら、きっと幸せで死んでしまえると思った。

「一つ伺いたい事があるんですが」
「あら、何かしら」
「今、お付き合いをされている方は居ますか?いや、詮索しようなどとは思っていません。ただ……」

 そうして、男が耳に挟んだ噂話をした。彼女はずっと黙って聞いていた。

「それで思ったんです。私は斎さんと一緒に居たいと。もう自分では、どうしようもないんです。ただ、好きなんです。私のような人間に好かれるなど、きっと貴方は嫌だろう。それが分かっていても、この気持ちを消せないんです。だから、それで、今日また死のうと思ったんです。仕様がない程に絶望しているんです。もう、死んでしまいたい。生きていくのが、辛い」
「何も、そんな事で死ななくても良いじゃありませんか。糸色さんは私と一緒に居たい。私も糸色さんと一緒に居たい。ほら、死ぬ程の絶望にしては、ちょっと幸せすぎじゃないかしら。ねえ望さん、本当に死んでしまうの?」

 男は彼女の言葉を聞いて、自分の抱えていた不安や憂鬱、絶望がすっと消えていくのが分かった。

「いいえ、いいえ。死ぬのはずっと後にします。ありがとう、斎さん。私は、貴方と生きていきたい。生きたいんです」
「ええ、私もそうしたいわ。出来れば、長い間ずっと」

 男はもう彼女の家を尋ねる事はなかった。その代わり、下宿先の部屋に住人が一人増えた。男は仕事帰りに、下宿屋を囲む桜の木葉が色付き初めた事に気が付いた。


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