飴と鞭 - 実井
「ねぇ、実井さん」
一つお願いがあるの、と彼女は首を傾げて僕に言った。
「なんです、僕に出来る事ですか?」
「えぇ。ま、貴方でなくてもいいのだけれど、ここには貴方しかいないし。それに」
「それに?」
「他の人はきっと嫌がるだろうから」
「他が嫌がるのに、僕が嫌がるとは思わなかったんですか」
「どうかしら。わからないわ、そんなの。言ってみないと」
「……で、何をしてほしいんです」
「してほしいというかね……私に頬をぶたせてほしいのよ」
この女、一体何を言いだすかと思えば。
「いきなりですね」
「いいえ。ずっと前から考えていましたよ。誰かの頬を平手でこう、パシンとやってしまいたい、とね。ダメかしら?」
「駄目も何も……」
言い渋っていたら、彼女はズイとこちらに寄ってきた。
「いいでしょう?一度だけ、一度だけよ、ね?」
「分かりました、一度だけ。それで貴方が満足するなら」
「えぇ、それでいいのよ」
彼女は思い切り僕の頬を平手で張った。そこに手加減なんて一切なかった。あぁ、今ので口の中を切ったかもしれない。血の味が滲んだ。
「赤くなったわね」
彼女はそう言いながら、親指の腹で腫れた部分をスルリと撫でた。僕は何だか彼女と目を合わせるのに都合が悪くなって、俯いては床のタイルを数えていた。
「ねぇ、こっちを向いて」
彼女の声につられて少し顔を上げたその時、彼女は僕の頬にキスを落とした。あぁ、貴方という人は。本当に、狡い人だ。頬に触れたその温度が。ぬるま湯よりも温かいなんて、そんなの。
女は男よりも、飴と鞭の使い方をよく知っている。
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