人でなしの恋 - 五条悟
五条悟、御存知でいらっしゃいましょう。十年以上前に別れた先の夫なのでございます。こんなに月日が経ちますと、五条と口に出して言って見ましても、一向他人様の様で、あの出来事にしましても、何だかこう、夢ではなかったかしら、なんて思われる程でございます。
五条家へ私がお嫁入りをしましたのは、どうした御縁からでございましたかしら、申すまでもなく、お嫁入り前に、お互に好き合っていたなんて、そんな淫らなのではなく、仲人が母を説きつけて、母が又私に申し聞かせて、それを、おぼこ娘の私は、どう否やが申せましょう。お決まりでございますわ。畳にのの字を書きながら、つい頷いてしまったものでございます。
でも、あの人が私の夫になる方かと思いますと、狭い世界の事で、それに先方も相当の家柄なものですから、顔位は見知っていましたけれど、噂によれば、何となく気難しい方の様だがとか、あんな綺麗な方のことだから、ええ、御承知かも知れませんが、五条というのは、それはそれは、凄い様な美男子で、いいえ、お惚気ではございません。美しいと言います中にも、白い髪や青い目なせいもあったのでございましょう、どこやら陰気で、青白く、透き通る様な、ですから、一層水際立った殿御ぶりだったのでございますが、それが、ただ美しい以上に、何かこう凄い感じを与えたのでございます。
その様に綺麗な方の事ですから、きっと外に美しい娘さんもおありでしょうし、もしそうでないとしましても、私の様なこのお多福が、どうまあ一生可愛がって貰えよう、などと色々取越苦労もしますれば、従ってお友達だとか、召使いなどの、その方の噂話にも聞き耳を立てるといった調子なのでございます。
そんな風にして、段々洩れ聞いた所を寄せ集めて見ますと、心配をしていた、一方の淫らな噂などはこれっぱかりもない代りには、もう一つの気むずかし屋の方は、どうして一通りでない事が分って来たのでございます。いわば変人とでも申すのでございましょう。お友達なども少く、それに一番いけないのは、女嫌いという噂すらあったのでございます。それも、遊びのお付き合いをなさらぬ為の、そんな噂なら別条はないのですけれど、本当の女嫌いらしく、私との縁談にしましてからが、元々親御さん達のお考えで、仲人に立った方は、私の方よりは、却て先方の御本人を説きふせるのに骨が折れたほどだと申すのでございます。
尤もそんなハッキリした噂を聞いた訳ではなく、誰かが一寸口をすべらせたのから、私が、お嫁入りの前の娘の敏感で独合点をしていたのかも知れません。いいえ、いざお嫁入りをして、あんな目にあいますまでは、本当に私の独合点に過ぎないのだと、強いてもそんな風に、こちらに都合の良い様に、気休めを考えていたことでございます。これで、いくらか、うぬぼれもあったのでございますわね。あの時分の娘々した気持を思い出しますと、我ながら可愛らしい様でございます。
一方ではそんな不安を感じながら、でも、隣町の呉服屋へ衣裳の見立に参ったり、それを家中の手で裁縫したり、道具類だとか、細々した手廻りの品々を用意したり、その中へ先方からは立派な結納が届く、お友達にはお祝いの言葉やら、羨望の言葉やら、誰かに会えば冷やかされるのが慣れっこになってしまって、それが又恥かしいほど嬉しくて、家中に満ち満ちた花やかな空気が、十九の娘を、もう有頂天にしてしまったのでございます。
一つは、どの様な変人であろうが、気難し屋さんであろうが、今申す水際立った殿御振に、私はすっかり魅せられていたのでもございましょう。それに又、そんな性質の方に限って、情が濃かなのではないか、私なら私一人を守って、凡ての愛情という愛情を私一人に注ぎつくして、可愛がって下さるのではないか、などと、私はまあなんてお人よしに出来ていたのでございましょう。そんな風に思っても見るのでございました。
初めの間は、遠い先の事の様に、指折数えていた日取りが、夢の間に近づいて、近づくに従って、甘い空想がずっと現実的な恐れに代って、いざ当日、御婚礼の行列が門前に勢揃いをいたします。その行列が又、自慢に申すのではありませんが、十幾つりの私の町にしては飛切り立派なものでしたが、それの中に挟まって、車に乗る時の心持というものは、どなたも味わいなさる事でしょうけれど、本当にもう、気が遠くなる様でございましたっけ、まるで屠所の羊でございますわね。精神的に恐しいばかりでなく、もう身内がずきずき痛む様な、それはもう、何と申してよろしいのやら。
何がどうなったのですか、兎も角も夢中で御婚礼を済せて、一日二日は、夜さえ眠ったのやら眠らなかったのやら、舅姑がどの様な方なのか、召使達が幾人いるか、挨拶もし、挨拶されていながらも、まるで頭に残っていないという有様なのでございます。するともう、里帰り、夫と車を並べて、夫の後姿を眺めながら走っていても、それが夢なのか現なのか。……まあ、私はこんな事ばかりお喋りしていまして、御免下さいまし、肝心の御話がどこかへ行ってしまいますわね。
そうして、御婚礼のごたごたが一段落つきますと、案じるよりは生むが易いと申しますか、五条は噂程の変人というでもなく、却て世間並よりは物柔かで、私などにも、それは優しくしてくれるのでございます。私はほっと安心いたしますと、今までの苦痛に近い緊張が、すっかりほぐれてしまいまして、人生というものは、こんなにも幸福なものであったのかしら、なんて思う様になって参ったのでございます。
それに舅姑御二人とも、お嫁入前に母親が心づけてくれましたことなど、まるで無駄に思われたほど、好い御方ですし、外には、五条は一人子だものですから、小舅などもなく、却て気抜けのする位、御嫁さんなんて気苦労の入らぬものだと思われたのでございました。五条の男ぶりは、いいえ、そうじゃございませんのよ。これがやっぱり、お話の内なのでございますわ。
そうして一緒に暮す様になって見ますと、遠くから、垣間見ていたのと違って、私にとっては、生れて初めての、この世にたった一人の方なのですもの、それは当り前でございましょうけれど、日が経つにつれて、段々立まさって見え、その水際立った男ぶりが、類なきものに思われ初めたのでございます。いいえ、お顔が綺麗だとか、そんなことばかりではありません。恋なんて何と不思議なものでございましょう、五条の世間並を外れた所が、変人という程ではなくても、何とやら憂鬱で、しょっちゅう一途に物を思い続けている様な、しんねりむっつりとした、それで、縹緻はと申せば、今いう透き通る様な美男子なのでございますよ、それがもう、いうにいわれぬ魅力となって、十九の小娘を、散々に責めさいなんだのでございます。ほんとうに世界が一変したのでございます。
二た親の元で育てられていた十九年を現実世界に例えますなら、御婚礼の後の、それが不幸にもたった半年ばかりの間ではありましたけれど、その間はまるで夢の世界か、お伽噺の世界に住んでいる気持でございました。大げさに申しますれば、浦島太郎が乙姫様の御寵愛を受けたという龍宮世界、あれでございますわ、今から考えますと、その時分の私は、本当に浦島太郎の様に幸福だったのでございますわ。世間では、お嫁入りは辛いものとなっていますのに、私のはまるで正反対ですわね。いいえ、そう申すよりは、その辛い所まで行かぬ内に、あの恐ろしい破綻が参ったという方が当たっているのかも知れませんけれど。
その半年の間を、どの様にして暮しました事やら、ただもう楽かったと申す外に、細々した事など忘れても居りますし、それに、このお話には大して関係のない事ですから、お惚気めいた思出話は止しにいたしましょうけれど、五条が私を可愛がってくれました事は、それはもう、世間のどの様な女房思いの御亭主でも、とても真似も出来ない程でございました。無論私は、それをただただ有難いことに思って、いわば陶酔してしまって、何の疑いを抱く余裕もなかったのでございますが、この五条が私を可愛がり過ぎたという事には、後になって考えますと、実に恐しい意味があったのでございます。
といって、何も可愛がり過ぎたのが破綻の元だと申す訳ではありません、あの人は、真心を込めて、私を可愛がろうと努力していたに過ぎないのでございます。それが決して、騙してやろうという様な心持ではなかったのですから、あの人が努力すればするほど、私はそれを真に受けて、真から手頼って行く、身も心も投げ出して縋りついて行く、という訳でございました。
では何故、あの人がそんな努力をしましたか、尤もこれらのことは、ずっとずっと後になって、やっと気付いたのではありますけれど、それには、実に恐ろしい理由があったのでございます。
「変だな」と気が付いたのは、御婚礼から丁度半年ほどたった時分でございました。今から思えば、あの時、五条の力が、私を可愛がろうとする努力が、痛ましくも尽き果ててしまったものに相違ありません。その隙に乗じて、もう一つの魅力が、グングンとあの人を、そちらの方へ引っ張り出したのでございましょう。男の愛というものが、どの様なものであるか、小娘の私が知ろう筈はありません。五条の様な愛し方こそ、全ての男の、いいえ、どの男にも勝った愛し方に相違ないと、長い間信じ切っていたのでございます。
ところが、これほど信じ切っていた私でも、やがて、少しずつ少しずつ、五条の愛に何とやら偽りの分子を含むことを、感づき初めないではいられませんでした。
……………………そのエクスタシイは形の上に過ぎなくて、心では、何か遙なものを追っている、妙に冷い空虚を感じたのでございます。私を眺める愛撫の眼差しの奥には、もう一つの冷い目が、遠くの方を凝視しているのでございます。愛の言葉を囁いてくれます、あの人の声音すら、何とやら虚ろで、機械仕掛の声の様にも思われるのでございます。でも、まさか、その愛情が最初から総て偽りであったなどとは、当時の私には思いも及ばぬ事でした。これはきっと、あの人の愛が私から離れて、どこかの人に移り始めた印ではあるまいか、そんな風に疑って見るのが、やっとだったのでございます。
疑いというものの癖として、一度そうして兆しが現れますと、丁度夕立雲が広がる時の様な、恐しい早さでもって、相手の一挙一動、どんな微細な点までも、それが私の心一杯に、深い深い疑惑の雲となって、群がり立つのでございます。あの時の御言葉の裏にはきっとこういう意味を含んでいたに相違ない。いつやらの御不在は、あれは一体どこへいらっしったのであろう。こんなこともあった、あんなこともあったと、疑い出しますと際限がなく、よく申す、足の下の地面が、突然なくなって、そこへ大きな真暗な空洞が開けて、果て知れぬ地獄へ吸い込まれて行く感じなのでございます。
ところが、それほどの疑惑にも拘らず、私は何一つ、疑い以上の、ハッキリしたものを掴むことは出来ないのでございました。五条が家をあけると申しましても、極く僅の間で、それが大抵は行先が知れているのですし、日記帳だとか手紙類、写真までも、こっそり調べて見ましても、あの人の心持を確め得る様な跡は、少しも見つかりはしないのでございます。ひょっとしたら、娘心の浅はかにも、根もない事を疑って、無駄な苦労を求めているのではないかしら、幾度か、そんな風に反省して見ましても、一度根を張った疑惑は、どう解こうすべもなく、ともすれば、私の存在をさえ忘れ果てた形で、ぼんやりと一つ所を見つめて、物思いに耽っているあの人の姿を見るにつけ、やっぱり何かあるに相違ない、きっときっと、それに極っている。
では、もしや、あれではないのかしら。といいますのは、五条は先から申します様に、非常に気難しい質だものですから、一間にとじ籠って本を読んでいる様な時間が多く、それも、書斎では気が散っていけないと申し、裏に建っていました土蔵の二階へ上って、幸いそこに先祖から伝わった古い書物が沢山積んでありましたので、薄暗い所で、夜などは昔ながらの雪洞をともして、一人ぼっちで書見をするのが、あの人の、もっと若い時分からの、一つの楽みになっていたのでございます。
それが、私が参ってから半年ばかりというものは、忘れた様に、土蔵のそばへ足踏みもしなくなっていたのが、ついその頃になって、又しても、繁々と土蔵へ入る様になって参ったのでございます。この事柄に何か意味がありはしないか。私はふと、そこへ気が付いたのでございました。
土蔵の二階で書見をするというのは少し風変りと申せ、別段咎むべき事でもなく、何の怪しい訳もない、と一応はそう思うのですけれど、又考え直せば、私としましては、出来るだけ気を配って、五条の一挙一動を監視もし、あの人の持物なども検べましたのに、何の変った所もなく、それで、一方ではあの抜けがらの愛情、虚ろの目、そして時には私の存在をすら忘れたかと見える物思いでございましょう。もう蔵の二階を疑いでもする外には、何の手立ても残っていないのでございます。それに妙なのは、あの人が蔵へ行きますのが、極って夜更けなことで、時には隣に寝ています私の寝息を窺う様にして、こっそりと床の中を抜け出して、御小用にでもいらっしったのかと思っていますと、そのまま長い間帰っていらっしゃらない。縁側に出て見れば、土蔵の窓から、ぼんやりと明かりがついているのでございます。何となく凄い様な、言うに言われない感じに打たれることが屡々なのでございます。
土蔵だけは、お嫁入りの当時、一巡中を見せて貰いましたのと時候の変り目に一二度入ったばかりで、たとえ、そこへ五条がとじ籠っていましても、まさか、蔵の中に私を疎疎しくする原因が潜んでいようとも考えられませんので、別段、後をつけて見た事もなく、従って蔵の二階だけが、これまで、私の監視を脱れていたのでございますが、それをすら、今は疑いの目を以て見なければならなくなったのでございます。
お嫁入りをしましたのが春の半、夫に疑いを抱き始めましたのがその秋の丁度名月時分でございました。今でも不思議に覚えていますのは、五条が縁側に向うむきに蹲って、青白い月光に洗われながら、長い間じっと物思いに耽っていた、あの後ろ姿、それを見て、どういう訳か、妙に胸を打たれましたのが、あの疑惑の切っ掛けになったのでございます。それから、やがてその疑いが深まって行き、遂には、浅ましくも、五条の後をつけて、土蔵の中へ入るまでになったのが、その秋の終りの事でございました。
何というはかない縁でありましょう。あの様にも私を有頂天にさせた、夫の深い愛情が(先にも申す通り、それは決して本当の愛情ではなかったのですけれど)たった半年の間に冷めてしまって、私は今度は玉手箱をあけた浦島太郎の様に、生れて初めての陶酔境から、ハッと眼覚めると、そこには恐しい疑惑と嫉妬の、無限地獄が口を開いて待っていたのでございます。でも最初は、土蔵の中が怪しいなどとハッキリ考えていた訳ではなく、疑惑に責められるまま、たった一人の時の夫の姿を垣間見て、出来るならば迷いを晴らしたい、どうかそこに私を安心させる様なものがあってくれます様にと祈りながら、一方ではその様な泥坊じみた行いが恐しく、といって一度思い立った事を、今更中止するのは、どうにも心残りなままに、ある晩のこと、袷一枚ではもう肌寒い位で、この頃まで庭に鳴きしきっていました、秋の虫共も、いつか声を潜め、それに丁度闇夜で、庭下駄で土蔵への道々、空を眺めますと、星は綺麗でしたけれど、それが非常に遠く感じられ、不思議と物淋しい晩の事でありましたが、私はとうとう、土蔵へ忍びこんで、そこの二階にいる筈の夫の隙見を企てたのでございます。もう母屋では、御両親をはじめ召使達も、とっくに床についておりました。
田舎町の広い屋敷の事でございますから、まだ十時頃というのに、しんと静まり返って、蔵まで参りますのに、真っ暗な茂みを通るのが、怖い様でございました。その道が又、御天気でもじめじめした様な地面で、茂みの中には、大きな蝦蟇が住んでいて、グルルル……グルルル……と嫌な鳴き声さえ立てるのでございましょう。それをやっと辛抱して、蔵の中へ辿り着いても、そこも同じ様に真っ暗で、樟脳の仄かな薫りに混って、冷い、かび臭い蔵特有の一種の匂いが、ゾーッと身を包むのでございます。
もし心の中に嫉妬の火が燃えていなかったら、十九の小娘に、どうまああの様な真似が出来ましょう。本当に恋ほど恐しいものはございませんわね。
闇の中を手探りで、二階への階段まで近づき、そっと上を覗いて見ますと、暗いのも道理、梯子段を上った所の落し戸が、ピッタリ締っているのでございます。私は息を殺して、一段一段と音のせぬ様に注意しながら、やっとの事で梯子の上まで昇り、ソッと落し戸を押し試みて見ましたが、五条の用心深いことには、上から締りをして、開かぬ様になっているではございませんか。ただ御本を読むのなら、何も錠まで卸さなくてもと、そんな一寸した事までが気懸りの種になるのでございます。どうしようかしら。ここを叩いて開けて頂こうかしら。いやいや、この夜更けに、そんな事をしたなら、はしたない心の内を見すかされ、猶更疎んじられはしないかしら。でも、この様な、蛇の生殺しの様な状態が、いつまでも続くのだったら、とても私には耐えられない。一そ思い切って、ここを開けて頂いて、母屋から離れた蔵の中を幸いに、今夜こそ、日頃の疑いを夫の前にさらけ出して、あの人の本当の心持を聞いて見ようかしら。などと、とつおいつ思い惑って、落し戸の下に佇んでいました時、丁度その時、実に恐ろしい事が起こったのでございます。
その晩、どうして私が蔵の中へなど参ったのでございましょう。夜更けに蔵の二階で、何事のあろう筈もないことは、常識で考えても分りそうなものですのに、本当に馬鹿馬鹿しい様な、疑心暗鬼から、ついそこへ参ったというのは、理窟では説明の出来ない、何かの感応があったのでございましょうか。俗にいう虫の知らせでもあったのでございましょうか。この世には、時々常識では判断のつかない様な、意外な事が起るものでございます。
その時、私は蔵の二階から、ひそひそ話の声を、それも男女二人の話声を、洩れ聞いたのでございました。男の声は言うまでもなく五条のでしたが、相手の女は一体全体何者でございましょうか。まさかまさかと思っていました、私の疑いが、余りに明かな事実となって現れたのを見ますと、世慣れぬ小娘の私は、ただもうハッとして、腹立たしいよりは恐ろしく、恐ろしさと、身も世もあらぬ悲しさに、ワッと泣き出したいのを、僅に食い締めて、瘧の様に身を戦かせながら、でも、そんなでいて、やっぱり上の話声に聞き耳を立てないではいられなかったのでございます。
「この様な逢瀬を続けていては、私、あなたの奥様に済みませんわね」
細々とした女の声は、それが余りに低い為に、殆ど聞き取れぬ程でありましたが、聞えぬ所は想像で補って、やっと意味を取る事が出来たのでございます。声の調子で察しますと、女は私よりは三つ四つ年かさで、しかし私の様にこんな太っちょうではなく、ほっそりとした、丁度、泉鏡花の小説に出て来る様な、夢の様に美しい方に違いないのでございます。
「僕もそれを思わないではないんだけどね」
と、五条の声が言うのでございます。
「いつも言って聞かせてる通り、僕はもう出来るだけの事をしてるし、あの子を愛しようと努力もした。それでも、悲しい事に、それがやっぱり駄目なんだよ。若い時から馴染を重ねたお前の事の方が、どう思い返したって、僕には諦められないんだ。あの子には申し訳が立たないけどさ、そう思いながら、やっぱり、僕はこうして、毎日お前の顔を見ないと気が済まないんだ。お願いだ、頼むから、僕の心の内を察して欲しい」
五条の声ははっきりと、妙に切口上に、せりふめいて、私の心に食い入る様に響いて来るのでございます。
「嬉しうございます。あなたの様な美しい方に、あの御立派な奥様を差し置いて、それ程に思って頂くとは、私はまあ、何という果報者でしょう。嬉しうございますわ」
そして、極度に鋭敏になった私の耳は、女が五条の膝にでも凭れたらしい気勢を感じるのでございます。……………………………………………………………………………………まあ御想像なすっても下さいませ。私のその時の心持がどの様でございましたか。もし今の年でしたら、何の構う事があるものですか、いきなり、戸を叩き破ってでも、二人のそばへ駈込んで、恨み辛みのありったけを、並べもしたでしょうけれど、何を申すにも、まだ小娘の当時では、とてもその様な勇気が出るものではございません。込み上げて来る悲しさを、袂の端で、じっと押えて、おろおろと、その場を立去りも得せず、死ぬる思いを続けた事でございます。やがて、ハッと気がつきますと、ハタハタと、板の間を歩く音がして、誰かが落し戸の方へ近づいて参るのでございます。今ここで顔を合わせては、私にしましても、又先方にしましても、あんまり恥かしい事ですから、私は急いで梯子段を下ると、蔵の外へ出て、その辺の暗闇へ、そっと身を潜め、一つには、そうして女の顔をよく見覚えてやりましょうと、恨みに燃える目を見張ったのでございます。ガタガタと、落し戸を開く音がして、パッと明りがさし、雪洞を片手に、それでも足音を忍ばせて下りて来ましたのは、まごう方なき私の夫、その後に続く奴めと、息巻いて待てど暮せど、もうあの人は、蔵の大戸をガラガラと締めて、私の隠れている前を通り過ぎ、庭下駄の音が遠ざかっていったのに、女は下りて来る気勢もないのでございます。蔵の事ゆえ一方口で、窓はあっても、皆金網で張りつめてありますので、外に出口はない筈。それが、こんなに待っても、戸の開く気勢も見えぬのは、余りといえば不思議な事でございます。
第一、五条が、そんな大切な女を一人、後に残して、立去る訳もありません。これはもしや、長い間の企らみで、蔵のどこかに、秘密な抜け穴でも拵えてあるのではなかろうか。そう思えば、真っ暗な穴の中を、恋に狂った女が、男に会いたさ一心で、怖わさも忘れ、ゴソゴソと匍っている景色が幻の様に目に浮かび、その幽かな物音さえも聞える様で、私は俄に、そんな闇の中に一人でいるのが怖わくなったのでございます。また夫が私の居ないのを不審に思ってはと、それも気がかりなものですから、兎も角も、その晩は、それだけで、母屋の方へ引返す事にいたしました。
それ以来、私は幾度闇夜の蔵へ忍んで参った事でございましょう。そして、そこで、夫達の様々の睦言を立聞きしては、どの様に、身も世もあらぬ思いをいたした事でございましょう。その度毎に、どうかして相手の女を見てやりましょうと、色々に苦心をしたのですけれど、いつも最初の晩の通り、蔵から出て来るのは夫の五条だけで、女の姿なぞはチラリとも見えはしないのでございます。
ある時はマッチを用意して行きまして、夫が立去るのを見すまし、ソッと蔵の二階へ上って、マッチの光でその辺を探し廻った事もありましたが、どこへ隠れる暇もないのに、女の姿はもう影も差さぬのでございます。またある時は、夫の隙を窺って、昼間、蔵の中へ忍び込み、隅から隅を覗き廻って、もしや抜け道でもありはしないか、又ひょっとして、窓の金網でも破れてはしないかと、様々に検べて見たのですけれど、蔵の中には、鼠一匹逃げ出す隙間も見当たらぬのでございました。何という不思議でございましょう。それを確めますと、私はもう、悲しさ口惜しさよりも、いうにいわれぬ不気味さに、思わずゾッとしないではいられませんでした。そうしてその翌晩になれば、どこから忍んで参るのか、やっぱり、いつもの艶めかしい囁き声が、夫との睦言を繰返し、又幽霊の様に、いずことも知れず消え去ってしまうのでございます。もしや何かの生霊が、五条に魅入っているのではないでしょうか。どことなく普通の人と違った所のある、氷を思わせる様な五条には(それ故に又、私はあれ程も、あの人に魅せられていたのかも知れません)そうした、生霊という様な、異形のものが、魅入り易いのではありますまいか。などと考えますと、はては、五条自身が、何かこう魔性のものにさえ見え出して、何とも形容の出来ない、変な気持になって参るのでございます。より一層、里へ帰って、一伍一什を話そうか、それとも、五条の親御さま達に、この事をお知らせしようか、私は余りの怖わさ不気味さに幾度かそれを決心しかけたのですけれど、でも、まるで雲を掴む様な、怪談めいた事柄を、迂闊に言い出しては頭から笑われそうで、却て恥をかく様な事があってはならぬと、娘心にもヤッと堪えて、一日二日と、その決心を延ばしていたのでございます。
考えて見ますと、その時分から、私は随分きかん坊でもあったのでございますわね。そして、ある晩のことでございました。私はふと妙な事に気付いたのでございます。それは、蔵の二階で、五条達のいつもの逢瀬が済みまして、五条がいざ二階を下りるという時に、パタンと軽く、何かの蓋の閉まる音がして、それから、カチカチと錠前でも卸すらしい気勢がしたのでございます。よく考えて見れば、この物音は、ごく幽かではありましたが、いつの晩にも必ず聞いた様に思われるのでございます。蔵の二階でそのような音を立てるものは、そこに幾つも並んでいます長持の外にはありません。さては相手の女は長持の中に隠れているのではないかしら。生きた人間なれば、食事も摂らなければならず、第一、息苦しい長持の中に、そんな長い間忍んでいられよう道理はない筈ですけれど、なぜか、私には、それがもう間違いのない事実の様に思われて来るのでございます。そこへ気が付きますと、もうじっとしてはいられません。
どうかして、長持の鍵を盗み出して、長持の蓋をあけて、相手の女を見てやらないでは気が済まぬのでございます。なあに、いざとなったら、食いついてでも、引っ掻いてでも、あんな女に負けてなるものか、もうその女が長持の中に隠れていると決まりでもした様に、私は歯ぎしりを噛んで、夜の明けるのを待ったものでございます。
その翌日、五条の手文庫から鍵を盗み出すことは、案外易々と成功いたしました。その時分には、私はもうまるで夢中ではありましたけれど、それでも、十九の小娘にしましては、身に余る大仕事でございました。それまでとても、眠られぬ夜が続き、さぞかし顔色も青ざめ、身体も痩せ細っていた事でありましょう。幸い御両親とは離れた部屋に起き伏していましたのと、夫の五条は、あの人自身の事で夢中になっていましたのとで、その半月ばかりの間を、怪しまれもせず過ごす事が出来たのでございます。
さて、鍵を持って、昼間でも薄暗い、冷たい土の匂いのする、土蔵の中へ忍び込んだ時の気持、それがまあ、どんなでございましたか。よくまああの様な真似が出来たものだと、今思えば、一そ不思議な気もするのでございます。ところが鍵を盗み出す前でしたか、それとも蔵の二階へ上りながらでありましたか、千々に乱れる心の中で、私はふと滑稽な事を考えたものでございます。どうでもよいことではありますけれど、ついでに申上げて置きましょうか。
それは、先日からのあの話声は、もしや五条が独で、声色を使っていたのではないかという疑いでございました。まるで落し話の様な想像ではありますが、例えば小説を書きます為とか、お芝居を演じます為とかに、人に聞えない蔵の二階で、そっと台詞のやり取りを稽古していらしったのではあるまいか、そして、長持の中には女なぞではなくて、ひょっとしたら、芝居の衣裳でも隠してあるのではないか、という途方もない疑いでございました。ほほほほほほ。私はもうのぼせ上っていたのでございますわね。意識が混乱して、ふとその様な、我身に都合の良い妄想が、浮かび上る程、それ程私の頭は乱れ切っていたのでございます。何故と申して、あの睦言の意味を考えましても、その様な馬鹿馬鹿しい声色を使う人が、どこの世界にあるものでございますか。
五条家は町でも知られた旧家だものですから、蔵の二階には、先祖以来の様々の古めかしい品々が、まるで骨董屋の店先の様に並んでいるのでございます。
三方の壁には今申す丹塗りの長持が、ズラリと並び、一方の隅には、昔風の縦に長い本箱が、五つ六つ、その上には、本箱に入り切らぬ黄表紙、青表紙が、虫の食った背中を見せて、埃まみれに積み重ねてあります。棚の上には、古びた軸物の箱だとか、大きな紋のついた両掛け、葛籠の類、古めかしい陶器類、それらに混って、異様に目を惹きますのは、鉄漿の道具だという、巨大なお椀の様な塗物、塗り盥、それには皆、年数がたって赤くなってはいますけれど、一々金紋が蒔絵になっているのでございます。それから一番不気味なのは、階段を上ったすぐの所に、まるで生きた人間の様に鎧櫃の上に腰かけている、二つの飾り具足、一つは黒糸縅のいかめしいので、もう一つはあれが緋縅と申すのでしょうか、黒ずんで、所々糸が切れてはいましたけれど、それが昔は、火の様に燃えて、さぞかし立派なものだったのでございましょう。兜もちゃんと頂いて、それに鼻から下を覆う、あの恐ろしい鉄の面までも揃っているのでございます。昼でも薄暗い蔵の中で、それをじっと見ていますと、今にも籠手、脛当が動き出して、丁度頭の上に懸けてある、大身の槍を取るかとも思われ、いきなりキャッと叫んで、逃げ出したい気持さえいたすのでございます。
小さな窓から、金網を越して、淡い秋の光がさしてはいますけれど、その窓があまりに小さいため、蔵の中は、隅の方になると、夜の様に暗く、そこに蒔絵だとか、金具だとかいうものだけが、魑魅魍魎の目の様に、怪しく、鈍く、光っているのでございます。その中で、あの生霊の妄想を思い出しでもしようものなら、女の身で、どうまあ辛抱が出来ましょう。その怖わさ恐ろしさを、やっと堪えて、兎も角も、長持を開くことが出来ましたのは、やっぱり、恋という曲者の強い力でございましょうね。まさかそんな事がと思いながら、でも何となく薄気味悪くて、一つ一つ長持の蓋を開く時には、身体中から冷いものが滲み出し、ハッと息も止まる思いでございました。ところが、その蓋を持上げて、まるで棺桶の中でも覗く気で、思い切って、グッと首を入れて見ますと、予期していました通り、或は予期に反して、どれもこれも古めかしい衣類だとか、夜具、美しい文庫類などが入っているばかりで、何の疑わしいものも出ては来ないのでございます。
でも、あの極った様に聞えて来た、蓋のしまる音、錠前のおりる音は、一体何を意味するのでありましょう。おかしい、おかしいと思いながら、ふと目にとまったのは、最後に開いた長持の中に、幾つかの白木の箱がつみ重なっていて、その表に、床しいお家流で「お雛様」だとか「五人囃子」だとか「三人上戸」だとか、書き記してある、雛人形の箱でございました。
私は、どこにも怪しいものがいないことを確めて、いくらか安心していたのでもありましょう、その際ながら、女らしい好奇心から、ふとそれらの箱を開けて見る気になりました。一つ一つ外に取り出して、これがお雛様、これが左近の桜、右近の橘と、見て行くに従って、そこに、樟脳の匂いと一緒に、何とも古めかしく、物懐しい気持が漂って、昔物のきめの濃やかな人形の肌が、いつとなく、私を夢の国へ誘って行くのでございました。
私はそうして、暫くの間は、雛人形で夢中になっていましたが、やがてふと気がつきますと、長持の一方の側に、外のとは違って、三尺以上もある様な長方形の白木の箱が、さも貴重品といった感じで、置かれてあるのでございます。その表には、同じくお家流で「拝領」と記されてあります。何であろうと、そっと取り出して、それを開いて中の物を一目見ますと、ハッと何かの気に打たれて、私は思わず顔を背けたのでございます。そして、その瞬間に霊感というのは、ああした場合を申すのでございましょうね、数日来の疑いが、もう、すっかり解けてしまったのでございます。
それ程私を驚かせたものが、ただ一個の人形に過ぎなかったと申せば、あなたはきっと「なあんだ」とお笑いなさるかも知れません。ですが、それは、あなたが、まだ本当の人形というものを、昔の人形師の名人が精根を尽くして、拵え上げた芸術品を、御存知ないからでございます。あなたはもしや、博物館の片隅なぞで、ふと古めかしい人形に出あって、その余りの生々しさに、何とも知れぬ戦慄をお感じなすった事はないでしょうか。それが若し女児人形や稚児人形であった時には、それの持つ、この世の外の夢の様な魅力に、びっくりなすった事はないでしょうか。あなたは御みやげ人形といわれるものの、不思議な凄味を御存知でいらっしゃいましょうか。或は又、往昔衆道の盛んでございました時分、好き者達が、馴染の色若衆の似顔人形を刻ませて、日夜愛撫したという、あの奇態な事実を御存知でいらっしゃいましょうか。いいえ、その様な遠い事を申さずとも、例えば、文楽の浄瑠璃人形にまつわる不思議な伝説、近代の名人安本亀八の生人形なぞを御承知でございましたなら、私がその時、ただ一個の人形を見て、あの様に驚いた心持を、十分御察し下さる事が出来ると存じます。
私が長持の中で見つけました人形は後になって、五条のお父さまに、そっと御尋ねして知ったのでございますが、殿様から拝領の品とかで、安政の頃の名人形師立木と申す人の作と申すことでございます。俗に京人形と呼ばれておりますけれど、実は浮世人形とやらいうものなそうで、身の丈三尺余り、十歳ばかりの小児の大きさで、手足も完全に出来、頭には昔風の島田を結い、昔染の大柄友染が着せてあるのでございます。これも後に伺ったのですけれど、それが立木という人形師の作風なのだそうで、そんな昔の出来にも拘らず、その女児人形は、不思議と近代的な顔をしているのでございます。
真ッ赤に充血して何かを求めている様な、厚味のある唇、唇の両脇で二段になった豊頬、物いいたげにパッチリ開いた二重瞼、その上に大様に頬笑んでいる濃い眉、そして何よりも不思議なのは、羽二重で紅綿を包んだ様に、ほんのりと色づいている、微妙な耳の魅力でございました。その花やかな、情慾的な顔が、時代のために幾分色があせて、唇の外は妙に青ざめ、手垢がついたものか、滑かな肌がヌメヌメと汗ばんで、それゆえに、一層悩ましく、艶かしく見えるのでございます。
薄暗く、樟脳臭い、土蔵の中で、その人形を見ました時には、ふっくらと恰好よく膨らんだ乳のあたりが、呼吸をして、今にも唇がほころびそうで、その余りの生々しさに私はハッと身震を感じた程でありました。まあ何という事でございましょう、私の夫は、命のない、冷たい人形を恋していたのでございます。この人形の不思議な魅力を見ましては、もう、その外に謎の解き様はありません。人嫌いな夫の性質、蔵の中の睦言、長持の蓋のしまる音、姿を見せぬ相手の女、色々の点を考え合せて、その女と申すのは、実はこの人形であったと解釈する外はないのでございます。
これは後になって、二三の方から伺った事を、寄せ集めて、想像しているのでございますが、五条は生れながらに夢見勝ちな、不思議な性癖を持っていて、人間の女を恋する前に、ふとしたことから、長持の中の人形を発見して、それの持つ強い魅力に魂を奪われてしまったのでございましょう。あの人は、ずっと最初から、蔵の中で本なぞ読んではいなかったのでございます。ある方から伺いますと、人間が人形とか仏像とかに恋した試しは、昔から決して少くはないと申します。不幸にも私の夫がそうした男で、更に不幸な事には、その夫の家に偶然稀代の名作人形が保存されていたのでございます。
人でなしの恋、この世の外の恋でございます。
その様な恋をするものは、一方では、生きた人間では味わうことの出来ない、悪夢の様な、或は又お伽噺の様な、不思議な歓楽に魂を痺らせながら、しかし又一方では、絶え間なき罪の苛責に責められて、どうかしてその地獄を逃れたいと、焦り藻掻くのでございます。
五条が、私を娶ったのも、無我夢中に私を愛しようと努めたのも、皆その儚い苦悶の跡に過ぎぬのではございませんか。そう思えば、あの睦言の「あの子には申し訳が立たない云々」という、言葉の意味も解けて来るのでございます。夫が人形のために女の声色を使っていた事も、疑う余地はありません。ああ、私は、何という月日の下に生れた女でございましょう。
さて、私の懺悔話と申しますのは、実はこれから後の、恐ろしい出来事についてでございます。長々とつまらないお喋りをしました上に「まだ続きがあるのか」と、さぞうんざりなさいましょうが、いいえ、御心配には及びません。その要点と申しますのは、ほんの僅かな時間で、すっかりお話出来ることなのでございますから。びっくりなすってはいけません。
その恐ろしい出来事と申しますのは、実はこの私が人殺しの罪を犯したお話でございます。その様な大罪人が、どうして処罰をも受けないで安穏に暮しているかと申しますと、その人殺しは私自身直接に手を下した訳でなく、いわば間接の罪なものですから、たとえあの時私が全てを自白していましても、罪を受ける程の事はなかったのでございます。とはいえ、法律上の罪はなくとも、私は明かにあの人を殺そうとした下手人でございます。それを、娘心の浅はかにも、一時の恐れに取り逆上て、つい白状しないで過ごしました事は、返す返すも申訳なく、それ以来ずっと今日まで、私は一夜として安らかに眠った事はありません。今こうして懺悔話をいたしますのも、先の夫への、せめてもの罪亡ぼしでございます。しかし、その当時の私は、恋に目がくらんでいたのでございましょう。私の恋敵が、相手もあろうに生きた人間ではなくて、いかに名作とはいえ、冷い一個の人形だと分りますと、そんな無生の泥人形に見返られたかと、もう口惜しくて口惜しくて、口惜しいよりは畜生道の夫の心が浅間しく、もしこの様な人形がなかったなら、こんな事にもなるまいと、はては立木という人形師さえ恨めしく思われるのでございます。
エエ、ままよこの人形の、艶かしい這面を、叩きのめし、手足を引ちぎってしまったなら、五条とてまさか相手のない恋も出来はすまい。そう思うと、もう一ときも猶予がならず、その晩、念のために、もう一度夫と人形との逢瀬を確めた上、翌早朝、蔵の二階へ駈上って、とうとう人形を滅茶滅茶に引ちぎり目も鼻も口も分らぬ様に叩き潰してしまったのでございます。こうして置いて、夫の素振りを注意すれば、まさかそんな筈はないのですけれど私の想像が間違っていたかどうかも分る訳なのでございます。
そうして丁度人間の轢死人の様に、人形の首、胴、手足とばらばらになって、昨日に変る醜い骸を晒しているのを見ますと、私はやっと胸をさすることが出来たのでございます。
その夜、何も知らぬ五条は、又しても私の寐息を窺いながら、雪洞をつけて、縁外の闇へと消えました。申すまでもなく人形との逢瀬を急ぐのでございます。私は眠ったふりをしながら、そっとその後姿を見送って、一応は小気味の良い様な、しかし又何となく悲しい様な、不思議な感情を味わった事でございます。人形の死骸を発見した時、あの人はどの様な態度を示すでしょう。異常な恋の恥かしさに、そっと人形の骸を取り片づけて、そ知らぬふりをしているか、それとも、下手人を探し出して、怒りつけるか、怒りのまま叩かれようと、怒鳴られようと、もしそうであったなら、私はどんなに嬉しかろう。五条が怒るからには、あの人は人形と恋なぞしていなかった印なのですもの。私はもう気もそぞろに、じっと耳をすまして、土蔵の中の気勢を窺ったのでございます。そうして、どれほど待ったことでしょう。待っても待っても、夫は帰って来ないのでございます。壊れた人形を見た上は、蔵の中に何の用事もない筈のあの人が、もういつも程の時間も経ったのに何故帰って来ないのでしょう。もしかしたら、相手はやっぱり人形ではなくて、生きた人間だったのでありましょうか。それを思うと気が気でなく、私はもう辛抱がしきれなくて、床から起き上りますと、もう一つの雪洞を用意して、闇のしげみを蔵の方へと走るのでございました。
蔵の梯子段を駈上りながら、見れば例の落し戸は、いつになく開いたまま、それでも上には雪洞がともっていると見え、赤茶けた光りが、階段の下までも、ぼんやり照しております。ある予感にハッと胸を躍らせて、一飛びに階上へ飛上って、「旦那様」と叫びながら、雪洞のあかりに透かして見ますと、ああ私の不吉な予感は適中したのでございました。
そこには夫のと、人形のと、二つの骸が折り重なって、板の間は血潮の海、二人のそばに家重代の名刀が、血を啜って転がっているのでございます。
人間と土くれとの情死、それが滑稽に見えるどころか、何とも知れぬ厳粛なものが、サーッと私の胸を引しめて、声も出ず涙も出ず、ただもう茫然と、そこに立ち尽くす外はないのでございました。
見れば、私に叩きひしがれて、半残った人形の唇から、さも人形自身が血を吐いたかの様に、血潮の飛沫が一雫、その首を抱いた夫の腕の上へタラリと垂れて、そして人形は、断末魔の不気味な笑いを笑っているのでございました。
夫の骸に近付いてみると、まだ薄く呼吸を繰り返していましたから、私は慌てて召使いを呼びました。
それからの事は、私自身が呆然としておりましたから、良く覚えていないのですけれど、誰かが呼んだのでしょう、お医者の先生が必死になって五条の治療をしておりました。そのお陰か、五条は一命を取り留めたのですが、普段から人間離れした様相でしたのに、より一層の人外めいた美しさで、日がな一日、何もせずにただ呼吸をするだけの毎日を送っておりました。その様な状況でしたので、五条の親御さま達は私を哀れに思ったのか、離縁し実家へ帰る事を勧めてきました。
こうして、私と五条の結婚生活は、呆気なく幕を引いたのでございます。その原因となるあの人形の顔を、私は今この瞬間まで忘れる事が出来ないでおります。そして、私が死ぬその瞬間まで付き纏うのでございましょう。
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