グッド・バイ - 五条悟
呪術界の重鎮の一人、ある老大家が亡くなって、その告別式の終わり頃から、雨が降り始めた。早春の小糠雨である。その帰り、二人の男が傘も指さずに歩いている。いずれも、その逝去した老大家には、お義理一遍、話題は女についての極めて不謹慎なこと。
喪服を着た厳つい見た目の男は、東京都立呪術高等専門学校で学長を務めている。夜蛾正道一級術師。それよりずっと若い、ロイド型のサングラス、全身を黒で統一した白髪碧眼の好男子は、同学校で教鞭を執っている。五条悟特級術師。あの人も、と夜蛾は言う。
「女好きだったらしいな。お前も、そろそろ年貢の納め時じゃないのか。ご実家も黙ってはいないだろう」
「あー。ま、そうね。そろそろ落ち着くべきだよね。分かってる、分かってる。やめるつもりだよ、全部ね」
五条は他人のことのように言う。全部、やめるつもり。しかし、それは、まんざら嘘ではなかった。何かしら変わってきていたのである。親友をこの手で殺して以来、一年が経って、どこやら変わった。二十八歳、呪術界最強とまで呼ばれる特級術師。呪術御三家が一つ、五条家の当主。京都出身だが言葉に関西の訛りはなく、実家については殆ど語らない。もともと抜け目のない男で、五条の当主は世間様へのお体裁、家ぐるみでそこそこの悪事にも手を染めている。それは呪術界全体がそうなっているので、致し方がないとも言えるが。己の夢を叶えるためには、多少のことにも目を瞑る。目的のためなら手段を選ぶな。イタリア、ルネサンス期の政治思想家、ニッコロ・マキャヴェッリの著書『君主論』にそう書いてあった。上層部の連中とやり合うには、真正面切ったやり方では、どうにもならないと学習した。
酒は一滴も飲まないが、愛人を十人近く養っているという噂。噂、というか事実である。しかし、世の中が何かしら変わってきたせいか、呪霊の数は増え続け、万年人手不足に加え、その呪霊の質も上がってきている。五条でなければ対処できない案件があまりに多すぎて、愛人にかける時間が取れないのだ。もう面倒だとすら思うようになってきた。色即是空、酒は飲めない体質だし、女遊びも楽しめなくなった。いっそのこと、田舎に小さい家を一軒買って、隠居してやろうか。という思いが、ふと胸をかすめて通ることがあった。そして次の瞬間には、いやいや、僕の可愛い生徒たちを導いてやらねば、隠居なんぞ、まだまだしてやるものか、腐った蜜柑どもに一泡吹かせて慌ただしくしている所を突いて呪術界のシステムを書き換えてやるのだ、と首を左右に振り馬鹿な考えを飛ばした。それについて、差し当っての難関。
まず、愛人たちと上手に別れなければならない。下手をすると相手の首が飛ぶかもしれないのだ。相手だけならまだしも、相手の家族まで被害が及ぶ可能性もある。ああ、面倒だな。思いがそこに至ると、さすが、抜け目のない彼も途方に暮れて、ため息が出るのだ。
「……上手いことやれよ」
夜蛾は苦虫を噛み潰したような顔でそれだけ言うと、あとは押し黙って、散ってゆく梅の花弁を眺めるばかり。五条は泣きたくなった。思えば、思うほど、自分一人の力では到底、処理の仕様がない。金で済む話なら、わけないけれども、女たちが、それで引き下がるようにも思えない。
「今思うとさ、僕、ちょっと狂ってたのかもしれない。なんかもう、手を広げすぎて……」
この厳つい見た目の男に、全て打ち明け相談してみようかしらと、ふと思う。脳内でもう一人の自分が、こう囁いた。おいおい、相手は元担任だぜ?そんな相手にこんな話、フツーするか?オマエ、馬鹿じゃねえの。全くもって、その通りである。正気に戻れよ、五条悟。自分の奔放な性生活で起きたゴタゴタを、元担任、現上司に処理させるのか?テメーのケツもテメーで拭けないガキじゃねんだからさ。脳内で五条さんと悟くんの主要国首脳会議、G2サミットが開催された。
「案外、殊勝な事を言うんだな。もっとも、多情な奴に限って変に道徳におびえ、そこがまた、女に好かれる所以でもあるんだろうが。男振りがよくて、金があって、何より若い。おまけに優しいと来たらな。お前の方でやめるつもりでも、先方が承知しないだろう」
「……そうなんだよなあ!」
五条は髪をかきあげて、サングラスの隙間から横目に灰色の空を見上げた。
「とんだ色男になったもんだ。クソガキのままならもっとマシだったろうに」
倫理も道徳もドブに捨てたような性格をしているが、夜蛾の指摘したように、五条という男は多情のくせに、また女に変に律儀な一面を持っていて、女たちは、それゆえ少しも心配せずに五条に深く頼っているらしい様子。
「なんか、いい案ない?」
「ないな。五、六年ほど海外任務にでも行けばいいだろうが、そうなると日本が終わる。いっそ、相手を全員、一室に呼び集めて卒業証書でも渡せ」
身も蓋もない。まるで相談にも何にもならない。
「悲劇か喜劇か。いや、茶番だな。滑稽の極み。誰もお前に同情せんだろう。どこかから、すごい美人を見つけてきて、それを連れて相手を一人ずつ訪ねればいい」
溺れる者は藁をも掴むとは、このことか。五条は少し気が動いた。例え、その提案がどれだけマヌケであったとしても。五条はやってみる気になった。
しかし、ここにも難関がある。すごい美人。そこそこ美人なら探さずとも向こうの方からやってくるが、すごいほど美しい、という女は伝説以外に存在しているものかどうか、疑わしい。もともと五条は器量自慢な上に、五条家が育てた審美眼がある。彼の現在のいわゆる愛人たちも、それぞれかなりの美人ばかりではあったが、しかし、すごいほどの美人、というのは、どこにも居ないようであった。しかし、自分にも、他の名案らしいものはちっとも浮かばない。まず、試みよ。ひょっとしたらどこかの人生の片すみに、そんなすごい美人が転がっているかもしれない。
サングラスの奥の彼の眼は、にわかにキョロキョロと動きはじめる。喫茶店、バー、いない、いない。デパート、映画館、いるはずがない。インターネットでミス何とかを調べたりもしたが、五条のお眼鏡にかなう相手はどこにもいない。
獲物は帰り道に現れる。彼はもう絶望しかけて、夕暮の新宿駅裏の飲み屋街をすこぶる憂鬱な顔をして歩いていた。彼のいわゆる愛人たちのところを訪問してみる気も起らぬ。思い出すさえ、ぞっとする。別れなければならぬ。
「五条さん?」
出し抜けに背後から呼ばれて、飛び上らんばかりに、ぎょっとした。
「うわ、羽柴の……」
彼は、その女を知っていた。五条家と心底、仲が悪いお家柄の羽柴家。そこの一人娘だ。名は斎、だったはず。仲が悪いとは言ったものの、本人同士は別にそんなこともなく、ただ何となく気まずい。できれば顔を合わせたくないな、というくらいの仲だ。誰だったか、呪術界のロミオとジュリエットだなどと揶揄われたことがあったが、本人たちからすれば、はた迷惑な話だった。
「へえ?」
と見直した。まさに、お見それ申したわけであった。とんでもないシンデレラ姫である。何の用があったか知らぬが、普段とはかけ離れた格好をしている。派手すぎないメイクに洋装の好みも高雅。体がほっそりして、手足が可憐に小さく、二十三、四、いや、五、六、顔は愁いを含んで、梨の花の如く幽かに青く、まさしく高貴、すごい美人。家同士の仲の悪さは傷だが、それは沈黙を固く守らせておればいい。使える。馬子にも衣裳というが、ことに女は、その装い一つで、何が何やらわけの分からぬくらいに変る。元来、化け物なのかも知れない。しかし、この女のように、こんなに見事に変身できる女も珍しい。
「また新しいパトロンを捕まえたんでしょ。いい趣味してるよ、マジで。そんな服、持ってなかっただろ」
「いやなこと言う」
男に財布を出させるのが上手い女である。きっとそうに違いない。
「君に頼みたいことがあるんだけどさ」
「あなたは、ケチで値切ってばかりいるから……」
「いや、仕事の話じゃない。君は相変わらず男をたらしこんでるわけだ」
「当たり前でしょ。そうしなきゃ食べていけないもの」
言うことが、いちいちゲスである。五条の言えたことではなかったが。
「そんな身なりでもないだろ」
「それはそうだけど。女だもん。たまには、着飾って映画も見たいと思うのは普通でしょ?」
「今日は映画か?」
「そう。もう見て来たの。あれ、何ていったかな、今やってる洋画……」
「ああ、ムカつくヒロインが最後に死ぬやつ。男はどうした?」
「さっき別れたけど、それが何か?」
「いいタイミングだね。さすが、僕。君に頼みがあるんだよ。一時間、いや、三十分でいい、顔を貸してくれない?」
「それって儲け話?」
「君に損はない。鴨が葱を背負ってきたと思って、頼まれてよ」
二人が並んで歩いていると、すれ違う人の十人のうち、八人は振り返って、見る。五条を見るのではなく、斎を見るのだ。好男子の五条も、それこそすごいほどの斎の気品に押されて、ただのオマケに見える。五条は馴染みの料亭へ斎を案内した。
「ここ、何か、自慢の料理でもあるの?」
「どれも美味いよ。前菜もお椀も造りも、手が込んでる。懐石にしたら?」
「じゃあ、それを。私、おなかが空いてるの」
結局、懐石料理を奢る羽目になった。予定にはなかったが仕方がない。相手は全くのすごい美人なのだ。取り逃がしてはならぬ。五条は瓶に入ったバリヤースのオレンジジュースをチマチマ飲み、斎のいくらでも澄まして食べるのを、すこぶる忌々しい気持で眺めながら、彼のいわゆる頼み事について語った。
斎は、ただ食べながら、聞いているのか、いないのか、ほとんど彼の物語りには興味を覚えぬ様子であった。
「引き受けてくれるよね?」
「あなたって、たまに、こっちがビックリするくらいバカになるよね」
五条は敵の意外の鋭鋒にたじろぎながらも、
「そうだよ。だから君にこうして頼んでんだよ。すげー困ってんの」
「何もそんな面倒なことしなくても、いやになったら、ふっと消えてしまえばいい話でしょ?」
「そんなこと、できるわけないだろ。相手の人だって、これから結婚するかも知れないし、新しい愛人を作るかも知れないんだぜ?相手の気持をちゃんと決めさせるのが男の責任ってやつでしょーが」
「とんだ責任だこと。別れ話だの何だの言って、またイチャつきたいだけでしょ。さすが、五条の大バカ。言うことが違う」
「おいおいおい、羽柴のお嬢さん、おい。あんま失礼なこと言うなよ。さすがの僕も怒るぜ。あーもう、さっきから掃除機みたいに食ってばかりいるけどさ」
「ねえ、栗きんとん頼める?」
「……オマエ、まだ食う気かよ?胃拡張とちがうか。病気なんじゃないの、それ。一回、病院に行って診てもらってこいよ。もういい加減にしとけって」
「ケチだよねえ、あなたは。女は、たいてい、これくらい食うのが普通だよ。もうおなかいっぱい〜とか言って断っているお嬢さんなんか、あれは、ただ、色気があるから体裁を取り繕ってるだけなの。私なら、いくらでも、食べられる」
「いや、もういいだろ。君、いつも、こんなにたくさん食べるの?」
「冗談じゃない。人にご馳走してもらう時だけだよ」
「それじゃあ、これから、いくらでも君に食べさせてやるから、僕の頼みも聞いてくれ」
「でも、私だって仕事がある。休んでまでする価値がない」
「それは別に支払うよ」
「ただ、あなたについて歩いていたら、いいの?」
「まあ、そうだね。ただし、条件が二つ。相手の前では一言も話すな。頼むから。笑ったり、うなずいたり、首を振ったり、まあ、せいぜいそれくらい。もう一つは、相手の前では何も食べないこと。僕と二人きりになったら、そりゃ、いくらでも食べてくれて構わないけどね」
「その他、お金もくれるんでしょう?あなたは、ケチで、ごまかすから」
「心配するなって。僕も今、一生懸命なんだ。これが失敗したら、身の破滅だ」
「フクスイの陣ってことか」
「フクスイ?このバカ。ハイスイの陣だよ」
「そうとも言うかも」
「……勘弁してくれ、マジで」
けろりとしている。五条は、いよいよ苦々しくなるばかり。しかし、美しい。凛として、この世のものとも思えぬ気品がある。
トンカツ、コロッケ、マグロの刺身、イカの刺身、支那そば、ウナギ、よせなべ、牛の串焼、にぎりずしの盛合せ、海老サラダ、オレンジジュース。その上、栗きんとんをご所望とは。まさか女は誰でも、こんなに食うまい。……いや、それとも?
斎の住むマンションは世田谷方面にあって、午前中はパトロンと美術館に行くやら、読書会に参加するやら、人脈を広げるのに忙しいので、午後二時以後なら大抵、暇だという。五条は、そこへ一週間に一度くらい自分と斎と相手のお嬢さんの都合のいいような日に、電話をかけて連絡をして、そうしてどこかで落ち合せ、二人そろって相手の女のところへ向かって行進することを斎と約す。
そうして数日後、二人の行進は日本橋のあるデパート内の美容室に向かって開始せられることになる。おしゃれな五条は一昨年の冬、ふらりとこの美容室に立ち寄って、カットをしてもらったことがあった。そこのスタイリストは青木さんといって三十歳前後の未亡人である。ひっかけるなどというのではなく、むしろ女の方から五条について来たような形であった。青木さんは、そのデパートの築地の寮から日本橋のお店に通っているのであるが、収入は女一人の生活にやっとというところ。そこで、五条はその生活費の補助をするということになり、今では築地の寮でも五条と青木さんとの仲は公認せられている。けれども五条は、青木さんの働いている日本橋のお店に顔を出すことは滅多にない。五条の如き垢抜けた好男子の出没は、やはり彼女の営業を妨げるに違いないと、五条自身が考えているのである。それが、いきなり、すごい美人を連れて彼女のお店に現れる。こんちは、という挨拶さえも、よそよそしく、
「今日は妻を連れて来たんだ。この後、久しぶりのデートでさ」
それだけで十分。青木さんも、目もと涼しく肌が白く柔らかで、愚かしいところのない、かなりの美人ではあったが、斎と並べると、まるで銀の靴と兵隊靴くらいの差があるように思われた。二人の美人は、無言で挨拶を交わした。青木さんは、既に卑屈な泣きべそみたいな顔になっている。もはや、勝敗の数は明らかであった。前にも言ったように、五条は女に対して律儀な一面も持っていて、いまだ女に、自分が独り身だなどとウソをついたことがない。他に愛人がいるということは、初めから皆に打ち明けてある。それが、いよいよ愛人ではなく妻になってやってきた。しかも、その奥さんたるや、若くて、高貴で、教養の豊からしい絶世の美人。さすがの青木さんも、泣きべそ以外、手がなかった。
「妻の髪を、ちょっと整えて欲しいんだ」
と五条は調子に乗り、完全にとどめを刺そうとする。
「銀座にも、どこにも、あなたほど評判のいい人っていないから」
それは、しかし、あながちお世辞でもなかった。事実、素晴らしく腕のいい美容師であった。斎は鏡に向って腰をおろす。青木さんは、斎に白い肩掛けを当て、斎の髪をときはじめ、その眼には涙が今にも溢れ出るほど、いっぱい。斎は平然としている。かえって、五条は席をはずした。近くの雑居ビルで一級呪霊が蔓延っているので、さくっと祓除任務に向かった。セットの終った頃、五条はそっとまた美容室に入ってきて、一センチくらいの厚さの紙幣の束を美容師の白い上衣のポケットに滑りこませ、ほとんど祈るような気持で、
「グッド・バイ」
と囁き、その声が自分でも意外に思ったくらい、労るような、謝るような、優しい哀調に似たものを帯びていた。斎は無言で立ち上がる。青木さんも無言で、斎のスカートなど直してやる。五条は、一足先に外に飛び出す。別れは、苦しい。斎は無表情で、後からやって来て、
「そんなに上手くもないじゃん」
「何が?」
「カット」
このバカ!と斎を怒鳴ってやりたくなったが、しかし、デパートの中なので堪えた。青木という女は、他人の悪口など決して言わなかった。お金も欲しがらなかったし、よく洗濯もしてくれた。
「これで、もう、おしまい?」
「そう」
五条は、ただもう、やたらに侘しい。
「あんなことで簡単に別れるなんて、あの子も意気地がないよね。ちょっと美人なのに。あのくらいの器量良しなら……」
「やめろって。あの子とか、失礼な呼び方するなよ。オマエと違って大人しい人なんだよ。繊細なんだよ。オマエと違って。とにかく、黙ってくれ。別れの感傷に浸ってんだよ、こっちは」
全く、五条は気が狂いそう。五条は妙な虚栄心から、女と一緒に歩く時には、彼の財布を前もって女に手渡し、もっぱら女に支払わせて、彼自身はまるで勘定などに無関心のような、おうようのの態度を装うのである。事実、出ていく金額より、入ってくる金額の方が何倍も大きいので、これっぽっちも気にならなかった。しかし、今までどの女も、彼に無断で勝手な買い物などはしなかった。けれども、このバカ女は平気でそれをやった。デパートには、いくらでも高価なものがある。堂々と、躊躇わず、いわゆる高級品を選び出し、しかも、それは不思議なくらい優雅で、趣味のよい品物ばかりである。
「いい加減に、やめてくんねえかなあ……」
「ケチだよねえ」
「これから、また何か、食うんだろ?」
「今日は我慢してあげる」
「なら、さっさと財布かえしてよ」
今は虚栄もクソもあったものでない。
「そんなには、使わないよ」
「いーや、使ったね。あとで僕が通帳を調べれば分かるんだからな。バカみたいに使いやがって、このバカ」
「そんなこと言うならやめれば?私だって好き好んであなたについて歩いているんじゃないんだけど」
脅迫にちかい。五条は、ため息をつくばかり。しかし、五条だって、もともと只者ではないのである。例え呪術界きっての最強だとしても、性格はクソを下水で煮詰めたような度し難いほどの人間のクズ。斎にさんざんムダ使いされて、黙って海容の美徳を示しているなんて、とてもそんなことのできる性格ではなかった。何か、それ相当のお返しをいただかなければ、どうしたって、気がすまない。あのバカ。生意気だ。ものにしてやれ。別離の行進は、それから後のことだ。まず、あいつを完全に征服し、あいつを遠慮深くて従順で質素で小食の女に変化させ、しかるのちにまた行進を続行する。今のままだと、とにかく金がかかって仕方ない。山ほどある札束だって、湯水の如く使われてしまっては、何れなくなる。あのバカの為に命をかけて呪術師してるわけじゃない。行進の続行は不可能だ。勝負の秘訣。敵をして近づかしむべからず、敵に近づくべし。
彼は伊地知に斎の住所を調べさせ、ウイスキーとツマミになるものを二袋だけ買い求め、腹が減ったら斎に何か奢らせてやろうという下心、そうしてウイスキーをがぶがぶ飲ませたら、あとは、こっちのものだ。第一、ひどく安上りである。部屋代も要らない。女に対して常に自信満々の五条ともあろう者が、こんな乱暴な恥知らずの、エゲツない攻略の仕方を考えつくとは、よっぽど、彼、どうかしている。あまりに、斎に無駄使いされたので、狂うような気持になっているのかも知れない。
色欲の慎むべきも然る事乍ら、人間あんまり金銭に意地汚くこだわり、モトを取る事ばかりあせっていても、これもまた、結果がどうもよくないようだ。五条は斎を憎むあまりに、ほとんど人間ばなれのしたケチな卑しい計画を立てた。
夕方、五条は世田谷の斎の住むマンションを訪ねた。そこそこ綺麗なマンションである。五条の住む億のかかる部屋からすれば、かなりのランクダウンだが。斎の部屋は、階段をのぼってすぐ突当りにあった。チャイムを押す。
「何しに来たの?」
ドアをあけて、五条は驚き立ちすくむ。乱雑。ああ、荒涼。部屋いっぱいに本やら雑誌やら、とにかく、書物が至る所に置いてある。中には古文書の類いまで。こんな雑に扱っていい品物ではない。ほとんど足の踏み場も無いくらいに、散らばっている。
「なんで、来たの?」
そのまた、斎の服装たるや、数年前に見た時の、あのダサいパジャマ姿。ヨレヨレのスウェットを履いている。田舎のヤンキーでも、もうちょっと小綺麗な格好をするというのに。部屋の壁には映画のポスター、たった一枚。他にはどこを見ても装飾らしいものがない。これが、二十五、六の娘の部屋かよ。ただ、荒涼。
「遊びに来たんだけど」
と五条はむしろ恐怖におそわれ、小さな声しか出ない。
「なんなら、出直してもいいけど……」
「何か、魂胆があるんでしょ。無駄なことはしない人なんだから」
「いや、今日は本当に……」
「もっと、さっぱりしなさいよ。なんていうか、少しニヤケ過ぎじゃない?」
それにしても、ひどい部屋だ。ここで、あのウイスキーを飲ませなければならぬのか。ああ、もっと安いウイスキーを買って来るべきであった。雰囲気もあったものじゃない。
「ニヤケてねーよ。僕の顔はキレイっていうんだよ。国宝級の美しさだろうが。君は、僕と違って汚すぎる」
にがり切って言った。
「今日はちょっと忙しかったの。冥さんとか九十九さんが寄越してくるデータを纏めたり、それを元に論文を書いたり。とにかく、少し疲れて、さっきまで昼寝していたの。ああ、そう、いいものがある。部屋へ上がったら?割に安いの」
どうやら商売の話らしい。もうけ口なら、部屋の汚なさなど問題でない。五条は、靴を脱ぎ、床の比較的無難なところを選んで、上着を着たままあぐらをかいて座る。
「あなた、甘いもの好きでしょう?」
「大好物だよ。ご馳走になろっと」
「冗談じゃない。出すもの出しなさい」
斎は臆面もなく、右の手のひらを五条の鼻先に突き出す。五条は、うんざりしたように口をゆがめて、
「君のすることなすこと見てるとさ、なんか人生、儚くなるよな。その手、今すぐひっこめてよ」
「安くしてあげるってば。ほんと、バカ。美味しいんだよ、本場ものだから。じたばたしないで、出して」
体を揺すって、手のひらを引込めそうもない。不幸にして、五条は甘いものが実に全く大好物だった。自分で任務先のスイーツマップを作るくらいには。
「じゃあ、少しだけ」
五条は忌々しそうに、斎の手のひらに紙幣を三枚、載せてやる。
「あと四枚」
斎は平然という。五条は驚き、
「いい加減にしろよ、このバカ!」
「ケチ。気前よく買いなさい」
「あー、もう、分かったよ!」
さすが、ニヤケ男の五条も、ここに到って、しんから怒り、
「ほら、これでいいでしょ。手をひっこめろ。君みたいな恥知らずを産んだ親の顔が見てみたいね」
「私も見たいわ。そんで殴ってやりたい。捨てればネギでも萎れて枯れる、ってさ」
「身の上話なんて、つまんねーことすんなよ。グラス借してよ。ほら、高いウイスキーとツマミ。これは、君にあげるから」
五条はウイスキーを大きいグラスに注いで斎に渡すと、ぐい、ぐい、と二挙動で飲みほした。今日こそは何とかして斎に奢らせてやろうという下心で来たのに、逆にいわゆる「本場もの」のおそろしく高いチョコレートを買わされた。ベルギーだかスイスだか、フランスだかの、一粒がやたらに小さいチョコレート。綺麗な箱に入った食べられる宝石だ。五粒入っているうち、四粒は口に入れることに成功したが、最後の一粒は斎に奪われた。五条は悲痛な顔つきになる。七枚の紙幣をロウソクの火で燃やしたって、これほど痛烈な損失感を覚えないだろう。五条は泣きたいような気持で、自分で買ってきたツマミを食べながら聞いた。
「君さ、バレンタインで誰かにチョコレート贈ったことある?」
「何度か。でも、面倒だから最近はしてない」
「……義理でもさ、もうちょいマシなの貰うよ、僕。ねえ、こんな扱い初めてなんだけど?」
「そんなの知らなーい」
斎はウイスキーを飲んで機嫌がいい。彼女を眺めていると、この荒涼たる部屋の有様もあまり気にならなくなった。一つこれは、当初のあのプランを実行して見ようかという悪心がむらむら起こる。
「ケンカするほど深い仲、ってね」
とはまた、下手な口説きよう。しかし、男は、こんな場合、たとい大人物、大学者と言われているほどのひとでも、かくの如きアホーらしい口説き方をして、しかも案外に成功しているものである。
「ピアノが聞えるね」
彼は、いよいよキザになる。眼を細めて、遠くのラジオに耳を傾ける。
「あなたに音楽がわかるの?音痴みたいな顔しているけど」
「バカ。僕は音楽通ってことで有名なんだよ。知らないの?これだから羽柴のお嬢さんは……」
「あの曲は、何?」
「きらきら星」
でたらめもいいところ。
「あれは、ショパンのノクターンだ。バカ」
きらきら星だろうが、ショパンだろうが、どうでもよかった。音痴同志のトンチンカンな会話。どうにも、気持ちが浮き立たってしょうがない。隣に座り込んでいるのは、息を飲むほどのすごい美人。スウェット姿だろうが、美人は美人だ。五条は酔っ払った斎の桃色に染った頬を撫でた。
「君って、ほんと美人だよなあ」
「なあに。何かくれるの?」
「ほんとバカ。そういうのさえ、なかったら最高なのにな」
「それはこっちのセリフだよ、バカ」
五条も斎もバカ以外の罵倒の言葉を知らないのか、ひたすらお互いをバカバカ言い合った。
「ねえ、ほんとに結婚してしまおうか」
「五条の坊ちゃん、またバカなこと言ってる」
「いいじゃん。お互い、いい歳だよ?そろそろ身を固めなきゃ」
「第一、私の仕事はどうすんのさ」
「パトロン?要らない、要らない。僕以上のパトロンなんて見つからないでしょ」
「あーあ、ほんとになっちゃうよ」
「何が?」
「……呪術界のロミオとジュリエット」
「君は美しい暴君だ」
「なら、あなたは天使のような悪魔だね」
五条は斎の艶やかな黒髪を指で梳いた。サラサラと音がするんじゃないかと本気で思った。彼女をソファに押し倒してしまえば、理性なんてものは吹っ飛んだ。
「君にだけは言わないでおくよ」
「何を?」
「……グッド・バイ」
「笑かさないでよ、バカ」
「バカでいいよ、もう」
彼女がウイスキーをしこたま飲んだせいで、キスだけで酔いそうになった。
……あれ。結局、僕が財布を出してばかりだ。ま、いいか。明日は朝から役所に行かなきゃなあ。
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