真贋の見極め - 夏油・五条


 あらゆる芸術は表面的であると同時に象徴的でもある。
 表面化に到らんとする者は、危険を冒してそうするのだ。
 象徴を読み取ろうとする者は、危険を冒してそうするのだ。
 芸術が本当に映し出すものは、生の観照者であって、生そのものではない。
 ある芸術作品についての意見の相違は、その作品が新しく、複雑で、生気に溢れていることを示している。
 批評家たちが意見を異にするとき、芸術家は自分自身の意見と一致する。
 自分で賞讃しない限り、われわれは有用なものを作った人間を許すことができる。無用なものを作ることに対する唯一の口実は、当人がそれを熱烈に賞讃することにある。
 すべての芸術はおよそ無用なものである。
 
オスカー・ワイルド 『ドリアン・グレイの肖像』





 アトリエの中には、鼻を刺すような絵具の匂いが充満していた。夏油は換気のために窓を開けようとしたが、窓枠のレール部分が錆びているのか、なかなか動かなかった。やっとのことで開いた窓からは気持ちのいい初夏の風が入ってくる。
 夏油はいつものように、窓枠に腰掛けながら、煙草に火をつけて、ゆっくりと息を吸い込んだ。
 今度の絵も、きっと上手くいくだろう。交渉次第では、それなりの金額にもなるはずだ。まとまった金が手に入れば、熱海にでも旅行に行こう。たまには、のんびりするのも悪くない。いや、そんな時間がどこにある。依頼された絵は他にもまだある。それを先に片付けなければ。
 夏油は自分のアトリエの中を見回した。ゴヤ、ジェリコー、ドラクロワ、ターナー、クールベ、ミレー。ロマン主義や写実主義といった、印象派の前史を代表する画家たちの絵画がずらりと並んでいる。
 どれも夏油が描いた贋作だ。贋作だが、何も知らない、審美眼の備わっていない人間が見れば、どれも本物だと言うだろう。事実、夏油の贋作はそこそこ売れていた。画家としての才能がないと、夏油を鼻で笑った連中たちに。そんな連中たちにくれてやる絵などない、と言いたかったが、夏油にも生活がある。金がなければ絵具もキャンバスも、煙草ですら買えなくなる。嫌いな人物画だろうと、金のために描いた。
 鬱屈とした気分を紛らわせようと、また煙草に手を伸ばしたが、どうやら先程、吸ったのが最後の一本だったらしい。夏油の手の中で、空になったパッケージが、くしゃりと音を立てて潰れた。
 夏油はパッケージをゴミ箱へ放り投げた。壁に当たって反射したそれは、ゴミ箱ではなく、絵具の入ったケースの上に落ちた。
 ポケットに鍵と財布だけを突っ込んで、常連となっている煙草屋へ向かった。
 昔ながらの煙草屋の、小さい窓口を指で叩くと、奥から店主が飼っている柴犬が走ってやって来た。続いて、店主の男がメガネのレンズを拭きながら怠そうに歩いてくる。男が夏油の顔を見ると、慣れた手つきで夏油の吸っている銘柄のパッケージを片手で鷲掴んで、台の上に置いた。好きなだけ持っていけ、とでも言わんばかりに。夏油は銘柄こそ同じだが、買う個数はいつもバラバラだった。店主はそれを覚えていたのだ。
 夏油は左手でピースサインを作った。

「八百円ね」

 千円札を財布から出しているあいだ、店主は既にお釣りを用意していた。二人に無駄な会話はない。夏油はこの無愛想な接客が気に入っていた。ついでに、尻尾を振っている柴犬も。
 店主から受け取った紙袋を脇に抱えながら、夏油はスリッパの踵を、わざと地面に擦りつけるようにして歩いた。歩き慣れた、帰り道だった。

 夏油が煙草屋から戻ると、アトリエの中に二人の人間がいた。一人は男、もう一人は女だった。二人とも、夏油の描いた贋作を眺めている。
 夏油は二人のことを知っていた。男の方は五条悟。戦前から代々続いている美術商の家の当主で、各業界にも名を馳せている有名人だ。女の方は羽柴斎。鑑定士をしている。性格故か仕事の選り好みが激しい。しかし、彼女の審美眼は本物で、知識もある。大学や美術館などで講義をしている。夏油も彼女の講義を受けたことがあった。
 夏油は遂に終わったと思った。この二人に目を付けられたということは、この先、もう二度と贋作は描けないだろう。例え描いたとしても、誰も買わない。誰も見ない作品など、存在する価値もない。急に目の前が真っ暗になった。

「遅かったね。どこ行ってたの?」

 先に口を開いたのは五条だった。まるで、友人に接するような気楽さで、夏油に話しかけた。

「……煙草を買いに」
「あ、そう」

 特段、興味もなさそうな返事だった。

「僕は五条悟。画家なら知ってるよね。で、こっちが仕事仲間の羽柴斎。鑑定士ね。ああ、その反応なら斎のことも知ってるか」

 羽柴は夏油に見向きもせず、未だに贋作を見つめている。一つ一つ、じっくりと時間をかけて。
 この二人が夏油に何の用があるのかは知らないが、夏油はアトリエに戻ってからずっと冷や汗をかいていた。贋作を描いているだけでなく、それを売り、コレクターたちの欲求を満たしてやっていた。それが、とうとうバレたのだろう。

「これを描いたのはオマエだよね」

 五条はソファに立て掛けておいた一枚の絵を夏油に渡した。中を確認すると、それは確かに、夏油が描いたユトリロの贋作だった。売った相手が誰だったかは忘れたが、珍しく、夏油の好きな風景画の依頼だったので、思いの外、筆が進んだ一枚だ。他の誰かが描いた絵だと言いたいが、夏油は自分の顔しか思い浮かばなかった。
 黙り込んだ夏油を前に、五条はため息を吐いた。

「裁判沙汰にしたくて来たんじゃない。ちょっとした遊びに誘いに来ただけ」
「言い方が怪しすぎるよ、悟。私たちは別に、あなたを訴えたい訳じゃない。これは本当の話」

 いまいち、要領の得ない話だと思った。

「告発じゃないなら、何をしにここへ?」

 夏油の質問に、二人は顔を見合わせて笑った。

「言っただろ、遊びに誘いに来たんだ。美術、芸術の真贋も分からない連中から、大金を巻き上げるゲームさ。僕たちとチームを組もう」
「あなたには才能がある。それは、私が保証する。悟があなたの作品を成金連中に買わせるんだ。それも、本物としてね」

 夏油は今まで、画家として認められず、ずっと伸び悩んでいた。それでも、生きるためには金が必要だ。夏油はアルバイトを始めたが、身に入るはずもなく、すぐにクビになった。アルバイトを転々としながら、絵を描き続けた。
 そんな日々を送るなか、知り合いに仕事を斡旋された。それは、古い絵画を修復する仕事だった。絵画の修復とは、経年劣化による汚れや傷を修復し、オリジナルに近い状態に蘇らせる。これは何百年と伝わる美術品を守っていくためにも欠かせない大事な作業だ。
 夏油はゼロから作品を生み出す「画家」ではなく、既存の作品に手を加える「修復師」の道を選んだ。
 修復師として生計を立てはじめた夏油の元に、ある依頼が持ち込まれた。絵を見てみると、損傷が激しく、実の所、本物かどうかの見極めも難しい一枚だった。そこで夏油は元の絵の作者に似せたタッチで、修復というより、絵のほとんどを書き換えて依頼人に渡した。
 その仕事を終えた夏油は、あることに気付いた。自分はどんな絵でも完璧に描きあげることができる、と。夏油は修復師を辞め、贋作家となった。画家として夏油が評価されなかった全ての原因は、美術界のあやふやな価値観のせいだ。

「誰もあなたの作品が贋作だなんて気づかない。バカどもから大金を巻き上げるチャンスだ」
「しようぜ、復讐」

 夏油の持ち得られなかった地位、名誉、金、その全てを持っている二人が、真作をこよなく愛する二人が、他でもない夏油の贋作で、美術界の価値観を揺るがせようとしている。これ以上、面白い話はないだろう。

「乗った」

 夏油は二人が差し出した手を取った。


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