ロマネスク - 夏油傑


※大正ロマン的なパロディ(捏造過多)



 死の商人として地元で名を馳せている五条悟は、今日もまた、海外の商人どもと退屈なお茶会をしていた。外の国では既に戦争の最中にあり、その噂は、陸を越え海を越えた東の果てにある島国にも、眉唾ものも多かったが、それとなく伝わっていた。
 五条の祖父は新しいもの好きで、文明開化の鐘が鳴ると、飛びつくように外国の武器に目をつけた。刀はもう古いと言って、拳銃やら狙撃銃やらを自作した。それが英兵だか米兵だかに見つかり、それがまた自国で生産されているものより出来が良かったばかりに、大量生産させた。
 五条は、その祖父が一代で作り上げた武器工場を取りまとめる仕事をしている。父はとっくの昔に隠居し、今は趣味の鉱石蒐集に力を入れている。
 五条は父親よりも頭が良く、計算も出来たため、父が社長を勤めていた時分には、到底、稼げなかったであろう金額を、毎日、叩き出していた。自分が社長として采配を振り始めた当初は、その仕事に魅力を感じていたが、しかし、今ではやり甲斐も感じず、酷く退屈だった。
 今は、どの国も武器を欲しがっている。値段を釣り上げるだけ、釣り上げて、さっさと取引を終わらせた。
 どこかに面白おかしい何かがないかと、五条は街へと繰り出した。
 銀座のカフェーには五条のお気に入りである、数え歳で十五になる奈緒美という給仕女が居たが、つい最近、どこぞの会社員と結婚したのか、店を辞めてしまった。これもまた五条の退屈を加速させる一つの理由だった。
 五条は人通りのある往来を歩きながら、活動写真を横目に、これも退屈だな、と独りごちた。
 これといって興味もないが、帝劇にでも出掛けようかと足をそちらへ向けた時、五条と同じくらい上背のある――五条はかなり背の高い男で、自分と同じくらい背の高い相手に出会ったことがなかったので驚いた――男とぶつかった。
 男は長い髪を後ろで一つに引っ詰めて、片方だけ前に垂らした変わった髪型をしていた。両耳には真珠程の大きさの黒い石を付けており、五条はその男の風貌から与太者か何かだと思った。
 その男が五条に投げやりに謝罪しながら、地面に落ちた何枚もの原稿用紙を必死になって集めているのを見るに、その辺の与太者でなく、俗世から離れ自分の世界に没頭するような文士の一人だと気付いた。
 成程、確かにこの男の顔立ちはどことなく世間離れした、一定の美しさがあったし、特に、細く切れのある目は男をより一層、利巧に見せた。五条は、どれどれ、この怜悧そうな男がどんな文章を書くのか試しに読んでやろうと、足元に落ちている原稿用紙を二、三枚、拾い上げた。五条が二枚目に目を通し始めたとき、文士の男は慌てて五条から原稿を引ったくった。
 それもそうだろう。何せ、この手の話は発禁物だ。
倫理観の破綻した男女の話など、低俗で下劣とされている。しかし、そういったアンダアグラウンドな作品は数奇者から好かれ、主に闇市などでは高額で取引されている。
 五条は、ようやく自分の退屈とおさらば出来ると歓喜した。

「なあ、アンタ。こういったのは、どこに行けば手に入る?いくらで売ってる?」

 男の方は、てっきり警吏の前に突き出されると覚悟していたので、五条の質問に驚きながら答えた。

「私が書いている。見た所、君はやけに上等な服を着てるな。裕福なんだろう?私の本にいくら出してくれる?」
「ここの所、ずっと退屈してたんだ。ようやく、僕を楽しませてくれるものに出会えた。言い値で買おう」

 五条は文士の男、夏油傑に他にはないのかと聞くと、家に山ほどあると言うので、彼の家へ行くことにした。ただ夏油の方はやけにそれを渋ったので、五条は粘りに粘って、最後には夏油の肩に腕を回し、仕舞いには金を出すとさえ言った。
 夏油は五条のその態度に嫌気がさし、しかし、このまま放っておく方が面倒だと気付いたのか、仕方なしに家へ案内した。
 そこは普通の一軒家だった。五条はこの貧乏文士に家を買えるほどの貯蓄があるとは思えなかったが、彼の書いている話がワケありなのを思い出して、成程なとも思った。

「……ただいま」

 五条は夏油に続き玄関へ入ると、奥の方から、ぱたぱたと廊下を走ってくる音が聞こえた。

「おかえりなさい、先生。お客さんですか?」
「まあね。お茶を用意してくれるかい」
「はい」

 やけに髪の綺麗な女だった。真っ黒なそれは、光を浴びて照らし出され、滑らかに艷めいていた。五条が先程まで読んでいた作品から産まれ出てきたような、美しい女。
 夏油が家へ入れるのに渋った理由は、彼女だった。五条は顔がむずむずとニヤけるのを止められなかった。

「さっきの子でしょ」
「……うるさい」
「傑のミュウズは、黒髪か」
「もう黙ってくれ」
「いいじゃない、別に。傑のヴィナスは随分と可愛らしい子だ」
「……彼女には手を出すなよ」
「それは、どうかな」
「オイ!」

 二人は居間に着くまで、そんなやり取りを何度もした。五条が傑の何々は、傑の何々はと何度も言うので、夏油は途中から言葉を返さなくなった。
 ギリシヤ神話に出てくる神の名前を網羅するかと思った所で、女中の斎が盆にお茶を載せてやってきた。
 所作の一つを取っても丁寧で、五条は夏油の人の見る目を評価した。見た目良し、器量良し、オマケに声まで可憐ときた。寧ろ、こんな子どこから見つけてきたのやら、と五条は夏油の人間関係が気になった。
 夏油の家は貧乏ではなかった。寧ろ、地元では一番の金持ちとされている家に産まれた。上に兄と姉が一人ずつ居たが、兄はお国のためにと言って夏油がまだ幼い頃に国軍に入り、それからは殆ど会っていない。姉もまた夏油が中学校へ入った時分に嫁に行ったきりだった。
 両親は夏油に兄のような立派な人間になるようにと、よく夏油に言い聞かせていた。だが、厳しいだけの人たちではなく、夏油が一言あれが欲しいと言えば、無茶なお願いでない限り、何でも買い与えてやった。
 幼い夏油は人の書いた物語に夢中になり、寝食を忘れるほどに没頭した。そして、いつからか自分も面白い話を書く文士にでもなろうと決意した。
 だが、夏油が歳を重ねるごとに、少年から青年に近づくにつれ、段々と以前の自分なら面白い話と評したであろう作品に魅力を感じなくなっていた。
 そんな時分に、学友から一冊の本を渡された。男女の睦言が鮮明に表現されたそれらは、夏油が今まで読んできた何よりも作者の情熱を感じた。作品を通して、作者が自分の中を暴こうとしているような感覚は初めてだった。他にもないのかと思ったが、内容が内容なだけに、簡単には手に入らない。闇市を覗くには、夏油は人の悪意に詳しくなかった。
 結果、夏油は自分で書くことにした。幼い頃に目指していた文士とは少々、違った形ではあったものの、自らの溢れる表現欲に抗えなかったのだ。
 人目を避けるように、日がな一日、部屋にこもって原稿用紙へと官能の世界を落とし込んだ。そんな事をしていたら、両親が夏油を精神病か何かだと勘違いし、危うく病院へ連れて行かれそうになったこともある。両親は夏油を心配したが、本人は至って健常であり、寧ろ、今まで以上に生命力に溢れていたと言っても過言ではない。
 自分の世界に酔いしれていた夏油にも、矢張り、人から評価されたいという欲目が出てきた。だが、この田舎で自分の美しい世界を理解してくれるような、鮮明な審美眼を持った人間など、どこにも居ない。それどころか、夏油を変態だなどと蔑むような連中ばかりである。
 夏油は田舎を捨て、帝都へと足を踏み入れた。たまたま、両親の知り合いに帝都の外れに一軒家を持つ老人が居たので、彼の下で暫く世話になった。彼が亡くなった後、そのまま家を譲ってもらった夏油は女中を雇い、自分の創作に没頭した。
 斎はよく働く女だった。夏油が気付きもしないようなことにまで気を配り、かと言って、それが過剰すぎない。親切で、丁寧で、優しい斎を夏油はいつしか憎からず思うようになっていた。気付けば、自分の作品に出してしまうくらいには。
 そんな夏油のことを知ってか知らずか、斎は度々、出掛ける夏油に深く追求はしなかった。夏油が闇市へ行き自分の原稿を一頁、数十円で販売しようとも、斎は変わらず送り迎えをした。勿論、五条悟なる人物を家に招き入れたときでさえ――普段、夏油は他人を家に入れることを良しとしなかった――怪訝な表情を浮かべず、いつも通り、五条に茶を出し静かに居間を出た。彼女の淹れる茶は、夏油の注文通り熱すぎず飲みやすい温度になっている。こういったきめ細やかな心遣いが、何よりも夏油の心の内に柔らかく広がっていく。
 何も知らない五条は、早く原稿を出せと夏油をせっついた。五条は淹れられた茶を一口飲み、丁度いい温度のそれに気を良くした。五条は基本的に客人として持て成されることの方が多く、こういう場合、淹れたての熱い方が良いと思っている給仕が多いのか、やけに熱い茶を出されるが、五条は猫舌で、相手に失礼のないよう湯呑みに手をつけはするが、飲んだ振りをして誤魔化し、暫くは放置していることの方が多かった。
 だが、斎はどうだ。客人への気遣い一つとっても、完璧だった。

「今、持ってくるから。何も触るなよ。そこから一歩でも動いたら、読ませないからな」

 夏油はそう残して、居間を出た。五条はこれ幸いと部屋の中をぐるりと見回す。埃ひとつない綺麗に掃除された部屋、そういえば廊下も磨かれていたことを思い出した。やはり、夏油には勿体ないくらいの器量良しの子ではないか。他にも働き手はいくらでもあったろうに、何故あんな偏屈な、変わった男の下で働いているのだろう。
 五条の心は移ろいやすく、今は夏油の原稿より斎の方が気になった。呼べば来てくれるだろうか。あの髪の美しい人は。そういえば綺麗なのは髪だけでなく目も美しかったように思う。所作や姿勢はもちろんのこと、指先だってそうだった。あの細い指先……桜貝のような薄桃色の小さい爪は、どんな味がするのだろうか。
 五条は先程、ちらと立ち読みした夏油の話を思い出していた。普段の五条なら、こんなことは考えなかっただろう。思考が夏油の世界に引っ張られるのを感じ、首を横に振った。このままでは、何を読んでも彼女の顔が浮かびそうだった。

「お待たせしたね」
「……いや、いや。そんな事は、ない。ウン」

 五条は先程までの思考を何とか追い払い、夏油の持ってきた原稿用紙に早速、目を通した。夏油は目の前で自分の書いた作品を読まれるのは初めての経験だったので、些か緊張していたが、夏油の文章を読み始めると直ぐに目の色を変えた五条を見て、その緊張も不必要だったと感じた。
 五条が夏油の描くめくるめく官能の世界に没入していたとき、夏油はまさか、こんなことになるとは思いもしなかったと小さく息を吐いた。自分の書いている物語が一般的なそれとは違うことを、他でもない夏油が一番よく知っていた。だからこそ、こうして堂々と原稿に手をやる読者が存在したことに、一種の救済のような何かを感じたのだ。

「ウン、良いね。素晴らしいよ」
「それは、本当かい?君は私に嘘を言ったりしないよな」
「勿論。僕の知り合いに印刷所を経営している男が居るんだけど、そいつに話して、この原稿を一冊の本にしてもらうよう計らうよ。後は、適当に、それこそ金と権力と暇を持て余した連中に流せばいい。アイツら、きっと驚くぜ。普段はドストエフスキイの『白痴』に出てくるナスタアシヤが不憫だの、愛情の一方通行のシイクエンスがどうのって八釜しいんだよな。なんだよ、シイクエンスって。僕はそんなの興味ねーっての」
「知識のひけらかしは、よくあることだろ?自分は教養のある人間だと言いたいのさ。そういった連中に本当に必要なのは教養ではなく想像力。イマジネイションさ」
「その通り!何事も、想像から始まる。机上の空論だなんて言葉があるが、空論すらない連中は他人の言葉を借りて話す以外の方法を知らない。自分が無知だということを知らないのさ」
「無知の知、ソクラテスだな」
「さすが、夏油傑大先生。それにしても、お前の想像力、イマジネイションには驚かされたよ。マルキ・ド・サドの再来と言ってもいい。まあ、あそこまで酷くはないけど。なんて言うのかな、相手への確固たる愛を感じたよ」

 この僕がだよと、五条は得意気な顔をして言った。天上天下唯我独尊、欲しいままに生きてきたが、そんな彼でも唯一、本物の愛とやらには出会えなかった。夏油は五条の事を鼻持ちならない成金男だと思っていたが、自由気ままに溌剌と言葉を発する彼を見て、帝都にはこんな変わり者も居るのかと感心した。
 そろそろ日も落ちるかという時分に、斎がそっと居間へ入ってきた。西日を受けた髪は美しく、目を縁どるまつ毛にまで光が当たり、その下にある目元の影がぞっとする程、彼女の色香をより助長させた。
 普段から彼女のこういった所を見ているのかと、五条は夏油のことが羨ましいやら、恨めしいやらで長い足を伸ばして軽く蹴り飛ばしてやった。当の本人はそんな五条の存在など、地球の裏側にでも落としてきましたとでもいうような態度で、斎に夢中になっている。

「御夕飯は、どうなさいますか?」
「いつも通りに。私たち二人分だけで大丈夫だよ。この馬鹿はもう帰るからね」
「ちょっと、なんで傑が勝手に決めるのさ」
「早くそれ持って帰ってくれって言ってるんだ」
「あ゛?」
「どうかしたのかい、悟」
「……表出ろよ、傑」
「君が表へ出たら、私はそのまま玄関の鍵を閉めるよ」

 まるで十年来の親友同士のような二人のやり取りに、斎は顔をほころばせた。何かと人をあまり寄せ付けようとしなかった自分の雇い主にも、こうして、誰かと談笑することもあるのだと安心したのだ。男二人のむさ苦しい居間は、斎という花が咲き夕暮れ時にも関わらずその場が途端に明るくなる。
 五条は彼女の笑った顔を、もっと見たいと思った。だが、それを許す夏油ではない。五条の腕を引っ掴んで無理やり立たせた挙句、居間から追い出すように背中を押した。

「ちょっと、オイ!」
「お客様、玄関はあちらになりますヨ。お足元に、お気をつけ遊ばしてくださいな」

 バタバタと取っ組み合いのようなことをしながら、そう広くはない廊下を揉みくちゃになりながら二人は進んだ。その後ろを斎は足取り軽く着いていく。

「じゃあ、本が出来たらまた来るよ」
「郵便で送ってくれ。君は要らない」
「うるさい。……斎ちゃん、また遊びに来るからね。そうだ、今度コイツに休みを貰いな。銀座にある資生堂パーラーに連れてってあげる。僕と二人で、二人っきりでデェトしよう。あそこのアイス・クリイムは絶品だからね。って、痛いんだよ馬鹿、間抜け、変な前髪っ、あぶらとり紙っ!」
「早く、帰ってくれ。近所迷惑だ」

 五条は思いつく限りの罵倒の言葉を並べながら、夏油の家を後にした。久しぶりに、気分が良かった。
 変わったもの、変わった人、新しいものには一通り手を出してきた五条は、生まれたままの姿の、汚れなき純真な少年のようだと夏油は思う。年端もいかぬ男児が持ち合わせている未知への興味からなる行動力は、良くも悪くも夏油の創作活動を支えた。五条が居なければ、未だに夏は闇市で原稿を取引していただろう。
 五条に出会ってから一月もしないうちに夏油の小説は、ひっそりと、だが確実に華族や政治家といった権力のある者の手へ渡っていった。わざわざ危険を犯して闇市へ出掛けなくても、読者の方から大金を持ってやって来る。
 夏油は今まで、創作の片手間にやっていた内職の仕事を辞めた。休日が出来た夏油は斎と過ごす時間が増え、より一層、彼女を愛おしく思った。そして同時にどうにかして斎を組み倒せやしないだろうかと思案した。この手で、この目で、実際に彼女の柔肌を感じたくなったのだ。
 もう紙の上だけでは我慢ならなくなっている。そんな浅ましい欲を夏油は必至になって隠していた。
 だが、それを知った五条は何故、自分の欲に忠実にならないのだろうと、夏油のことを不審に思った。まさか、この男が自分のそれを使えない訳ないだろうに。原稿の上では好き勝手している癖して、現実ではこんなにも引っ込み思案なのだから、夏油は五条が思っていたよりも潔癖なのかもしれない。その上、やけに凝り性だ。
 五条はそんな夏油に付き合わされるであろう斎を思い、少しばかり不憫に思う。大事にはされるだろう。それも人一倍、いやその十倍は優しく接するだろう。夏油はそういう男だ。しかし、優しいだけの男なんて彼女を傷付けるだけなのではないか。
 五条は斎が泣く所など見たくはなかった。一度、夏油と腹を割ってきちんと話をするべきかもしれない。五条はそんなことを人知れず考えた。
 夏油が斎に抱いている感情は、所謂一つの恋心なのだろうが、だが決してそれだけではないことを五条はよく知っていた。かと言って醜い欲ばかりでもない。
 こうして夏油と斎を注意深く見ていると、どうしてだか自分が物寂しい人間に思えてくる。夏油のように、たった一人にあそこまで熱烈な愛を抱いたことが嘗て自分にあっただろうか。身を焦がす程の恋とは、きっと二人のことを指すのだろうと五条は心底、得心した。
 良い友人を持ったと思う。夏油は五条にとって得難い信念を持ち合わせて生きている。その点において五条は夏油を敬愛こそすれ、何も知らない他人のように侮辱するなど有り得なかった。例え彼が低俗と呼ばれるような物書きであったとしてもだ。
 そして、彼の側で静かに支えている斎に対しても、尊敬の念を抱いていた。あんな七面倒な、自我の強く、どことなく潔癖な、何に対しても拘りのある男に付き添うのは、生半可な気持ちでは続かないだろう。
 五条は一生に一度、得られることのないような二人に出会えたのだ。あの日、夏油がぶつかってきたのは、たまたまだろう。しかし、そのたまたまが、三人の人間の人生を変えたのには、何か意味があるのではないかと、五条は思わざるを得なかった。
 夏油が新作を持って五条を訪ねたのは、雨上がりのしっとりした空気が帝都じゅうに立ち込める、梅雨の終わり頃だった。妙に落ち着いた雰囲気の夏油に、何かあったのかと五条は訊ねた。

「今夜、彼女に打ち明けようと思ってる」
「ようやく?」
「……彼女は私の書いている話の内容を知らないんだぞ。ようやくも何も、一生、告げずにいたって私は別に」
「我慢できなくなったんだろ。あーあ。どんな反応が返ってこようと、お前はきっと、無理やりにでも斎ちゃんを手篭めにするんだろうな。だって、紙の上で散々……」
「そうだ。そうなんだよ、悟。私は斎を愛している。だが、それと同時に、どうしようもなく酷い目に合わせてしまいたいんだ」

 困った男だなと五条は思った。まどろっこしいというか、嫌に丁寧できちんと順序を踏みたがるから、こんなことになっているのだ。好きなら好きと言えばいいし、きっと斎のことだ、結婚でも申し込めば女中でなく妻として夏油の隣に立ってくれるくらいの気立てはあるだろう。流石に始めは驚くだろうが、夏油の本質を分かっている斎なら、きっと。
 当人同士の問題に頭を悩ませても仕方がないと、五条は頭を振って夏油に向き直った。

「例え傑でも、泣かせたら殺す。僕がなんの仕事をしてるか、お前は知ってるだろ」

 五条はニヒルな表情を浮かべ、手でピストルの形を作った。

「上手くやれよ」
「無責任だな」
「そんなに言うなら、彼女を僕にくれよ。結婚を申し込む」
「駄目だ。絶対に、駄目だ」

 夏油は要は済んだとばかりに席を立った。

「見送りしようか?」
「……いや、いい。ここには何度も来てるからな。出口は知ってる」

 夏油はその帰り道、特に用事もないにも関わらず丸善なんかを覗いたりした。マゾッホ、サド、ポー、谷崎、永井……目につく作家は享楽主義やら耽美派ばかり。それでも、夏油の苦悩を理解してくれそうな作家は、世界中を探しても一人も居ないだろう。却って気分が落ち込んだ。
 とうとう自宅へたどり着いてしまった夏油は、軒先でため息を吐いた。斎に幻滅されたくないが、このままというのも辛い。言うと決めたからには言うのだが、彼女を失うかもしれない怖さがなくなる訳ではなかった。

「……ただいま」
「おかえりなさい、先生。今日は早いですね」
「駄目だったかい?」
「そんなことありません。意地悪しないで」
「話が、あるんだ」

 夏油は斎を自分の部屋へ招き入れた。本棚に入り切らなくなった小説や、あちこちに散らばった原稿用紙たちがいくつもの山を作っている。それをかき集めて端へ寄せた。

「君には、私の書いている話を見せたことがなかっただろう?」
「ご自分のお話をなさるのはお嫌いかと思って」
「嫌いではないんだよ。好きで書いているからね」

 夏油は斎を隣に座らせ、自分の書いた話を声に出して読み聞かせてやった。斎は夏油が、まさかこんな話を書いているとは思いもよらず、驚いたと同時にどんな反応をすればよいのか分からなかった。
 ただ、時折、夏油の吐息が耳元にかかり、だからといって夏油を突き飛ばすことも出来ず、目を瞑り両手を握り締めて、時が過ぎるのを待った。

「斎。この話のモデルはね、君なんだよ。私はいつも、君を思ってこんな話ばかりを書いているんだ」

 夏油は斎の手を取り、彼女の桜貝のような薄く色付いた小さな爪にそっと口付けした。斎は身体中が燃えがったような感覚に、全身を支配されていた。それでも、嫌な感じはしなかった。自分の身体が自分のものでなくなったような、ふわふわと宙に浮いているような気もした。力を入れようにも上手くいかず、撓垂れ掛かるように夏油に自分の身を預けた。頭を撫でる夏油の手が心地よかった。

「私を嫌わないのかい?」
「ウン。……好き、好きです。せんせい」
「愛しているよ、斎。自分では、もうどうしようもないくらいに」

 微睡む斎を夏油は抱き上げ、彼女の部屋へ向かった。

「私はこれから執筆するから、そこで休んでて」

 そう言い残し、夏油は自室へ向かった。机の上に置いてある煙草に火をつけて、深く吸い込んだ。未だ自身に残る彼女の体温が、緩く全身を包んでいる。斎の項の白さを思い出し視界が白くぼやけては、数度、瞬きを繰り返した。その白も煙草の煙のように少しずつ薄くなっていくのを、夏油は酷く残念に思った。


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