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クィディッチ競技場は普段の装いからは想像できない形へと変貌していた。六メートルほどの高さの生垣が周りをぐるりと囲み、正面に隙間が空いている。その隙間は巨大な迷路への入り口だ。中の通路は、霧が立ち込めて暗く、薄気味悪い。空は今や澄んだ濃紺に変わり、一番星が瞬きはじめた。四人の代表選手は、迷路のどこかの持ち場につくため、ばらばらな方向へと歩き出した。バグマンが杖を喉元に当て、拡声魔法で声をスタンド中に響かせた。
「紳士、淑女のみなさん。第三の課題、そして、三大魔法学校対抗試合最後の課題がまもなく始まります!現在の得点状況を、もう一度お知らせしましょう。同点一位、得点八十五点――セドリック・ディゴリー君とハリー・ポッター君。両名ともホグワーツ校!」
大歓声と拍手に驚いたのか、禁じられた森に住む鳥たちが、暮れかかった空にバタバタと飛び上がった。
「三位、八十点――ビクトール・クラム君。ダームストラング専門学校!そして、四位――フラー・デラクール嬢、ボーバトン・アカデミー!」
しばらく続いた拍手や歓声は、すぐに消えていった。競技場にはピンと張り詰めた空気が流れている。
「では……ホイッスルが鳴ったら、ハリーとセドリック!」
バグマンがピッと笛を鳴らし、二人は迷路の中へ消えていった。聳えるような生垣が、通路に黒い影を落としている。高く分厚い生垣のせいか、魔法がかけられているからなのか、一度、迷路の中へ入ってしまえば、周りの観衆の音や気配は全くといっていいほどなかった。ニコラスはセドリックの背中が見えなくなるまで、じっと彼を見つめていた。すべてが終われば、ぼくらは自由だ。学校もしがらみも何もない場所へ行こう。イタリアへ、愛の国へ行こう。夜空を彩る星たちが黄色く輝いている。セドリックのすべてを見守る星たち。点在するイエローを切り裂くように、赤い花火が上がった。迷路の中で何か動きがあったらしい。観客がスタンドの席から立ち上がり、歓声やどよめきが、人の一喜一憂する感情の波が、あちこちから発せられ、それは全体へと広がっていく。誰もが代表選手たちが帰ってくるのを待ちわびていた。そんな中、ニコラスは、ふと言葉に出来ない巨大な不安を感じた。セドリックの心臓の音が、今まで、当たり前に傍にあったリズムが、一瞬のうちに消えてしまったように感じた。例え一緒に居なくても、セドリックが近くに居ればニコラスには分かる。耳をすませば、いつだってセドリックの心臓の音が聞こえるから。ニコラスは、セドリックの鼓動の音を知ってる。なのに、なぜ。ニコラスは両手が白くなるほど力を入れて握りしめた。どうやっても、この不安から逃げられなかったからだ。顔が真っ青になったが、それに気づく誰かはニコラスのそばに居なかった。
競技場にハリーが帰ってきた。地面に叩きつけられるようにして、帰ってきた。滑らかな冷たい優勝杯の取っ手と、セドリックを握りしめて。見上げる空に星が瞬き、アルバス・ダンブルドアが屈んでハリーを覗き混んでいる。大勢の黒い影が、二人の周りを取り囲んでいる。ニコラスには何が起こっているのか分からなかった。分かりたくなかった。頭のすみで、ほんの少しだけ想像したそれが、現実になるのを恐れたからだ。
「あの人が戻ってきました。戻ったんです、ヴォルデモートが」
「何事かね?何が起こったのかね?」
コーネリウス・ファッジがハリーに問いかける。蒼白な愕然とした表情で。
「なんたることだ。ディゴリー!ダンブルドア――死んでいるぞ!」
ファッジは同じ言葉を繰り返し囁いた。周りに集まってきた人々の影が、息を呑み、自分の周りに同じ言葉を伝えていく。叫ぶように伝える者、金切り声で伝える者。ニコラスの聞きたくなかった言葉が、何度も、何度も、繰り返し夜の闇の中に伝播した。
「死んでいる!死んでいる!セドリック・ディゴリーが!死んでいる!」
女の子たちが泣き喚き、ヒステリー気味にしゃくりあげている。ニコラスは視界が白くなったり、黒くなったり、チカチカと点滅していき、遂には耳を塞いで頭を抱えた。立っていられなくなり、その場にしゃがみ込んだ。息が吸えず過呼吸を起こしている。このまま死んでしまっても構わないと思った。ニコラスは地面に倒れ、気を失う瞬間、狭くなった視界の中にセドリックの姿を見た。それがニコラスとセドリックの最期だった。
ニコラスが目を覚ましたのは、二日後のことだった。ディゴリー夫妻がセドリックの亡骸を受け取った次の日だった。ニコラスは、もう二度とセドリックに触れられない。耳をすましても彼の心臓の音は聞こえてこない。彼の吐く息の熱さも、香りも、瞳の色も、ニコラスは、すべて失った。ベッドから起き上がり、医務室を後にした。静まり返った城の中をゴーストのように彷徨い、たどり着いたのは必要の部屋だった。ニコラスは今の自分に必要なものがセドリック以外にあるとは思えなかった。扉を開け中へ入ると、見知った部屋が広がっている。部屋には大きなベッドが一つと、仕切りのように背の高い本棚が、いくつか並べられており、その奥にはバスタブの周りにキャンドルがいくつか並んだシャワールームがある。ただ前と違うのは隣にセドリックは居らず、本棚にはニコラスの書いた本が二冊、倒れるようにして置いてあるだけだった。どこまでも寂しさが広がっている部屋だった。本棚を指先でなぞり奥へ進むと、一枚の写真が落ちてあった。あの日、この場所で撮った『限りなく完璧に近い日』の写真だった。ベッドのシーツは冷たく、バスタブは空になっている。転がっているワインボトルは下半分が粉々になっていた。セドリックが、彼の持つすべてを使ってニコラスを傷つけている。どこを見渡してもセドリックの幻影があり、その影に手を伸ばしても指の間から空気が逃げていくばかりだった。
「ぼくが、先に死ねばよかった。そうなると思ってたし、そうなるべきだった」
ニコラスは写真を拾い上げ、壁に貼り付けた。ニコラスの意志とは裏腹に、刻一刻と時間は無情にも進んでいく。
「ぼくらは一番美しい瞬間に、この世を去るべきだと思わないか?」
ニコラスは、そう言い残し、必要の部屋を去った。もう二度と来ることもない部屋を。自室に戻ったニコラスは、デスクの引き出しから日記帳を取り出した。覚えているうちに、すべてを書き残さなければならないと思ったのだ。今この瞬間にも、セドリックのことを忘れてしまうと思うと、恐ろしくて仕方がなかった。ニコラスに触れるセドリックの指先の温度と感触を忘れないうちに書き残しておきたかった。始まりから終わりまで、すべてを書いて、書いて、書き尽くした。ニコラスには書くことしか、できない。それしか残っていないから。だから、書くしかなかった。日記帳を捲り、別の紙に写し、足りない部分を書き加えていく。ニコラスの覚えている景色も、匂いですら言葉に変えていく。何も食べたくなかったし、眠りたくなかった。ニコラスは一ヶ月のあいだ、ほとんど自室から出ることはなかった。そんなニコラスを心配したダンブルドアは、卒業の前日、ニコラスの部屋へ足を運んだ。扉を数度ノックし声をかけた。ニコラスが何も言わず、扉を開けた。部屋の中はニコラスが生活していたとは思えないほど、綺麗に片付けられていた。シワひとつないベッドのシーツや、空になった本棚。人の気配が全くしない部屋にダンブルドアは息を呑んだ。
「……何も。何も、言わないで。裏切られるのには慣れてる。でも、もう立ち直れない」
ニコラスから出た言葉は拒絶だった。透き通るほど白い肌に太陽の光があたり、まるでゴーストのようにすら見えるニコラスを、ダンブルドアは優しく抱きしめた。この青年は、セドリックから本当の愛を手に入れ、そして、すべてを失ったのだ。今は、もう生きる意味ですら、失っている。生きて欲しいと思うことがニコラスを却って傷つける。分かっていても、願わずには居られなかった。ダンブルドアは最後にニコラスの顔を両手で包み込み、その瞳の色を見つめた。ニコラスの瞳には黄金比の美があったが、色彩は濁り、虚ろな眼差しをしていた。その目を記憶に焼きつけるように見つめた。ダンブルドアは部屋を出た。どれほど手を尽くそうともニコラスは、きっと死を選ぶ。深く長いため息と共に、一筋の涙が流れたが、ダンブルドアは、それをなかったことにした。ニコラスについて悲しんでいいのは、死んでしまったセドリックだけなのだから。
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