06
※性行為の描写があります
ニコラスはセドリックを呼び出して、叫びの屋敷に向かった。セドリックは第一の課題で手に入れたドラゴンの卵を持っていた。未だに、謎が解けないらしい。空のバスタブに寝転ぶニコラスの上から、セドリックは赤ワインを注ぐ。
「君と居ると、下らない階級制度やマナーが気にならなくなる。君は、とても美しい人だ。でも、それだけじゃないんだ。移り気で、無垢で、好奇心旺盛なところも含めて、君は完璧だ。ただニコラスであるだけでいいんだ」
セドリックは猫足のついたバスタブに腰をかけて、ニコラスの髪に指を通したり、指にからませたりしている。時折、赤ワインのボトルに口をつけながら。セドリックはニコラスの頭や柔らかい髪を撫でるのが好きだった。ニコラスはセドリックの手を取り、あの時と同じようにキスを落とした。
「きみは誰よりも美しい言葉を使う。きみの美しい言葉が、ぼくだけのものになればいいのに」
セドリックは身を乗り出して、ニコラスの唇を舐めた。赤ワインの香りが充満している。喉が渇く。もっと欲しいと思う。欲は底を尽きることを知らず、永遠を求めるようになる。
「ニコラス、君は僕の生きる意味になった。だからこそ、僕らは一番美しい瞬間に、この世を去るべきだと思わないか?」
ニコラスは、いつだって本気で生きている。本気で相手を愛している。だが、その時に限って相手はニコラスの「愛してる」を嘘だと言って、笑って流す。セドリックだけだった。ニコラスが本気で生き、本気で人を愛し、本気で愛を肯定することを、ニコラスの愛を信じるという行為を信じる信仰を、全てを受け入れたのは。カチカチと歯の当たる音がする。ニコラスの体温は下がるばかりだ。脚の長さの不揃いな椅子の背にかけられたトレンチコートを見つめた。
嫌悪。
これはニコラスに向けられた言葉なのか、それとも世界に向けたニコラスの言葉なのだろうか。何も分からない。ニコラスの奥歯はカチカチと音を立てる。セドリックは寒さに凍えるニコラスの腰を抱いて、監督生専用のバスルームへ向かった。ニコラスが脱ぎ捨てた服は赤ワインで濡れそぼって、脱衣所の隅でぐしゃぐしゃになっている。杖を一振りして、水気を飛ばし畳んで棚に置いた。セドリックは目を閉じて想像する。ふかふかのタオルの山を下の方から染めていく赤い水溜まりはニコラスの血液だ。蛇口から色とりどりの泡が出ているが浴槽の真ん中で沈んだニコラスの死体は真っ白だ。金の額縁のブロンドの人魚の絵がニコラスの死に涙を流す。自分はニコラスの死に涙を流せるだろうか。
暖かい水蒸気がバスルームの中で充満している。ニコラスは湯船に浸かっていた。後ろからでも分かる。あの美しい頭、見紛うことのない肩のライン。金の卵を掲げる細い腕の形。セドリックは手すりに持たれながら、階段の一番上に腰を下ろした。ニコラスがセドリックの膝に頭を乗せて微笑む。放り投げた金の卵がドボンと音を立てて泡の中へと消えていった。
「僕はニコラスを愛してるってこと以外、未だに自分が分からないでいる」
「先に触れてきたのはセドリックの方だ」
「先に図書館で僕を挑発してきたのは君だろ?」
「どちらが先かなんて、大した問題じゃない」
ニコラスはセドリックの膝や太ももの内側にキスを落とす。大した問題じゃないだって?君は大勢の人間に批判され消費されてるって言うのに?日刊預言者新聞の写真だってセドリックは気に食わなかった。ニコラスの美しい姿を見るのは、自分だけでよかったのに。ああ、確かに大した問題じゃないかもね。ニコラスがセドリックの性器を口に含んでいること以上に、大した問題があるとは今のセドリックには思えない。自分が他の人間と同じように異性愛者であることを疑いすらしなかった過去を思い出す。過去の自分は今の自分を見て、どう思うだろうか。性的倒錯者だと蔑むだろうか。何も、分からない。セドリックは目を閉じて、ニコラスの頭に手を伸ばした。視界が弾けて、水面と地面と空間全ての見分けがつかなくなった。
「……なぜ、そんな生き方が出来る?」
「これ以外の生き方がないだけ」
ニコラスがセドリックの指を咥えたあと、耳元で囁いた。きみの好きにしていいと。セドリックはニコラスの薄い身体を後ろから抱きしめる。少し浮き気味の肋骨を手のひら全体を使って撫でながら、背中や項にキスをして、ニコラスの中で果てた。セドリックがニコラスとセックスしているせいで、金の額縁のブロンドの人魚の絵は、いつの間にか泳いで逃げてしまっていた。ニコラスは人魚が去る瞬間、彼女に向かって微笑んだ。きみは美しい。けれど、ぼくの勝ちだ。ニコラスはセドリックの心臓の音を聞いている。
「きみの心臓の音が聞こえる。ぼくは、きみの鼓動の音を知ってる」
「例え一緒に居なくても、君が近くに居たら分かるよ」
セドリックもニコラスも、自分たちの関係を若さ故の過ちだなんて思わない。思春期のありがちな思い出にするつもりなど毛頭ない。永遠に続けばいい。永遠に自分のものになればいい。死は二人を引き裂いたりしない。
「ぼくは、ぼくのものだ。だけど互いに望むうちは、ぼくに与えられるものは全て、セドリックに与える。きみは、ぼくを制することはできない。ぼくは自由だから。でも、ぼくは、きみに尽くすよ。きみに合ったやり方で」
「僕は君に誓うよ。僕が夜に囁く名前と、翌朝、笑って覗き込む目がニコラスのものであることを」
「ぼくは誓う。ぼくの生き死にを、どちらも等しく、きみに委ねることを」
「僕は君の盾となり、君も僕の背中を護る」
「ぼくは、きみを貶めず、きみも、ぼくを見下げない」
「僕は君を誰よりも尊ぶ」
「これは、ぼくから、きみへの永遠の誓いだ」
「平等な者同士の、永遠の誓いだ」
ぼくらは一番美しい瞬間に、この世を去るべきだと思わないか?
ニコラスはセドリックの首を絞め、セドリックはニコラスの首を絞めた。二人は浴槽の真ん中で、もがきながら沈んでいく。暖かい湯の中を美しい歌声が漂うように響いた。
探しにおいで 声を頼りに
地上じゃ歌は歌えない
探しながらも 考えよう
我らが捉えし 大切なもの
探す時間は 一時間
取り返すべし 大切なもの
一時間の その後は
もはや望みはない
遅すぎたら その者は
もはや二度と戻らない
死は、そこにいないときこそ輝いている。逝去すること、それは死ぬことではない。ニコラスとセドリックが墓の石に変身してしまうことは不快なことではない。それはミサのときに、パンがキリストの身体へと変化する実体変化のごときもので、存在へと上昇することだ。死と美とは深淵なる二物であり、内にかくも豊かな闇と蒼穹を孕む。同じ謎と同じ秘密を隠し持つ、恐ろしくもまた豊穣な女神のよう。二人は、その女神に会うことは叶わなかった。その代わりに第二の課題のヒントを得た。咳き込みながら笑った。人生は大車輪だ。生きている限り回り続ける。ときには止まりそうになるときもある。ニコラスは、自分たち人間がその中に捕らえられ、生と死を繰り返していると考えている。図書館でセドリックを見たとき、ニコラスの車輪は打ち壊された。セドリックの車輪もまたニコラスによって打ち壊された。風船が割れるように、パンっと音を立てて。
「イェイツは生まれ変わるには一度、死ななくてはならないと言った。これまで、ぼくは他人の幸せのために生きてきた。今度は、きみの傍で自分の幸せを求めるよ」
「夏になったら二人でヴェネツィアに行こう。ゴンドラに乗って、オペラを見るんだ」
ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレット。世界的に有名な画家達の作品が、建物の内部を華やかに彩る。ヴェネツィアは五世紀にアドリア海の干潟(ラグーナ)に築かれ、街は百十八もの小島から成り、数多くの橋で繋がっている。十世紀には強力な海運共和国として貿易で栄えた輝ける歴史をもち、街全体と潟が世界遺産に登録されている。共和国の要でもあるドゥカーレ宮殿や、サン・マルコ大聖堂、大運河沿いに連なるカ・ドーロ等貴族の館はもとより、小さな建物に至るまでヴェネツィア全体が建築的な大傑作ともいうべき美しさを誇る。イギリスのように、ただ伝統的なだけでなく、そこには確固たる美が存在する。アートと酒に溺れる休暇になるだろうなとニコラスは思った。退屈なマスコミから距離を置くには、これ以上ないくらい最高の場所だ。
ぼくは、この世の有情のもの全ての幸せを祈ることに専念する。昔の聖者たちのように。そうして、ぼくは、ぼくらは一番美しい瞬間に、この世を去るべきなんだ。
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