07
『グレイの肌』の最終章が載った十二月の週刊魔女の売り上げは、他のどの月よりも良かったらしい。価値観が一世紀ほど遅れた魔法界の出版業界も、これには重い腰を上げざるを得なかった。とうとうニコラスの本が作られ、ダイアゴン横丁の中でも、とくに敷地の広いフローリシュ・アンド・ブロッツ書店の、一番奥の棚に並べられた。店先で堂々と売るには内容が少し過激すぎるのだとか。ニコラスは自分の本が、どのように売られているのかなど興味がなかった。たとえ、本の表紙がニコラスのインタビュー写真によく似た絵であったとしても、それで売れるなら好きにすればいいと思った。無事に完結まで漕ぎ着けたことにより、ニコラスは週間魔女が主催する一足早いクリスマスパーティに招かれた。特別に学校を抜けたニコラスは、パーティ会場として貸切になったフローリシュ・アンド・ブロッツ書店へと足を運んだ。既に会場には大勢の大人たち――金の亡者だ――が着飾り、シャンパングラスを片手に談笑していた。ニコラスは、いつも着ているコートを預けた。その際、顔を顰められたのは、背中に書かれたアルファベット四文字のせいだけではなさそうだった。
「やあ、主役のお出ましだ!」
どこぞの誰かの声により、ニコラスの到着が全員に知らされた。群衆の中にはリータ・スキーターの姿も見えた。途端、人に囲まれるが、こんなことで一々、狼狽えるようなニコラスではなかった。ウェイターから、ひょいとシャンパングラスを奪ったニコラスはグラスを掲げ、唇を濡らした。
「本の内容はどうあれ、君は成功者になったわけだ」
「そうかもね」
「どんな気分だい、ビューティフル・ボーイ」
「退屈。いつものことだけどね。ぼくは何も変わらないよ。やあ、リータ。久しぶりだね。相変わらず緑のドレスがよく似合ってる」
入れ替わり、立ち替わり、面倒な連中の相手をしながら、ニコラスはリータに近づいた。唯一、知っている相手が彼女しか居なかったのはニコラスにとって、良いことなのか、それとも悪いことなのか。とにかく、嫌われ者のリータの近くに居れば、大抵の人間は短時間で離れていく。自分の評判を落としかねないインタビュアーの近くに居られるほど、神経の図太い大人は会場に居なかった。誰だって秘密を暴かれるのを嫌う。ニコラスはリータの耳元で囁いた。
「みんな、ぼくに服を脱いで欲しいと思ってるのさ。男娼のグレイみたいにね」
今日のニコラスは、随分シンプルな服装をしていた。預けた黒のコートの下は、黒地に赤い薔薇がプリントされたワイシャツを着ている。サイズが大きめなせいか、肩が少しずり落ちている。アルコールを摂取したせいで体温が上がり、今は胸元のボタンも、まともに止まっていない。そのせいで、ニコラスの肌が顕になっている。
「きみはどう?ぼくとセックスしたいと思う?それで、また退屈な記事を書くんだろ。ぼくは血を流しながら執筆してるんだ。きみはどうなの?」
「んっんん。ニコラス、あなた酔ってるのね」
「まさか。シャンパン一杯で酔えるなら、世界は、もっと楽しく美しいもので溢れてるはずだよ」
ニコラスの言葉に同意したのは、ザ・ウィアード・シスターズでリードギターを担当しているカーリー・デュークだった。他のメンバーも、この会場に居るらしい。カーリーの特徴的な長めの前髪が、さらりと流れた。彼はニコラスをじっと見たかと思うと、ニコラスの腰を抱いて歩き始めた。退屈の文字が消えた気がした。彼に誘われるまま、ニコラスは書店の地下へ向かって階段を降りていく。心拍数が上がる。カーリーはニコラスを壁に押し付けた。もっとアルコールが欲しかった。例えば憂鬱を彷彿とさせる赤ワインではなく、もっとアルコール度数の高いウォッカだとかが。
「キスしても?」
「しっかり味わってくれるなら、いいよ」
ニコラスの唇に何度かキスを落としたカーリーは、そのまま頬へ、首筋へ、胸元へ痕を残していった。ニコラスがカーリーの髪で遊んでいると、カーリーが、ふと顔を上げた。
「トレイン・スポッティングを知ってる?」
「アーヴィン・ウェルシュの?この前、読んだよ」
「どう思った?」
「ただのケミカル・ジェネレーション作品じゃないことは確かだと思う。あの話は、ぼくらの世代の、悲しくも笑える、最高に生きてる話だ」
「ここだけの秘密、もうすぐ映画化するんだよ。サントラに参加しないかって話が来てる。ザ・ウィアード・シスターズじゃなくて、別名義でだけどね」
ザ・ウィアード・シスターズのメンバーは、それぞれマグルの世界で別名義のバンドを組んでいる。ボーカルとベースはパルプ、リードギターとドラムはレディオヘッドというバンド名だ。魔法界で知っている者はニコラスを除いて、ほとんど居ないだろう。カーリーはマグルの間ではレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドという名前で顔が割れている。
「あなたのこと、カーリーって呼ぶべき?それともジョニーって呼ぶべき?」
「……ジョニーと呼んで。きみがNMEの記者じゃなくて良かったよ。心の底から安心してる」
NME――ニュー・ミュージカル・エクスプレスは英国の週刊音楽雑誌だ。老舗雑誌でありながら、音楽メディアとして世界的な影響力がある。ニコラスも好んで読んでいる雑誌だ。NMEでは年間のベストアルバムとベストソングをランキングにして発表しているが、今年はもう決まっているも同然だった。デビューして一年目のオアシスが、まるでビートルズ再来かのように英国を制覇している。
「彼らはギャラガー兄弟やアラン・マッギーを追っかけるので忙しいんじゃない?オアシスがどうかは知らないけど、レディオヘッドは絶対に参加すべきだよ。トレイン・スポッティングは後世に残る作品だもの」
「きみと同じでね」
「アーヴィン・ウェルシュとニコラス・マッキントッシュの名前が並ぶなんて、イギリス文学界の恥だと思わない?」
ニコラスはクスクスと笑って言った。シェイクスピアの生まれた国で流行っている本が、ジャンキーの青春を描いた『トレイン・スポッティング』と、男娼が主人公の『グレイの肌』だ。九十年代の英国が、どれだけ悲惨かを物語っている。
カーリー改めジョニーは再びニコラスの腰を抱いて、地下にある倉庫のような部屋へ向かった。ドアの向こうでは、ザ・ウィアード・シスターズのメンバーが酔ってるのか、ラリっているのか、ソファの上だったり、床の上だったりに寝転んでいた。彼らは完全に正気を失っていたが、ロンドンやソーホーでは、よく見る光景だった。ジョニーがウォッカをグラスに注いでいる間、ニコラスはテーブルの上に置かれた誰かの煙草を一本、拝借し火をつけた。パーティは、こうでなければ。対面したソファの上で身体を縮めて眠っているボーカルのマイロン・ワグテイル――パルプのジャーヴィス・コッカーだ。文学青年のような雰囲気のある人だ――を眺めながらニコラスは、そう思った。
「マグルのマスコミに追いかけ回された有名人が、魔法界に逃げるのは何も珍しいことじゃない」
「ぼくは魔法界のマスコミに追いかけ回されてるのにね」
「きみは、きっとマグルでも有名になると思うよ」
出版業界のパーティなんて退屈そのものだと思っていたが、ゲストのお陰でニコラスは、そこそこ楽しんでいる。
「去年だったかな、漏れ鍋でストーン・ローゼズのイアン・ブラウンを見かけたよ。ホーキング博士の本を読んでた」
「ぼくは、こっちで誰かと会ったことないな。結構ニアミスしてるのかもね。何に乾杯しようか」
ジョニーがニコラスにグラスを渡し、隣に座った。
「追われる皮肉的な者たちへ」
「追われる皮肉的で悲惨な者たちへ」
アルコールが喉を焼く。胃の中が温められる。ここにドラッグがなくて良かった。もし、あったとしたらニコラスは自我を保てなかっただろう。
「ホグワーツのクリスマスパーティに参加する予定だから、楽しみにしてて」
「レディオヘッドも来ればいいのに」
「トムは、こっちの世界を毛嫌いしてる。まあ、彼は魔法界だけじゃなく、世間の色んなものを嫌ってるけどね」
レディオヘッドのファーストアルバム、パブロ・ハニーはクリープばかりが注目を集めているが、他の曲だって素晴らしいとニコラスは思っていた。世間がクリープしか評価しない意味が分からない。トム・ヨークの作詞は、どれも社会問題を湾曲的に書いている。その多くは何らかの扇動的意識や不特定多数への問いかけを内包しているというより、むしろアイロニカルで厭世的なものだ。それを理解していない連中が多すぎるのだ。
「パブロ・ハニーは、ぼくのお気に入りの一枚だよ」
「アルバム全体の雰囲気が、きみに少し似てる」
「ぼくも嫌いなものが多い。あなたのことは好きだよ」
ニコラスとジョニーはキスをしたり、髪を撫でたり、子供のおままごとのような触れ合いを続けた。その頃にはニコラスの胸元のボタンは下二つ以外、外されていた。
「魔法界に飽きたら、こっちへおいで。きみと一緒に創作したい」
「ザ・スミスじゃないけど、今夜ダブルデッカーバスに轢かれて死んでもいい。それくらい嬉しいよ」
「きみが好きだ。みんな、きみに恋をする。その理由が分かった」
ジョニーがニコラスのワイシャツのボタンを一つずつ止めている間、ニコラスはアルコールでふやけた頭を何とか正常に戻そうと大きく息を吸った。上に戻って愛想を振りまく準備をしなくちゃならない。求められるままサインを書いたり、ハグをしたり、退屈なインタビューに答えたり、どこかの誰かと一曲踊ったり、写真撮影をしたり、ああ、なんて退屈。
「シラフのくせに幸せだなんて言うヤツは、とんでもない嘘つきだ。ぼくは今、とても幸せだよ」
ニコラスはそう言い残して、フローリシュ・アンド・ブロッツ書店を出た。もうすぐ日付が変わる時間だった。翌日の日刊預言者新聞の一面は、昨日のパーティについての記事だった。ニコラスがジョニー……カーリー・デュークに腰を抱かれている写真だった。
「大人気ロックバンド、ザ・ウィアード・シスターズのカーリー・デュークがパーティでニコラス・マッキントッシュを射止めたか!?」
「アーティスト同士、気が合ったのだろう。これから、どんな関係に発展していくのか要注目!」
「ホグワーツで行われるクリスマスパーティにはザ・ウィアード・シスターズも出演予定。そのときに何か動きがあるかもしれない」
他にもニコラスと出版業界の大物とのツーショット写真も掲載されていたが、それ以上にカーリー・デュークとの話題の方が盛り上がりを見せていた。NMEなら、もう少しマシな記事を書いたかもしれない。クリスマスパーティは明日だった。セドリックがチョウ・チャンをパートナーに誘ったことで、ニコラスと上手くいっていない、なんて噂も流れた。専ら、悪口を言われるのはニコラスの方で、有名人と浮気しただの、自分が有名になる為ならセドリックをも利用するクズだ、とも言われた。何か言い返そうとしたが、結局、ニコラスの口から言葉が出ることはなかった。どうせ何を言ったって、ニコラスの言葉はゴシップ記事の題名と同じようにしか扱われないのだから。
「きみに疑われるのが一番、辛い」
「疑ってないさ。それで、カーリーはどんな風に君に触れたんだ?」
「泣きたくなるほど優しかったよ。たくさんキスをしたんだ。でも、それだけだった。彼のことは好きだけど、ぼくは彼を愛せない。愛してるのは、きみだけだから」
「嘘をついてるかも」
「ぼくの愛が嘘なら、世界のどこにも真実なんて存在しない」
「君を愛してる。取り返しがつかないほどね」
ニコラスはセドリックに凭れながら、ヴェネツィアに旅行ガイドブックのページを捲った。クリスマスなんてうんざりだ。早く夏になって欲しかった。美しい風景と、美しい言葉と、美しい彼だけ。ニコラスに必要なのは、この三つだけだった。
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