19 - 太宰
店の中には客が一人もいなかった。話し合いの前に何か飲まなければ。デニス・ルヘインの小説に『戦いの前に一杯(スコッチに涙を託して)』というのがあるのを思い出した。
「遅れてすまない」
「いいんだ、先に飲んでたよ。太宰くんはどうする?」
「ブラック・ブッシュを」
「太宰くんはウィスキーが好きだよね」
「まぁね」
二人ともいつもより飲むペースが速かった。アルコール特有の浮遊感の中、訳も分からず二人して語った。
「斎ちゃんは無意識のうちに人を惹きつけるからいけない。君は一人でも生きていけるくらい強いだろう?私はね、君のその強さに心底惚れているのだよ。そして同時に、君のその強さに溺れて死にたいとも思っているんだ」
こんな素敵な口説き文句を聞いたのは初めてだった。
「嬉しいね。でも私が強いのは、そうなる他に道がなかったからだ」
彼は私の頬を撫で、一つ頷いた。
「ウン。君のその強さに惚れているのは、何分、私だけではないよ。安吾や織田作、果ては首領だって君を独り占めしたいと思っている。高潔で穢れなき君を、欲望のままに貪って穢してしまいたい。誰もがそう思ってしまうんだよ。それくらい、君の強さは人を惹きつける。君自身は何も分かっちゃあ、いないけれど」
彼の一人語りを聞きながら煙草を巻いた。
「いつも何を吸っているの?」
「ゴールデン・バージニア。でもこれでラストだ」
「どうして?」
「サクさんが羨ましそうに見てくるから。で、消費する量が一気に増えたんだ。だから諦めてあの人と同じ銘柄に変えようと思って。最後の1本は太宰くんにあげるよ」
片手で巻けるようになるくらいには、この煙草を気に入っていた。
「斎ちゃんが煙草を巻いてるのを眺めるのが好きなんだ。何だかね、手つきがいやらしくてサ」
「珍しく酔ってるね」
「そりゃ、好いた女性が隣で自分の為に煙草を巻いてくれるんだもの」
「良かったね」
「まぁね。それにしても君、織田作に絆されてるねぇ」
「そう?」
「煙草の銘柄を相手に合わせるなんて、絆されてる以外に何かあるかい?誰かの私生活が自分の中に入ったその瞬間から、人はもう相手に気を許しているものなのさ。あーあ、斎ちゃんは罪な人だなァ」
人を好くということは愉しいことでございます。
題名は忘れたが、ある小説の一節が、頭の中をグルグル回っていた。
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