想像している間に僕の親指が、フェンスに食い込んだ。瞬間、痛みを感じる。老朽化していたのだろう。ささくれ立った部分が肉を裂いていた。
痛い。親指が言う。
早く、と足が怒鳴った。
何で、と。ふと僕の耳が疑問を持った。足は耳のいう事を聞かず、フェンスを上り続ける。腕が、自分の身体を持ち上げた。親指から流れる血がひじまで流れてゆく感触。
耳は疑問を止めなかった。何で、どうして、と。「待ってくれ!」と、何故。誰の声がするのだろうか、と。
僕の首がゆっくりと、後を向く。するとフェンスに上る僕の一歩後ろに、同級生の男が立っていた。
目の玉が彼の足を見る。かすかに震えている。そのまま視線を上げて、その顔を見てみる。血の気が無い。紙のように、真っ白。
「待ってくれ! 俺が悪かった! だから、戻ってきてくれ!」
跳ね上がるようにして素早く身体を折り曲げ、アスファルトの上に額をこすりつけながら土下座をしてくる。その輪郭が歪んで見えたので、目を細めながら僕は、彼が何故そんな事を言うのか、と首をひねる。単なる同級生だろう、と。
すると僕の鼻が、自分以外の汗の匂いを感じながら言った。彼は、恋人だったでしょう? と。そうだ、と僕の唇が言う。単なる同級生ではない。頭の中に、目の前にいる男の笑顔が浮かんだ。
ああ、そういえば僕と君は付き合っていたね。高校二年の夏に、僕からキスをしたんだっけ。偶然一緒になった予備校の帰り道、おどけながら掠めるように唇を奪って。
その時の僕は、本当に舞い上がっていた。好きになることに理由なんて無いのだと思った。ただ彼の持つ雰囲気が気になって――とても繊細な砂糖菓子のように脆そうで、甘い匂いを感じていた。いつも目で後姿を追ってしまう。ふわりふわりと宙に舞う髪を、触りたかった。だから行動に出たんだ。
芸人のようにおどけたのは、断られても冗談だと言えるように。それは自分を守るためなのか、自分を友人だと意識しているはずの君を悲しませる結果にならないようになのか、後からずっと考えていたけれど、答えは出なかったな。
キスをされた君の顔は、耳から幕が閉じるようにさっと赤くなったね。そして一瞬強張ったように見えた。が、「やめろよ、お前、それは冗談で済まないだろ」と、君は笑ったね。
僕は、もう一度キスをした。首まで染まったその色に勇気をもらったからね。心臓が破裂しそうだったけど、それでも君に触れたかった。
唇をそっと合わせた。驚きからか見開かれた目をじっと、見つめながら。すると、その目が徐々に目蓋に隠れていって……だから僕は、受け入れてくれたのだと判断したんだ。
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