清一郎はその夜を、ビジネスホテルで明かした。あれだけ無茶苦茶に抱いておいて、戸惑う様子でいた瑞樹をそこに置き去り、こうして逃げてしまったことへ、罪悪感がふつふつと湧く。しかし、清一郎は少しでも彼と離れ、冷静になりたかった。共に過ごせばどうしても彼に引きずられてしまう。

 距離を置こうだなどと、自分は何って愚かだったのか。惹かれる心は変わらないが、このままでいれば、この手で彼を酷い目に合わせてしまいそうだ。愛する気持ちが本当にあるのならば、別れるべきだろう。

 出勤すると、そこには瑞樹がいるはずだ。清一郎は考えた。店で修羅場を起こすわけにはいかない。別れを告げるならば、まだ薄暗い早朝である今、家に帰ってそこで話をすべきだ、と。

 別れの文句を頭の中で反芻させながら帰宅する。ドアの鍵は、開いていた。

 薄暗い玄関へそうっと上がりこむ。そこで、清一郎は、心臓が止まりそうな程に驚いた。びくり、と全身が大きく跳ね上がる。吸った息が肺の中で留まった。

 玄関には瑞樹の、全裸で正座する姿があった。いつからそこでそうしていたのだろうか。彼は頭を深くさげ、床に三つ指をついている。

 何か、言わなければ。そうだ。別れを告げるのだ。今、すぐに。

 清一郎は震える口を開く。長い坂道を下るような気持ちだ。

「瑞樹」

 呼びかければ、彼はゆっくりと顔を上げる。そこに違和感を覚えた。何かがおかしい。異様だ。どこが――口元が。

 ざざりと全身に鳥肌が立つ。まさかと思った。昨夜の記憶が頭の中へ、凄まじい速さでスクロールされる。

 ――歯が当たる。自分は、瑞樹にそう言った。そう、言ったのだ。

 瑞樹の美貌は、口元が奇妙に歪んでいても全く損なわれていない。

「おふぁえひなふぁい」

 清一郎は絶望を見た。彼の、開いた口から歯が一本も見えない。

 そんなつもりではなかった。こんなことをするなんて、思ってもみなかった。ああ、ああ……どうしてだ。酷い。こんな地獄を知るなんて。

 歯を食いしばり、手を握り締める清一郎の股間は勃起を示していた。悪魔であるのは、瑞樹か自分か、どちらだ。どちらなのだ。

 震える足で瑞樹に近づく。やはり震えている手で彼の頬を包み込んだ。瑞樹は嬉しそうにまぶたを細めてゆく。

 指にキスをされた。徐々に開いてゆく口。歯のないそこに指が食われてゆく。人差し指へねとり、と舌が絡み付いてきた。清一郎の眼球の奥がカッ、と熱くなる。彼の健気さに涙が込み上がった。

 奥の部屋から朝日が差し込んでくる。

 廊下には、瑞樹のものと思われる血塗れの歯がニッパーと共に転がっており、それを目にした清一郎の喉仏がゆっくりと上下した。

 瑞樹は唇から唾液を滴らせ、微笑む。

 それはもう、壮絶なまでの美しさで。



 終

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