06


それは何気ない、いつもと変わり映えのない授業中のことだった。



昼下がりの体育館に、キャッと子供たちの悲鳴が上がる。
子供たちがわらわらと群れたところに駆け寄ると、大得意の平均台を軽やかにステップしているはずのみぬきちゃんが、その平均台の下に倒れていた。

「みぬきちゃん!?」

血の気の引いたような青白い顔をして倒れている彼女を見て、恥ずかしながら、そのとき私は少しパニックを起こしかけていた。何しろ新米教師の私にとって、授業中に生徒が倒れるなんて想像もしていなかったことだ。
すわ、緊急事態だと保健室に駆けこみ、保健医と意識を取り戻したみぬきちゃんの双方から話を聞くまでの数分、自分がどう行動して何をしゃべったのかさえよく覚えていない。怖かった。
怖くて怖くてたまらなかった。

(助けに来てよ、成歩堂さん、成歩堂さん、成歩堂さん)

みぬきちゃんを抱きかかえながら、私は心の中でずっとあの人を呼んでいた。

(成歩堂さん!)

祈るように呼んでいた、なんて。







結論から言うと彼女の体調不良の理由は、貧血だった。
小学六年生の女の子。身体の変化を起こし始める、ごく平均的な年齢である。
要するにそれは、月経からくるものだった。
保健医と本人の話を聞くと倒れるほどの貧血は初めてだけれど、これまでにも幾度か月経による体調不良はあったらしい。
みぬきちゃんはそれを父親である成歩堂さんに報告することを、極端に嫌がっていた。

「パパに会いたくない。ねぇ先生、言わないでね」

生徒たちの中でも目だって利発な彼女が、こんな風に聞き分けなく振舞うのを私は初めて見た。
でも、その気持ちはわかる。私だって女だから覚えがある。自分の身体の変化を父親に話せない、その微妙な気持ち。
彼女はまさにそういう微妙であやうい年頃なのだ。
ましてや、父親とはいえ成歩堂さんはずいぶん若いのだから余計にデリケートである。




放課後になっても重い腹痛に苦しんでいるみぬきちゃんは、やっぱり帰りたくないと呟いた。この状況で帰れば、その理由を成歩堂さんに説明せざるをえないからだ。
デリケートなことだから慎重に、今は本人の意思を優先してと保健医の助言もあり、とりあえず私のアパートに連れてきて休ませることにした。
幸い、都合のよいことにこのアパートのすぐ裏が彼女の住む「成歩堂芸能事務所」だ。
容体が良くなればすぐに家に帰してあげることができる。

みぬきちゃんに温かい紅茶を飲ませ、私のベッドを貸し、その細い腰をずっとさすっていた。

「こうやってね、温めて血行を良くすれば、少しは楽になるから」

「先生……ママ、みたい」

みぬきちゃんがぼそりと何か呟いた。

「うん?」

彼女は腹痛にゆがめていた顔を少しだけ和らげて、にこ、と笑った。

「みのり先生みたいなママが欲しいな、って」

「あら、それは嬉しいな。でも歳が合わないよ」

歳が…と言いながら、いや、それは問題なのだろうかと自問が浮かぶ。親として歳が合わないのは、成歩堂さんだって同じだ。
いくつと言っていただろうか。確か三十くらいだったはずだ。その彼が、十二歳のみぬきちゃんの父親をしているのだから。

「…成歩堂さんは、本当に立派なお父さんだよね」

「みぬき自慢のパパです」

「ちょっと不思議な人だけど、なんとなくモテそうだよねー」

「あ、もしかして先生、好きになっちゃいました?」

彼女のその突飛な言葉に、ごーん!と脳天をチョップされたような衝撃を受ける。
その衝撃が私にとって肯定の意味なのか否定の意味なのか、私自身にもわからないのだけど。

「な、何言って…そんなわけ…!」

そんなわけないじゃない!と言いたいのに、そうやって力いっぱい否定するのも失礼な気がする。
そんなわけ、なく、はない…?
いや、ここは深く考えずに否定すべき場面だった。自分の立場を考えるならば。
どうして動揺してるの、私。
急に顔が熱くなってきて、ごまかすようにみぬきちゃんの腰をさする手に力をこめて、その動作に集中した。

「パパってああ見えて女の子の知り合い多くて。昔の写真とか見ると、常に一人か二人は一緒に写ってるし」

「へ、へぇー…」

「でもみのり先生、パパは」

みぬきちゃんは、ため息をひとつついて、真剣な瞳をこちらへ向ける。

「?」

「パパは恋をしないんです」

ちょっとだけ、悲し気な声色。



みぬきちゃんの話によると、成歩堂さんはかつて「運命の人」と想った人にずたずたに傷つけられたことがあるらしい。その後にも支えてくれる女性は現れたらしいのだが、過去の恋を引き摺るあまりに恋愛には発展しなかったとか。
大失恋の痛手。未練。あの飄々とした成歩堂さんが。

「先生ー、いま、『あの成歩堂さんが?』って思いませんでした?」

とみぬきちゃんが笑う。するどい。妙に直観のするどい子だ。
他人事のように楽しそうに言うみぬきちゃんに対し私は、なんだか急に胸につっかえるものを感じ始めていた。

過去の恋。
運命の人。
パパは恋をしない。

キーワードを反芻すればするほどに、息苦しくなる気がする。
何だろう、この気持ちは。









みぬきちゃんと一緒に、私もいつのまにか浅い眠りに落ちてしまっていた。ぼんやりと開いた目で時計を見るともう二十三時に近く、跳ね起きた。
二十三時?これはまずい。深夜だ。小学生の児童をこんな時間まで親元に帰さないなんて、きっと心配してるだろう。
みぬきちゃんが熟睡しているのを確認してから私はすぐに部屋を飛び出し、深夜営業している近くのドラッグストアに寄り道をして、成歩堂芸能事務所へと走った。


事務所のドアチャイムを鳴らそうと思ったところで、飛び出してきた彼とぶつかった。
そう、文字通り「ぶつかった」のだ。彼のしっかりとした胸板に、自分のそう高くはない鼻がむぐ、と押しつぶされた。
成歩堂さんは色々な想像をめぐらせてかなり心配していた様子で、冷静さを欠いていた。みぬきちゃんから離れられなかったとはいえ、本当は私がすぐに連絡を入れれば良かったのだ。
ごく簡略化して事態を説明すると、彼は恥ずかしそうに少し笑って、がくんと膝を落とした。
必然的に、彼の頭を、目の前にいた私の肩が支えてなんとか体勢を保っていた。
額が汗をかいている。それが、彼の焦りを物語っていた。

「なるっ、なるほどうさん?」

「ごめ…何か、力抜けちゃった」

ほんとうに、みぬきちゃんが心配でたまらなかったのだろう。
不安で胸が張りつめて、苦しくて、探し出そうと家を飛び出したところで、タイミングよく私とぶつかった。


その瞬間の私は。
成歩堂さんの頭が肩に乗って、その重みと体温を感じたとき。
みぬきちゃんの倒れたあの瞬間からずーっと続いていた緊張感が、一気にほどけていった気がした。
何故だろうと一瞬考えたが、答えはすぐに出た。
ああ、そうだった。私は。

(助けに来てよ、成歩堂さん、成歩堂さん、成歩堂さん)

私は彼を呼んでいたんだもの。
ずっとずっと、祈るように。
呼んでいたんだ。
他の誰でもない、彼だけを。






晴天の式日


式日