05
それは本当に何気ない日で、だけど、いまだかつてないような日。
その日、夕方になってもみぬきは学校から帰らなかった。
学校帰りに友達の家へ行ったり、さらにはそのままビビルバーへと向かうこともあるから、その時点では別に珍しく思わなかった。どこかで遊んでいるのだろうと。
そして陽は落ち、僕もいつもどおりに仕事へと向かったのだ。
二十三時。
「ただい、ま…」
帰宅して、その違和感に愕然とした。いつもならその時間には当然帰っているはずのみぬきが居ないのだ。
門限というものははっきりとは設けていない。そんな形式で縛るよりもはるかに物分かりがよくきちんとしている彼女には、必要のないものだったからだ。
何も言わずともしかるべき時間帯には帰宅するし、何かあって遅くなるようなら必ず連絡をしてくれる。
仕事場を含めてすべての部屋を一通り見てみたけれど、しんと静まり返って空気が冷えていた。キッチンのシンクには朝ミルクを飲んだグラスがそのまま。居ないというよりも、学校から帰った形跡も無かった。
まさか、そんなはずはと携帯電話を取り、彼女自身の携帯にかけるが不通だ。ビビルバーにもかけてみるが、今日はみぬきは出演していないという答えが返ってきた。
ふわりと自然に浮かんだ言葉。
事件、事故、はたまた家出。
…家出はないだろうけど、と消去法で可能性を探ってみるが、事件と事故に関してはいくらみぬきが物分かりの良い品行方正な少女だと言っても、不可抗力に巻き込まれれば何の保証もないのだ。
事件?
事故?
サアと血の気が引くのがわかった。
ぐるぐるぐると記憶が巻き戻されて、僕は何年も前のことを思い出す。
綾里真宵がコロシヤに誘拐されたときのことを。あの張り詰めた数日間が、僕の中に一瞬にして蘇ろうとしたのだ。
気がつくと僕は檻の中の動物のように部屋を何週もまわったりしていて、そのくせ頭はもう真っ白で何も考えてなどいなかった。
どうすればいい?
未だかつてこんなことなど無かったのだ。
こんなときに相談すべき相手がいないわけではなかった。
警察関係にも知り合いは多いし、いざというときには親しくしている弁護士もいる。
なのに何故だろう。
僕の脳裏に自然と浮かんだのは、彼女。みのりちゃんだった。
みぬきの担任だからといって、事件ともなれば彼女に何かできることもないのに。
そうと解っているのに、僕が助けを求めたいと思ったのはみのりちゃんだったのだ。
そう思い立った次の瞬間にはパーカーを羽織り、僕はドアに手をかけた。
行き先はすぐ裏の彼女のアパートだ。
「…っわ!!」
ドアを開いて飛び出した瞬間、僕の胸元に何かがぶつかった。何か…というかそれは、間違いなく人の顔だった。
わっという僕の声と同時に、むぐ、と小さく呻いたその声の主は目を丸くして僕を見上げた。
その瞬間、さきほどまでの焦りやら衝動やらが全身の毛穴から噴き出すように、ぶわっと汗をかいた。そこに居たのは今まさに僕が会わなければと求めた人だったからだ。
「みのり、ちゃん……」
「成歩堂さん」
目の前に彼女が立っているということはつまり、この事務所を訪ねてきたのであろうことは聞くまでもなかった。
しかもこの時間だ。緊急の用事でない限りは考えられない。「こんばんは」とか「どうかしたの」とか挨拶を交わす余裕は無かった僕は、何もかもを端折って、単刀直入に要点を口にした。
「きみ、みぬき知らない?居ないんだ」
「っあ、はい。あの、それが…みぬきちゃんは…」
彼女の目が僕の視線を避けて泳ぐ。その様子が、『みぬきの行方を知っている』と明らかに告げていた。
「どこに居るんだ!?」
たまらず声を荒げていた。
みのりちゃんが驚きで肩をすくめるのを見て、法廷に立っていた頃の自分のふるまいを無意識にしてしまったことを自覚する。まるで証人を問い詰めるかのようなこのふるまいだ。
彼女に対して声を荒げるなどとあまりに理不尽だと気付き、思わず口元を手でおさえ、小さく「すまない」と詫びた。
すると、彼女もまたすまなそうに眉を寄せた。
「う、うちに居るんです!私のアパートに」
「…え?」
「今私のアパートで寝ています。…それで私、成歩堂さんにお話が」
「一体どういうこと?こんな時間まで連絡もなしに心配かけて、キミん家で寝てるだって?」
「みぬきちゃん、今日帰りたくないって言って…。『パパに会いたくない』って言うので」
彼女のその言葉に、凍りついたようにぐ、と息が詰まった。
「は…?みぬきが、そう言ったの?」
僕に会いたくないという理由でみぬきは彼女の家に居るという。
事件でも事故でもなく。
これは、一番初めに消去法で消したはずの、家出ではないのか?
今度は先ほどとは違う種類の汗が流れる。
この気持ちは、怒りなのか、悲しみなのか、疑心、それとも絶望か。とにかくどろどろとした嫌な感情が大挙して僕の胸のうちに押し寄せていた。
僕はみのりちゃんの身体を押しのけ、彼女のアパートへ向かおうとした。
「待ってください成歩堂さん、ちゃんとワケが―」
「ワケなら本人から聞くよ」
再び頭が真っ白だった。
親子喧嘩なんてしたことない。
みぬきに嫌われるようなことだってしたことない。
だから『会いたくない』原因はさっぱり思いあたらなかったけど、直接聞かなければ納得なんてできない気がしたのだ。
僕たちは親子だ。
血は繋がらなくとも、気持ちはきちんと向き合っていると―思っているのは、僕、だけか?
そう考えると悔しさで自身を殴りつけたいようなたまらない気持ちになり、ぎりりと唇を噛んだ。
慌てて制止しようとするみのりちゃんの腕をなおも振り払おうとした時だった。
「こ、こらあッ!!いいから落ち着いてくださいって言ってるんです!!」
予想外の彼女の剣幕に、思わず僕はびくりと肩を揺らした。
「こらあッ」て、先生に怒られる悪ガキでもあるまいし、と思いながら彼女が教師であることを思い出す。
新米教師の彼女も、普段学校ではこんな風に声を荒げることもあるのだろうかと思わず想像してしまった。
「…怒鳴らなくても…。わかったよ、聞くよ」
「――みぬきちゃん、今日学校で倒れたんです。貧血で」
「え?」
「貧血起こすの、これが初めてじゃないそうで。倒れるほどではなくとも、これまでにも何度か…。でも、保護者の成歩堂さんには連絡してくれるなと保健医に言っていたみたいで」
「どこか身体が悪いの!?」
「…成歩堂さん、」
これ、とため息まじりに呟いたみのりちゃんは、手に持っていたビニール袋を僕に差し出した。それは近所にある二十四時間営業のドラッグストアの袋だった。
ガサリとそれを覗き込み、あっと言葉を漏らした瞬間僕は、反射的に目を逸らしてしまった。
何というか。
いわゆる女性の生理現象に伴うケア用品、である。
「そのソレはつまりそういうソレで…?」
「そういうアレです」
僕に合わせて言葉を濁してくれたのは、彼女の配慮である。なかなか、とても、気遣いのできる女性なのだと思い知らされる。
そうか、今まで考えたこともなかった。
いくら家族だの信頼だのと宣ってみても、結局のところこういうことに頭がまわらないのが、シングルファーザーの欠点なのかもしれないと、僕は痛切に感じた。
「かなり腹痛が重いようだったから成歩堂さんに連絡をと思ったんですけど、『恥ずかしいからパパには言わないで欲しい』『帰りたくない』と言うし、私の家で休ませていたらいつの間にか寝てしまって…。いま、そのまま私の部屋で寝ているんです」
複雑な年頃ですから汲んであげてください、とみのりちゃんが苦笑いを浮かべて言うと、ようやく事の全容を理解した僕の全身から力が抜けていくのを感じた。
「―嫌われたわけじゃ、なかったんだ」
「ええ?やだ、考えすぎですって」
「あハハ。…そ、っか」
嫌われたと思ってそんなに焦ってたんですねぇ、と彼女は笑う。
笑うといっても、嘲笑や呆れの類ではない。受け止めてくれるような、なだめてくれるような、そういう笑みで。
全身の脱力と共に、さっきまであった過去の走馬燈にも似た思い出も走り去る。それと引き換えに、みぬきの笑顔やじんわりあたたかい気持ちがやっと胸の中に返ってきたように感じた。
ホッとしたせいだろうか、がくん、と膝が落ちて、僕はみのりちゃんの肩にもたれた。
「なるっ、なるほどうさん?」
「ごめ…何か、力抜けちゃった」
怖かったんだ。
みぬきが攫われたんじゃないかって。
みぬきに嫌われたんじゃないかって。
怖くて怖くてたまらなかったんだ。
だって僕は。僕の存在する意味は。
みぬきへの贖罪そのものなんだよ。
僕は心とは裏腹のへらへらとした笑顔をぶざまに張り付けたまま、消えるような掠れた声でそう告げた。
成歩堂さん、と僕を呼ぶ彼女の息が頬にかかる。
どくん、と胸が揺れて、僕はあることを思い出した。
僕はキミに助けを求めたんだ。
イトノコ刑事でも牙琉霧人弁護士でもなく、キミに。
一緒にみぬきを探し出してくれるとか、そんなことを期待したわけじゃない。
ただ、こうして崩れ落ちそうになる弱い自分を、キミには見られてもいいと思ったんだ。
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晴天の式日