04


あの日みぬきがボルハチに連れて来た春原みのりという女の子を、いつかどこかで見たことがあると思った。
よくよく顔を覗き込んでみてやっと思い出した。
―あの時の、あの娘だ。
ディナーの席で男に振られていた、あの娘。
そんなものに関わるなんて無粋だしトラブルにもなりかねないから、いつもだったら絶対にしないのに。
あの時は彼女があまりにいたたまれなかったのだ。
ワインやオードブルが運ばれてきたときの、喜々とした様子。男に気を遣って会話をしている様子。
そこからの崩壊。
あんまりじゃないかと思った。
ディナーは楽しい時間になると彼女は考えていたはずなのだ。
決定的に傷つけるような言葉は避けて、のらりくらりと、抽象的な別れの理由を並べ立てる男が実に憎たらしいとさえ思った。
そんな別れは、ゆっくりと真綿で首を絞めるようなものなのだ。
恋愛経験は決して豊富じゃないけれど、僕のほうがもうちょっとまともに振る舞える自信がある。


隣のテーブルで、嗚咽をこらえる呼吸が聞こえる。
ボルシチがすっかり冷めて、涙味になってゆく。


僕は彼女に声を掛け、鍵盤に指を乗せた。
客のためにピアノを弾いたのは初めてのことだった。そうでなくてもまともに弾けやしないのに。
いつか映画で見た別れのシーンの曲だ。
耳に残るシンプルなメロディを、ゆっくりと奏でた。
意外なことにそれが喜んでもらえたようだったので、僕は少し嬉しくなって、調子に乗って新しい曲を練習する約束までしてしまった。






その約束を果たした再会の日からさらに数日後。
彼女がみぬきの担任教師に着任したことをみぬきからの報告で知る。






正直なところ、極論ではあるが、僕は小学校教師といういきものがとても嫌いだった。
反吐が出るほど嫌いだった。
真摯に相手にすればするほどこちらが損をする。そんな風に考えていた。
別に彼らを否定するつもりはない。僕という一個人が、受け入れないだけだ。
そのきっかけとも言えるのが、僕自身が小学校の鼻タレ小僧だったころ、クラスで学級裁判にかけられるという目に遇い、担任教師にまで罵られたことだ。

強烈なトラウマ。

今だってそのシーンを鮮明に思い出せるし、そのたびに鼻の奥がツンとなる。
みぬきを引き取ってからのここ数年、その嫌悪感がさらに強固になってしまったように感じる。
みぬきの担任教師たちだ。
毎年担任は入れ替わるが、どいつもこいつも僕の癇に障った。

『どういったご職業で?』

『子供に悪影響です』

『施設のほうがよっぽどマシだ』

『あなたは父親失格です』

最後のセリフを言った教師に、僕はグレープジュースをぶっかけてやった。
でも、反論の言葉は出なかった。何も。
だって証拠がどこにも無かったのだ。
―僕がみぬきの父親として適していると言い返せるだけの証拠が、どこにも。
僕はその晩布団にくるまって、ぶるぶると震えて泣いた。






だから、みのりちゃん。
キミがみぬきの担任になったと聞いたときは残念でならなかったし、それ以上に警戒の念が芽生えてしまった。
キミもあいつらとおなじなんじゃないのかい?、って。
ごめんね。






僕の警戒心をよそに、彼女はこう言った。「良い、家庭だと思います」と、少しはにかんで。
「信頼し合っている」「素敵」「羨ましい」なんて、およそ他の教師どもの口からは聞いたこともない言葉だ。
僕はそれが彼女のお世辞や美辞麗句のたぐいだとは疑わなかった。
言葉や視線があまりにまっすぐで、疑うことすら馬鹿らしかった。
今はこんなにだらしない僕だけど、かつては法廷に立っていたのだ。それくらいの人を見る目は持っていると自負している。
僕は、脳みその方から顔がカーッと熱くなるのを感じた。
こんな事を言われたときに何て返せばいいのかなんて、考えたこともなかった。
『恐縮です』?ニボサブさんじゃあるまいし。
『ありがとう』?なんて傲慢だ。
ああ、ああ、
得意のハッタリさえも浮かばない。

「なんだろう。ウチのことをそんな風に言われたのは初めてで。なんだかこそばゆいな」

一瞬にしていつもの自分のペースが乱されてしまったことに、恥ずかしくてたまらなかった。
こんな風に人前でうろたえたのは何年ぶりだろうか。
僕はその事実に、ある種の敗北感を覚えた。
教師なんて信じるもんか!と構えていた心を、彼女の優しい一言がいとも簡単にポッキリと折ってしまったのだ。





人を信じるのはとても難しい。

そんなことは僕が一番良くわかっている。

でも、僕は。

この手をためらいなく彼女へと向けて伸ばしていたのだ。




「これから一年間、うちの娘をよろしくね」




みのりちゃんが笑顔で重ねてくれたその手のひらがやけに熱かったことを、きっと僕は何年経っても忘れない。




晴天の式日


式日