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 冷たい麦茶を注いですぐ、グラスが汗をかきだす。その様が気温の高さを物語っている。
 外も暑いんでしょう、と言いながら、いつもと同じく頭に巻いていたタオルを取り払った。
 髪が眼前に垂れ落ち、幾筋かは汗でべたりと肌に張り付いて、幾筋かは扇風機の風を受けて少しだけそよいだ。
 伸びたな、と鬱陶しさを感じていると、同じことを思ったらしいカカシがまた切ってやるよ、と当然のように言う。
 そういえば、前回彼に切ってもらって以来手付かずのままなのだなと思い出した。そりゃあ三ヶ月以上も放置していれば伸びているはずだ。
 しかし今となっては、カカシに何かそうした世話を焼いてもらうということに違和感を感じていた。
 だって「オレが居なくても」と言ったのは他ならぬ彼ではないか。
 だから私だってそのつもりで腹を決めていた。
 もう迷惑は掛けない。自分の力で仕事をこなして、自分の力で生活をすると。

 それに、何より。

 髪に触れられた感覚が忘れられないでいる自分が居たから。
 あのやさしい指先が首筋や耳の後ろを掠め、肌が粟立ち、思考を絡め取られそうになったことを、こんなにハッキリと覚えてる。
 私はまたあんな気持ちになることが怖かった。
 私は首を横に振った。

「いい。自分で、できるから...」

 その態度がよそよそしくなっていないかと気になって、慌てて笑顔を浮かべてそう言うと、カカシはそうか、といつもの声色で何とも無いように答えた。




 麦茶に少し口を付けて、やっぱり暑いな、と思って団子に手を付けるよりも先にまずツナギの上半分を脱いだ。
 袖を腰に巻き付け、ぎゅっと縛る。夏場の休憩スタイルはいつもこうだ。
 作業中は火傷や刃物での怪我を防ぐため長袖を着ることを昔から親方にきつく言われていたが─当の本人は一年中タンクトップだったけれど─、さすがに暑いものは暑いので休憩中はこうしている。
 ツナギの下はタンクトップを着ているので、二の腕や首回りが晒されて、扇風機の風があたると汗ばんだ表皮が一気に冷えるのが心地よかった。
 それにしても、汗臭くはないだろうかとふと不安になる。
 着替えるつもりではいたのに。もっと早く着替えればよかった。
 でもまぁ、カカシとお互いそんなことを気にする間柄でも無いのも確かだ、と思い直し、先程から私を誘惑しつづけている串刺しにされた琥珀色の物体にようやく手を伸ばした。
 ひとつ、口に含む。
 柔らかな弾力の食感と一緒に、香ばしくて甘じょっぱい味が口の中いっぱいに広がった。
 団子は一度に口に入れるには少しだけ大きくて、それでもさすがに一度入れたものを出すわけにもいかなくて大きく咀嚼した。
 口の端からはみ出したタレを親指で拭って、ぺろりと舐める。と、串に残った団子のほうからもタレがだらりと今にも垂れ落ちる処だったので、すかさず舌で舐め取ってそれを阻止した。
 行儀が悪いと分かっていても、こんなに美味しいものを一滴だって無駄にしたくないじゃないかと心の中で自己弁護。
 そうして私がたれとの攻防や自分とのささやかな対抗をひっそりと繰り広げていると、傍らでカカシは天井を仰いだり溜め息を吐いたり視線を泳がせたりと、何かやたらと落ち着き無いそぶりを見せている。

「どうかした...?」

 問い掛けても、彼は押し黙っていた。
 その姿はどこか思い悩んでいるような、もしくは酷く不機嫌にも見えて、私が何か悪いことでもしただろうかと考えさせられてしまう。
 少なくとも、彼が此処へ来てからの言動でさほど機嫌を損ねるようなことは無かった、と思うのだけど。
 ちらりと様子をうかがっていると、カカシはテーブルの上のパックを穴が空くんじゃないかというほど見つめている。
 成る程。それでやっと気付く。どうやら私の気が利いていないのがいけなかったみたいだ。
 わざわざ暑い中訪ねてくれたお客さんを差し置いて私ばっかり寛いでいる状況は確かに失礼だったかも知れない。

「あぁ、ゴメンね」

 私はすぐさまパックに入っていた新しい団子を手に取り、カカシに差し出した。
 そうだ、美味しいものは共有したほうがいいと彼との食事で学んだのだから。
 それに、なんといってもあじさい堂のみたらし団子。
 並ばないと買えないその銘菓を、彼だって食べることを楽しみにしていたに違いない。

「カカシも食べればいいじゃない」

 きっと食べたいと言い出せなかったのだと思い、そう言って勧めた。
 彼はありがと、とやっと聞こえるくらいの小さく低い声で呟いてマスクを顎まで下ろすと、遠慮していたその手を ゆっくり、真っ直ぐこちらへと伸ばした。








 何秒かの間を置いて、べちゃりという嫌な音が床に響いた。



 カカシは団子の串を受け取らなかった。
 代わりに、私の唇と手首に、異質な感触。


 不意の出来事に驚いて、カカシに渡すつもりだった団子を手から落としてしまった。先程の嫌な音は、どうやら団子が不様に床に落下した音らしいが、彼の顔が私の視界を占領していて、それを確認することは叶わなかった。







 これはくちづけ。







 掴まれていない方の手で少し彼の胸を押すと、あっさりと唇と手首は開放されたけれど、そこにあった体温は熱いままで。

 次の瞬間、カカシの頬を手のひらでおもいっきり叩いていた。
 ひとを叩いたのは、生まれてはじめてのことだった。



式日