冬休みが明けた。三学期なんてあるようでないような期間だが、授業とテストだけは一丁前にあるので困ってしまう。勉強に加えて各部活動は来年度の新入部員確保のためにそろそろ動き出さねばならない。まあ水泳部じゃ例年通り新歓での紹介とビラ配り程度で済ませることで決定しているのだが。

今日のメニュー表を確認する。インターバル三分半で外周七周。からの基礎トレ・筋トレと縄跳び。陸上部の友人のメニューを参考にさせてもらったラインナップである。なんせこの時期は土曜日に訪れる市民プールでしか泳ぐ機会がない。他の平日は全て泳ぐための力となるようとにかく持久力をつけるメニューで固めてある。
陸トレになると手を抜く部員もいるが、それについてあれこれ言うことはしなかった。部は団体、しかし水泳は個人競技だ。輪や空気を乱さない程度に参加している以上よほどでない限り口を出すことはしないつもりでいる。

「あっ!」
「、」

外周一つにも準備は要る。ストップウォッチだのを手に集合場所たる校門前へ爪先を向けたその時、廊下を抜ける威勢のいい声が私の背中を突き飛ばした。誰が呼ばれたんだろう、振り向いたそこでぱちん、目があったのは色素の薄いべっこう色の視線。ばっちりキメた特徴的な髪型には苦労せずとも見覚えがある。
バレー部の主将たる木兎さんは、その大きな体で廊下を行く人をかき分けるようにしてこちらに向かってきた。

「水泳部のフクシュショーじゃん!久しぶりだなー!」
「木兎先輩」

お久しぶりです。ぺこりと頭を下げれば、「おお…!」と何やら感動される。この単語レベルの会話のどこに感動要素が。

「センパイ…なんていい響き!」
「エッ」
「いや呼ばれてないわけじゃねーよ!?アイツら大体さん付けするからすげー新鮮でさあ」

確かに思い出してみれば赤葦くんはいつも木兎先輩のことを木兎さんと呼んでいる。かく言う私もこれという呼び方を決めているわけではないので、自分の先輩たちのように先輩呼びするかと思えば赤葦くんにつられてさん付けすることもあり、つまるところブレブレであるが。

「つーかそれってメニュー?」
「あ、はい」
「へー、見して!」
「どうぞ…?」

真冬なのにすごい会話の熱量だ。季節関係なく嵐のような人だと思いつつ、言われるがままに今日のメニュー表を差し出す。木兎さんは一転真剣な顔でそれを見つめ、そして感想を述べた。

「…すげーキンヨクテキ?なメニューだな」
「…禁欲的という意味はご存知で…?」
「知ってんぞ!あかーしみたいなヤツだろ!」
「せめて辞書情報でお願いします」

いやあながち間違ってないけど。確かに彼が大変ストイックだというのは冬の間数回ご一緒させてもらったロードワークで十分察しがついてるけれども。

「冬の間は持久力をつけるメニューが中心になるんです」
「ふーん…」
「バレー部は季節で変わったりするんですか?」
「うんにゃ、季節はそんなだけど、今は春高にむけて連携が多いな」
「へえ…」
「そのメニューって、名字が考えてんのか?」
「、まあ、前年度を参考にしながらですけど…」
「…先輩は?二年ってそんなすくねーの?」
「…いえ、普通程度にはいると思いますよ」

木兎さんが神妙な顔をして黙り込む。私はこの人について数えるほどのことしか知らないが、総括して思うのはやはり嵐のような人だということだ。
末っ子主将と揶揄されるアップダウンの激しい気性は教室でも体育館でも同じで、良く言えば天衣無縫、赤葦くんに言わせれば面倒で手のかかる直情型。けれどその切り替えの速さゆえに突然姿を現す威圧感、目の合う者の身を竦ませるような気迫と眼光は、この人が強豪男子バレー部を率いる主将でエースであることをまざまざと思い起こさせるのだ。そう、まさに今のように。

「名字さ」
「…はい」
「フクシュショーって大変じゃねえの?」
「、」

思わぬ台詞だった。回りくどい前置きや伏線を張るようなことが上手い人だと思ったことはない。けれどこうも直球に、しかも思い立ったタイミングで来られると返事に手間取ってしまう。いつも通り考えてから話せばいいのか、それとも彼のテンポに乗って思うままに応じればいいのか。
考えている時点で前者には違いない。しかし私は言葉に詰まっていた。そんな『当たり前』のこと、そもそも尋ねてくる人などほとんどいなかったからだ。だからこそ今更ながらバカ正直に考えている。副主将は、大変なのか。

「…ラク、ではないですね」
「…」
「私は…なんで自分が副主将になったのか、今もわかってないんで」
「それは、自分に自信がねーってこと?」
「あー、それもあるんですけど、単純に文字通り知らないっていうか」
「?」
「聞かされてないんです、人選理由とかそういうの」
「えっ、そうなの!?」

目を向いてのけ反った木兎さんに苦笑した。聞きに行ったこともあるんですけど、結局わからず仕舞いっていうか。そう付け加えると先ほどの威圧感すらないものの、彼は再び難しい顔をする。「それで…」とつぶやく彼の脳裏にいるのはクラスメートだという私の先輩、部長の姿なんだろう。分かりやすい人だなと思う。見れば見る程赤葦くんとは真逆の人だ。私にとって彼の表情はまだどう頑張っても不確定要素が多すぎる。

「…それってすげぇストレスじゃねえ?」
「…まあ…難しいことは多いですね」
「部誌とか鍵とか、そういうのも?」
「去年の例が残ってますし、鍵もそんな手間じゃないですけど」

伺うように尋ねてくる彼は年上で男の子で、むしろ男の子と呼ぶには遠慮すらある上背と体格の良さなのに、まるでふと母親の苦労に思い至っておろおろする小さな子供のようだ。誰にも心配されない時は重石のように肩に乗る苦労の数々が、純粋な気遣い一つで大したことないと言えてしまうのは人間の性なのかもしれない。

「なんだかんだ、慣れてますから」

自惚れでなく心配してもらっているというくすぐったさに苦笑する。そんな比較的穏やかな心持ちで彼の言わんとするところをやんわり否定したが、しかし何かを我慢しかねるような顔をした木兎さんは突然大きな声を上げた。

「…俺はさあ!」
「!?」
「末っ子って言われるし、赤葦とか、赤葦が来る前は木葉とか小見やんとかにすげーメイワクかけたりして、つーか今も赤葦にめっちゃ頼ってるから、だからあんま偉そうなこととか言えねーけど!」
「え、あの、そんなことは」
「にしたって名字はもうちょっと怒っていいと思う!」
「、」
「もっと先輩やれよって、こっちゃ一年なんだぞって言ったっていいんだぞ!そんなんイクジホーキだろ!」

イクジホーキ。…育児放棄か。私がか?つまりしてる方?されてる方?ていうかこのひと何に大声出してるんだろう。
育児放棄。この文脈で言うそれは文字通りの親が子を、ではない。そして恐らく私が誰かを、でもない。上級生たちが後輩を、先輩方が私を、という図式だろう。
理解しても目は点のままだ。ならなんだ、この人は私のために怒ってるんだろうか。この人の目には、私が放り出された子供のように映っているのだろうか。

「お前は、」
「…ありがとうございます」

言い足りないらしい木兎さんを遮る。心臓が揺れている。いいなあ。いい先輩だ。噛み締めるような実感が胸を震わせる。
この人が水泳部にいれば、自分の先輩だったら、とは不思議と思わない。それはきっと彼が事実上すでに私の先輩だからだろう。木兎さん自身の意識がどうであれ、彼は私を一人の一年として気遣い、心配してくれている。誰かを先輩と呼ぶのにそれ以上の理由は必要ない。

胸を洗うすがすがしさが笑みを押し出した。こんな感覚久しぶりだ。

「平気です。変な話もう慣れたと言うか、最初ほどめげてないんで」
「けど、名字、そんなん…」
「それに私、一人で副主将やってるわけじゃないですよ」
「……それは、赤葦か?」
「…はい」

一緒に頑張ろう。
繰り返したそれは約束というより共同宣誓であり、誓いというより盟約に近い拘束となって私の心臓を縛っている。息苦しくはない。それはともすれば地から離れてしまいたくなる足の裏を、そっちじゃないと引き戻す碇と同じものだ。
とりわけ水面を征かねばならない私にとっては欠かせない。たとえ酸素を求めて水底でもがくこととなっても、漂うだけじゃいられないことはもうわかっている。

「…冬休みの前さ、赤葦がすげー調子悪い時期があって」
「、」
「俺の一言でそれが切れたっていうか…体育館出てっちまって」
「…はい」
「追いかけらんなかったんだよ」

言葉に、というよりは考えをまとめるのに迷うように彼は言った。出くわしたのは偶然、声をかけたのも気の赴くままだったのだろうと思う。でも彼の行動の根源にはいつも彼自身が気づいていないとしても何か目的がある気がする。

語るそれが冬の土曜日、第二体育館でのことだということはすぐにわかった。見開かれたべっこうの瞳に浮かんだ、酷く傷ついた色もまざまざと覚えている。私は黙って木兎さんの言葉を待った。

「でも名字は真っ直ぐ走ってった」
「…それは、」
「すげー真剣な顔して、周りとかちっとも見ないで赤葦のこと追いかけてって―――そしたら、いつもの赤葦が戻ってきたんだよ」

すみませんでした。

頭を下げた赤葦くんはどこかすっきりした顔で木兎さんを見つめ、スコアを見やって、「獲り返します」とだけ言ったという。調子を戻した梟谷は開いた七点差を一気に詰め、そのゲームをものにした。

「そんとき俺さ、実は赤葦すげー我慢してんじゃねえかと思ったんだよ。俺、あいつが考えてることとかほとんどわかんねーけど、あいつがすげーいろいろ考えてんのはわかる。んで、あいつが副主将になった時から、出来るだけ後輩させてやろうぜって木葉とかと話して、出来ることはしてたつもりなんだよ。でもホントにそれでよかったのかって」

メニュー表に目を落とす。私はしばらく黙り、そして口を開いた。上手く言えるかわからない、けれどこの人は言葉尻を拾って眉を潜めるような人じゃない。

「…私は、多分赤葦くんもだと思いますけど、副主将がラクだなんて思ったことはありません」

木兎さんが顔をゆがめる。そんな顔をするようなことじゃないのだと、私は少しだけ笑った。
だって仕方がない。激励の言葉はプレッシャーに、褒め言葉は世辞に変換され、悪意なき奇異の視線には苛立ちもするし疲弊する。同輩の妬み、上級生から疎まれることだってままあること。正直踏んだり蹴ったりで、どうしたって仕方がないものは仕方がないのだ。

でもそれを補って余るほど泳ぎたい。副主将になりたい前に、私は泳ぎたい。もっと速くなりたい。
それも多分、赤葦くんも同じだ。

「けど赤葦くんは多分、木兎さんたちの接し方とか気遣いとか、それこそ負い目に思うくらい十分感じてると思います。わかりづらいかもしれないですけど、木兎さんたちのこと、先輩としてすごく慕ってると思います」
「…」
「ただたまに、…いつまでも甘えてられないって、無理したくなる時があるんです」

それが彼と私の相違だ。甘えていられない、甘えられない。僅かなひらがなの足し引きは答えの間に途方もない隔絶を生む。
頭の打ち方も袋小路への嵌り方も嵌った先に見える景色もきっとすべて違う。だから私と彼は何かある度に傍に駆けつけ合うような関係じゃないし、そんなことは土台不可能だ。

けれど敢えて言うなら私たちには、そんな時にも唯一繋がるチャンネルがあるのだと思う。他のすべての人と連絡を絶たれた孤立状態、他の誰とも話せず共有もし得ない閉塞空間で、唯一連絡を取れる相手。

足掻いてもがいて弱音を吐いて、でも立ちあがるのは自分の足だ。互いの手は借りない。ただ互いの存在と言葉を糧に、あと一歩を進む力を奮い起こす。

そこに彼はいないし私もいない。でも声は聞こえる。遠いようで近い、そんな距離感。

「それが"無理"じゃなくなるまでが、"私たち"の踏ん張りどころだと思ってます」
「―――……」

その時私たちはきっと、各々の志す副主将とやらにまた一歩近づくのだ。目指すそれがどんなものなのか、私にはまだはっきりとは見えていないけれど。

言い切る私に木兎さんは再び黙した。風が吹く。冷たい風だ。よく準備運動しないと怪我しそうな気温。
木兎さんの瞳が私を捉えた。それは試合中に見るような黄金色の熱量を漲らせた瞳でも、気圧されるほどの気迫を纏ったものでもない。静かに凪いだ、それでいて強い光を秘めたまなざしだった。

「…一緒に副主将してんだな、"お前ら"」

木兎さんがふっと笑う。笑顔のバリエーションの多い人だと思いながら、間違いよう無く先輩の顔をする末っ子主将に向かって、私もまた頷いて、得意げに笑って見せた。

151004