その気怠げな後ろ姿が、一瞬あの打たれ弱くも折れはしない彼女に重なって見えたのは何故だったのだろう。

「あ、男バレの」
「、……どうも」

冷たい風が吹く。まだ春の遠い曇天からは今晩雪が落ちると聞いている。ぶかぶかしたウィンドブレーカーに身を包み、傷んだ茶髪を寒風に踊らせる華奢な身を捩じった彼女は、以前と変わらず底の見えない薄い笑みを浮かべた。

「これから部活か」
「…まあ。先輩はいいんですか」
「いーんだよ。外周ダルいし、一周くらいサボっから」
「…」

事もなげに言ってのける気怠げな声とその内容に閉口する。玄関口まで伸びる渡り廊下の柵に腰を預け、ウィンドブレーカーのポケットに両手を突っ込んだ背中は、猫背気味に丸められている。
篠崎光琉。真冬の川沿いをストイックに走り込み、女子の腕で連続15回もの懸垂をこなすような名字が、一体この人物の何を理由にほとんど唯一先輩として慕うのか、俺にはイマイチわからない。

「なんでコイツに名字が懐いてんだ」
「!」
「ってカオしてんね」
「…っ、」
「存外わかりやすいのな、男バレ一年副主将クン」

ニヤリ、つり上がる口端と長い前髪の下で弧を描く瞳。掬い上げるように俺を一瞥した抜け目のない眼光はしかし、次の瞬間いたずらな光を弾かせると、彼女は空を仰いで笑い声をあげた。

「そんな怖い顔すんなよ男バレ」
「…俺の名前は男バレじゃないっすよ」
「おや、そうだっけか」

間違いなく確定した。この人かなり面倒なタイプだ。思い浮かべたのは真っ赤なジャージと芸術的な黒髪、食えない笑みを湛えた音駒の主将。人を食ったような物言いと挑発の上手い他校の先輩を思い浮かべ、乏しいと言われる表情なりにもげんなりする。カテゴリーとしては同種、さらに言えば木葉さんにも似たところがあるかもしれない。

そんな俺の思考をどこまで読んでいるのか、笑いを治めながらも未だニヤニヤしたままの篠崎さんは、ちらりと中庭の向こうに視線を投げた。つられて見やったそこには、見慣れたミミズクヘッドと、それに並べば一際小柄に見える同級生の姿。

「ウソだよ。あそこの歓談が終われば行くつもり」
「…そうですか」
「あたしが行かなきゃ二年連中が面倒かもだし。まあ外周ダルイってのは本音だけど」

一際冷たい風が篠崎さんの前髪をぶわりとかき上げた。長い睫を重たそうにのっけた半眼の下には、さきほどとは打って変わって無気力に冷めた光が居座っている。うちのマネのようにくるくる変わるタイプとは程遠いが、この人もこの人なりに表情の忙しい人だと思った。

「木兎係りなんだって?」
「…よく言われますけど」
「副主将以上に面倒そうな役職だな」
「そうですね」
「即答か。いい性格してんね」
「…その髪って」
「うん?」
「塩素で抜けたんですか?」

風に煽られたのをそのままにされた髪が、曇天越しに届く散乱した薄い陽光に透ける。驚いたように見開かれた瞳は、髪色に近い茶色をしていた。

中学の仲間内ではさ、塩素焼けって呼んでたんだけど。プールの水で髪色が抜けるんだ。
毛先をつまんで見やりながら言った名字を思い出す。なぜか自分のことを自慢するように、彼女は嬉しそうに胸を張って言った。

『部員の中には染めたんじゃないかって言う人もいるけど、篠崎先輩のはきっと塩素焼けだよ』

「…、随分いきなりだね」
「名字が言ってたんで」
「…へえ」

中庭の向こうで楽しげに話している木兎さんと名字を見やり、篠崎さんがふっと笑う。名字の軽やかな笑い声がここまで届いてきた。ふわふわした女子のような高さはないが、ハスキーと呼ぶには女子らしさのある落ち着いた声は、思っているよりよく通る。
あんなに楽しそうにするほど、何を話しているんだろう。

「アタリ。元が薄いから人より傷むし色も抜けるんだよ」
「やっぱりそうなんですね」
「見てわかんの?」
「目の色が薄いんで、もしかしたらって」
「ああ、木葉?」
「、はい」
「アイツは私以上に面倒だよ、頭髪検査」

俺の予測材料の源が同じ男バレの木葉さんの例から来ていることに早々と見当をつけた彼女は、彼女以上に生まれ持った色素が薄い木葉さんの苦労をけたけた笑う。
茶色を通り越して金に近い髪色は嫌いではないものの、毎年医療機関お墨付きの証明書を出さないといけないクセモノなのだと嘆いていた。そんな木葉さんは目の色もやはり色が薄く、肌に関しては日光や化学薬品にも弱いと言っていた気がする。

「あたしのは生まれつきのを塩素で上書きされてる分、証明が面倒なんだよね」
「出来るんですか?」
「生え際の色の差。地毛と毛先のギャップが染めた髪より全然ないから」
「へえ」

思ったより普通に話してくれる篠崎さんに、名字は何を躊躇って髪色のことを聞かなかったんだろうとふと思った。きっと塩素焼けだ、と胸を張る割に確証はないらしいのが不思議で、聞いてみればいいのにと言えば困り顔で躊躇うのだからわからない。俺が聞いてもこうなのだから、彼女が聞いてもきっと教えてくれただろうに。

今度この話を教えてやろう。ああでも、自分を出し抜いて先に知ったなんてずるいと見当違いの訴えを起こされるかもしれない。懸垂の時しかり、名字は時折驚くほど子どものようなことを言い出すことがあるのだ。

「ていうか木兎のアレもでしょ?男バレのメラニン事情どうなってんの?」
「DNA革命じゃないですか」
「突然変異体か」

その点俺は平凡種だと思いつつ、名字たちの方を再び眺めた。俺がここに来るどれくらい前から続いているのかわからないが、それを差し引いてもかなり長い間立ち話に興じている。学年も性別も部活も違う二人に、共通の話題などそれほどあるものなのだろうか。
その時不意に黙り込んでいた篠崎さんが唇を吊り上げるのが見えて、俺はさっと視線を彼女に戻した。何かとんでもないことを言い出すような気がする。結果から言って俺の警戒は正しかった。

「男バレってさ」
「だから俺は男バレじゃありません」
「ならなんてーの」
「…赤葦です」
「アカアシ、赤葦ね。じゃあ赤葦ってさ」
「なんですか」
「好きなの?」
「は?」
「名字のこと」

びゅお、と吹いた風が再び篠崎さんの前髪を浚っていく。しんとした沈黙が流れ、言われた意味を飲み下した瞬間、暴発しそうになった動揺は辛うじて指先に押し込まれた。
びくりと跳ねた右手の指をジャージの袖に隠す。意味ありげな両眼がこちらの顔色を油断なく見据えている。揺れた心臓の理由探しをひとまず置いて、とりもなおさず無表情を固めに入ったのは反射的な防衛本能だった。
ゆっくりと冷たい冬の大気を肺に詰め込んで、温度のない言葉に代える。

「…いきなりなんですか」
「あれ、違った?」
「違うも何もないでしょう」
「返事になってないぞ青少年」

無言で流し、興味深そうな眼差しから自然に逃れる。躱せたかどうかは五分五分か。つまらなさそうに肩をすくめた様子からして勝算は目測六割程度。視界の端、遠くで笑う名字からわざと意識を逸らした。

「ま、なんでもいいんだけど」
「(…だったら聞くなよ…)」
「けど男バ、あー違うアカアシ、モテるらしいじゃん」
「…どこのガセですか、それ」
「木葉が言ってた」

あの人はまた余計なことを。
およその見当はつく。赤葦は表情の乏しいと言われる顔を本人にとっては盛大にしかめた。ついこの間運悪く目撃された告白シーンを何倍にも膨らまして吹聴されたに違いない。

しかし篠崎の言葉をガセと言い切った赤葦が告白されたのはこれで三度目である。入学したころからその落ち着いた振る舞いと整った容姿から密かに憧れる女子は一定数いたが、副主将に選ばれてからその傾向には拍車がかかっていた。赤葦が意に介していないとしても、夏を越してから表立って行動に出る女子が出てきているのは事実だ。

だがそれが今何の関係があるのか。眉根を寄せる彼の言いたいことは篠崎には筒抜けらしく、彼女は挑発するように、しかし静けさを秘めた瞳で赤葦を見返す。

「覚えときなアカアシ、男が思うより女は面倒で厄介なんだ」
「…はあ」
「つまり、……名字に火の粉飛ばすなよ」
「、」

気だるげな声に相変わらず覇気はなく、しかしその響きはしんと凪いでいた。色素の薄い瞳がふいっと逸らされる。猫背気味の薄い背中が北風に吹かれる様を、赤葦は目を丸めて見詰めた。

『篠崎?篠崎はねえ…そうだなあ、結構冷たいヤツだよ』

あー違うよ?冷徹とかじゃなくてさ、すっごい理系っぽい感じ。アレだ、理性的なの。

名前がほとんど唯一先輩として慕う存在について、いつか聞いたマネの総評を思い出す。彼女に言わせれば、篠崎光琉という存在の前において、女子特有の仲間意識や社交辞令や通過儀礼は全て時間の無駄でしかない。へらっとして見える以上にその付き合い方、考え方はむしろ男子寄りであり、それ故に女子からは冷たい人間と評されがちなのだという。

赤葦も彼女の言葉の端々からその突き放したようなスタンスを感じ取り、いつか名字が傷つけられやしないかと危惧していたのだが、何のことはない。思っていたよりも『先輩』なんじゃないか。

「…心配要りませんよ。名字はそういうんじゃないんで」
「あのね、女のバカさ加減ナメると痛い目見るよ」
「目につかないよう話します。何だったら学外って手がありますし」

万一の仮定として篠崎の言う通り、自分を好きだと言う女子が存在するとして、学内での自分との接触が名前に害を及ぼすというなら、人目につかない接触方法を考えるまでのこと。実際冬休みには何度か一緒に自主トレをしたし、約束を取り付けるために連絡先の交換だって済ませてある。

そんな諸々を簡潔に告げた赤葦に、ただ黙して耳を傾けるばかりだった篠崎が不意ににやりと口端を吊り上げた。本日二度目の本能による警告。口を噤むには遅すぎた。

「へえ、『接触を断つ』って選択肢はないわけだ」

…ハメられた。ニヤニヤと笑う篠崎の悪い笑みを前に、赤葦は涼しげな表情を苦々しく崩さざるを得なかった。
完全に乗せられた。多少のリスクを冒しても名字名前との縁を切りたくないかのように言わされてしまった―――否、実際そんないるかもわからないファンだ何だのを理由に、あの少女と関わるのをやめるつもりなど毛頭ないのだけれど。
でもそれは別に、名字を好きとかそういう話とはわけが違うのだ。少なくとも、今この時点では。

「……アイツに余計な事言わないで下さいよ」
「さあ、どうすっかな」
「俺も名字も、そんな暇ないんで」

赤葦の切り返しに、篠崎が眉を上げる。涼しい無表情を取り戻した彼はその視線を揺らがせない。先に視線を逸らしたのは篠崎だった。流した眼差しは木兎と並んで笑う一つ下の後輩のもと。
ま、そうさね。篠崎は言う。

「あんたら、フクシュショーだもんね」

わかってんならほっといてくれればいいのに。

そんな赤葦の本音をどこまで読んでいるのか、篠崎は相変わらず人を食ったような笑みを浮かべて、傷んだ髪を北風に踊らせていた。

151113
大変お久しぶりになります。