夏にはスイムキャップに収まるほど短く切っていた髪も、もう肩まで伸びるころになった。

季節は冬を迎え、クリスマスだお正月だ何だと世間は騒がしい。けれど梟谷も一応は進学校、そうでなくとも奨学生として通う身たる私にイベントに身を投じる暇はない。…いや友達がいないとかそんなんじゃないけど、女子会しようぜってクラスの友人と約束だってしてるけど。

屋外プールしかない梟谷の水泳部は、冬シーズンは基本的に午前中の陸練しか活動がない。加えて他の部活より正月休みが長く、夏の鬼のようなメニューが夢かと思える緩さになる。
そんな冬の活動期間が終わったのも三日前。あとは休み明けまで活動はなく、そうとなれば冬休みには毎日でも市民プールに行って泳ぎたい。思って調べれば近隣の市民プールは五キロ先、1.5時間300円、3時間500円、5時間700円。着替えとアップとダウンを引けば泳げる時間はマイナス40分といったところか。そうなればやはり5時間は欲しい。とは言え一日700円の出費を毎日というのは当然バイトもしていない私に賄えるものではなく、結局週に三日、とくに人の少ない平日の月水金と決めて、その他の日は学校と同じく陸トレに励むことに諦めた。言ってしまえば週2100円の出費だって痛いが、それも二週間程度なので目を瞑る。

休みに入ってからのメニューはいつも決まっている。朝は課題を片づけ、昼ご飯が済んで少ししたらウィンドブレーカーに着替える。筋トレとアップを済ませたら近くの川沿いを一時間少し延々走り、総合運動公園で休憩プラス懸垂だの縄跳びだのをして、そこからまた走って家に帰る。

友人に話したらドン引きされた(「何それどこのアスリート?」)が、私はもともと筋肉がつきにくい体をしている。夏だって一度無駄な脂肪が体重として一気に落ちて、その底辺から体力と筋肉をつけ直さなければならなかった。夏の間めきめきと速度を上げた同輩たちの中にあって、この体質は大きなビハインドを生んだのだ。身体は少しだって鈍らせたくない。

縄跳びとスマホをポケットに入れ、慣れた川沿いの道を走る。後ろから少しづつ近づいてくる足音も多分、私と同じロードワーク中の人のものだろう。規則的な足音は私のそれより少しペースが速い。引っ張られないよう注意しつつ、吹きすさぶ風から逃げるようにネックウォーマーをしっかり上げた。
飲み物は荷物になるので総合公園の自販機で買うことに決めている。今日は温かい何かが飲みたい。今日は土曜、明後日は泳ぎに行ける日だ。それを思うとわくわくして、せっかく気にしていたペースが思わず上がった。たまにはいい、軋む肺もいっそ心地いいのだ。

「…名字?」
「、え」
「やっぱりそうだ」

踏み出した足が一瞬けつまずきそうになった。反射神経だけで走りを止めず振り向いたそこには、黒のジャージに身を包んだ長身。色白の肌と黒曜の髪、薄墨色の瞳がつくるコントラストに一瞬息がつまる。降ってくる凪いだ眼差しに、ワンテンポ遅れて人物認証が追いかけてきた。うそ、なんて偶然だ。

「赤葦くん…!?」
「久しぶり」
「ひ、久しぶり…!え、自主トレ?部活は、」
「ホントはあったんだけど、体育館が改修で一週間使えなくなって」
「でも春高…」
「え、知ってるの?」
「、うん、先輩が話してて」

並んで走る彼が驚いた顔をするのが少し気まずくて目を逸らす。先輩が言ってたのをたまたま聞いたという体で言ったものの、実際は自分が気になって聞いたというのは何となく言いづらい。

「流石に丸一日は無理だけど、正月休みまでは市立体育館を借りて練習してるから」
「そっか」

淡々とした口調に揺れはない。あの日、体育館から遠ざかる背に見た、行き場をなくした閉塞はもう見当たらない。私は無意識のうちに安堵の息をついた。


冬休みまであと二週間、それくらいだっただろうか。あの後顔を合わせた中学からの先輩は、取り立てて私に何かを言うことはなかった。けれどその二、三日後、昼休みに突然やってきた赤葦くんは私を連れて購買に赴き、何か選ぶよう言った。一体何事かと目を白黒させる私に、彼はいつも通り淡々と、しかしまるで独り言のように前を向いたまま言った。

『本当は何か選ぶつもりだったんだけど、名字が好きなもの、何か知らなかったから』

どこかバツが悪そうに言う横顔を見上げて、それが数日前の一件のお礼とか、そういう類のためのものなんだろうということに、私はその時ようやく気が付いた。そしてそれを口にしては言わない彼に少しだけ笑ってしまった。彼は何事にも器用でソツがないと評判で、けれど意外と不器用で言葉の足りないところがある。

『…じゃあ、』

選んだのは紙パックの豆乳、フレーバーは紅茶。自販機では買えない98円のそれを手に取ると、彼は少し意外そうな顔をした。なんだ、豆乳は美人にしか似合わないってか。フツメンにとっても美味しいんだぞ。言われもしていない苦情に内心一人で返していたら、長い指が私の手から細長い紙パックを引き抜いた。それから一瞬足をとめ、お菓子を一つ手に取り、レジに向かう。

『ん』
『え、それ』
『これだけじゃ割に合わないから』

差し出されるビニール袋に目を瞬かせた。豆乳の横に収まるトッポの箱。なんだ、結局選んでくれるんじゃないか。
少しずつ輪郭の見えてきたこのひとは初めに思っていたより結構面白い。堪え切れずに肩を揺らしながら笑って受け取れば、眉をひそめて見下ろされた。

『何?』
『いや、ふふ、ごめん』
『…』
『赤葦くんってさ、意外とこう…不器用なんだなって』
『名字の不器用加減には意外性もないと思う』
『…それは酷くないですか…』
『…先に言ったのそっちだろ』

むっすりした彼の切り返しにばっさり切られへこたれていれば、今度こそはっきりわかるバツの悪そうな声が降ってきた。言葉を交わすことが増えた彼は最近私に対して遠慮が少ない。木兎さんはいつもこんな塩対応を食らっているんだろうか。私のメンタルでは対処でいる気がしない。
それでもちょっと覗きこんでくる顔は私の様子を伺うようで、一瞬へこんだ心臓があっさり戻ってくるから私というヤツは単純だ。やっぱりまだ遠慮があるんだなと残念に思う反面、この優しさがクセになるんだろうと隙あらば彼に絡む木兎さんの気持ちにちょっと共感した。

『もう平気?』

尋ねた言葉はほとんど無意識だった。ビニール袋一枚越しに手に収まる紙パックが冷たい。暖房の効いた部屋で飲む豆乳はきっとおいしい。
彼は少しだけ目を大きくして、それからふっと眦を緩めた。多くを語ることはない。赤葦くんは頷き短く言った。

『うん、もう大丈夫』

豆乳のパックで冷えてゆくはずの指先がじんじんと温まったのはなぜだったんだろう。なんでもいい、ただ私は彼が穏やかに笑うのが嬉しくて仕方なかったのだ。


「水泳部は?」
「うちは冬は基本緩いんだ」
「そっか。どこまで走るの?」
「運動公園。そこで縄跳びしたりしてる」
「!俺も同じ。鉄棒あるから懸垂したりもしてる」
「えっマジで?連続何回くらい?」
「細かくは数えてないけど…大体40回くらいかな」
「うわ、私15回で死にそうなんだけど…」
「名字は女子なんだし、十分だろ」
「なんか…なんかそれは納得行かない…!」
「いや、そこはどうしようもないって」
「なんでそんな意地悪言うの!」
「別に意地悪は言ってない」

嘘だ、見下ろしてくる口元が完全に笑ってる。これはこっちの反応を楽しんでいる時の顔だ。
いつぞやの彼のようにむっすり膨れる私に、しかし彼は息だけで笑う。歩幅の違う私に合わせて走るそのペースもきっとかなり低められているはずだ。敵うと思っているわけでは決してないけれど、やっぱり歴然とした性別の差には閉口してしまう。

「先に行って、合わせてもらうの悪い」
「怒らないでよ」
「怒ってません」
「ホントに?」
「ホントだよ」

何も本気でヘソを曲げたわけじゃない。ただやはりこのペースじゃ赤葦くんのトレーニングにならないと思っただけだ。そう伝えれば「そんなことないけど」、と返す彼の気遣いに苦笑する。懸垂40回する人が何を言うか。彼はしばらく黙していたが、ふっとこちらに視線を流してきた。

「このまま運動公園行くの?」
「え、うん」
「じゃあ待ってる」
「へ」
「先に行って待ってていい?」

それは公園で一緒に自主練しようということだろうか。ちらり、再び流された視線に応える言葉が見つからず、ただこくこく首を振ってネックウォーマーに顎を埋める。すると彼は満足そうに笑み、「じゃああとで」とペースを上げて走り去ってゆく。
呆気にとられているうちにみるみる遠のく黒い背中。やっぱり全然トレーニングになってなかったんじゃないかと思いつつ見送って、私は気合いを入れ直した。いい機会だ、自己ベストタイムを狙ってみようじゃないか。なんせそう長くは待たせていられない。

残りの距離を普段よりハイペースで走れば、運動公園に着いたのはいつものタイムより7分早かった。無事自己ベストも更新である。私もやれば出来るじゃないかと言いたいところだが、実のところ心肺機能の限界一歩前というか、正直肺が破れそうだから格好つけられない。冬の空気は本当に肺にクる。火照る体を冷まそうとウィンドブレーカーの上を脱いで腰に巻いた。

赤葦くんは公園の入り口でストレッチをしながら待っていてくれた。彼に遅れること10分、ストレッチと軽いダウンを済ませた私に、おつかれ、の一言と共に差し出されたのはホットのミルクティー。冷めないようにだろう、ジャージにくるまれていたスチール缶にお金を払うと主張したが、彼は頑として受け取ってくれなかった。

「…わかった、じゃあ次は絶対私が払う」
「名字って意外と頑固だよな」
「赤葦くんも結構我が強いと思うよ」
「弱そうに見える?」
「…というよりは、なんでもスマートにこなすってイメージが強かったな」

それは私自身の彼に対する初めのイメージであり、同時に学年全体に浸透している彼に関する一般的な印象でもあった。今思えばうわさ好きの他の女子と変わらない勝手な思い込みだ。知り合って半年、クラスメートでも部活仲間でもなく友人と呼ぶにも首を傾げてしまう赤葦京治という人を、私は人より少しだけ多く知るようになった。

「それよく言われるけど、何が根拠なんだろう」
「ばっさり斬るね…でも要領はいい方だと思う」
「どこらへんが?」
「部会の報告とか予算案の調整とか。短い時間で大事なポイントしっかり押さえてくのが圧巻だった」
「名字もめちゃくちゃ落ち着いてたと思うけど」
「それはまあ…部長の目もあったしね」
「…」

缶コーヒーを傾けていた赤葦くんが視線だけでこちらを見る。その意味ありげな眼差しに私は思わず苦笑いした。
これ以上ないほど惨めな状況で情けない本音を聞かれてしまったあの時以来、彼は随分と私の状況を気にかけてくれるようになった。あの一件で私も彼にとって世話の焼ける厄介者要員にリスト入りしたのだろうか。不名誉かつ申し訳ない思いもするが、それ以上にありがたい気持ちが勝る。

「あれから、どうなの」
「私が?水泳部が?」
「名字に決まってるだろ」
「…、」

至極当然のように言われて一瞬閉口した。…厄介者というか、むしろ何かすごく大事にされている錯覚を起こしそうだ。これは有難がってる場合じゃない気がする。いや実際かなり心配してもらっているのだろうけれど、ここで自惚れるのは何か違うので脳内感覚を調整する。

「…同輩は、普通に話せる子が増えたかな。ゼロだったわけじゃないけど、距離の空いた子とか多かったから」

今思えばあれを派閥化と呼ぶのかもしれない。一年の中には当然市原先輩や山瀬先輩に懐いている子がたくさんいるし、先輩の感情に同調した一部の同輩が私を"敵"視していたのは知っている。
けれど最近―――間違いなく篠崎先輩が部室で『ブリザード』を起こした日以降、その包囲網の様な敵意がぐらぐらと揺れ始め、こちらを伺うような視線が増えた。あの人一体何を巻き起こしてきたんだろうと首を傾げていたある週末、部誌を書いていた私の元に数名の同輩が訪れた時は本格的に驚いた。

部誌の当番制、やり直そう。

本来皆で回していた部誌の記入が私の仕事になったのは夏の終わり、『何もできないなら部誌くらい書いてよ』と山瀬先輩に言われた時からだ。優しくて美人だと評判の先輩から皆の前で投げられた思わぬ冷えた言葉に、答えもなく凍り付いた苦い記憶は今も鮮やかだ。その日から部誌を書くのは私だけになり、まるで初めからそうであったかのように、そのことに触れる人は誰一人としていなかった。

それが今になって一年だけでも当番制を回そうと言うのだ。加えて二年の先輩の一部には突然謝罪されさえした。ごめんもなにも何に対する謝罪なのか分からない。というか私が許すとか許さないとか、そんな単純な問題でもない気がする。とにかくどういう風の吹き回しなのか。
先輩一体何したんですか。篠崎先輩を捕まえて聞いたものの、しれっと返されるのは「もう忘れた」の一点張りで、いまだ真相は闇の中である。

「まあそんな感じで、これまでにはないタイプの腫れ物扱いっていうか」
「今さら罪悪感ってことか」
「…赤葦くん、うちの先輩に恨みでもあるの?」
「あんな話聞いたらどう頑張っても好印象とか持てないだろ」

苦笑を通り越し戸惑いすら感じる容赦のない物言いに、私は曖昧に濁した相槌を打った。罪悪感か、確かにそんな気もする。針の筵状態も堪えたが、こちらの機嫌を伺うような空気も正直居心地の良いものではない。
彼が私以上に憤る理由はわからない。物事に拘泥しない性質に見えて正義感溢れる人なのか、はたまたへらへらしている私のせいで余計腹立たしいのか。この二択ならまあ間違いなく後者だけど。

「…赤葦くんは?」
「…俺は普通かな」
「木兎先輩と仲直りできた?」
「別に喧嘩したわけじゃないけど」
「あれを喧嘩と呼ばずして何と呼ぶんだ…」
「…」

つい素で突っ込めば軽い睨みを頂戴する。機嫌を伺うように降参のポーズで両手を上げれば、彼はちょっとバツが悪そうに視線を投げた。私も随分とこのひとの表情を読めるようになったなあ。

「…あれは単に、俺がコドモ過ぎて癇癪を起こしただけ」
「…わかってもらえた?」
「…まあ」

赤葦くんはやはり多くを語らずベンチから腰を上げる。数歩先のゴミ箱に空になったらしいコーヒーの缶を捨てて、彼はゆっくりした足取りで戻ってきた。
隣に腰掛けた彼のジャージが少し近くなる。初めの人ひとり分の距離より腕二本近い距離。ぴり、と肌を撫でる空気が変わった気がした。しんと響く沈黙、薄く膜を張る緊張。

「俺さ」
「ん?」
「結構前から、名字に劣等感を感じてたんだ」
「、」
「名字は同じ一年で、でも先輩の支えなしに副主将を務めて、ちゃんと前に進んでるって。俺は先輩たちに守られて、庇われてるだけの一年坊主だって気が付いて…すげぇ焦った」

あ。
頭の中でずれていた何かがかちりと嵌る感覚。目を逸らしていたすべてが思考を真っ白に染め上げる。吹き上がってきた実感が肺中の酸素を吸い取り頭から血を引きずり落とす。血の気の引いた脳みそがキンと耳鳴りを訴えた。

違う。私は「副主将」なんてやってない。
彼の穏やかな肯定を前に、私が私を否定する。その理由は私自身が嫌というほど知っていた。

「…そんなことない、」
「ある。少なくとも俺はそう感じてた」

凪いだ声が私の否定を柔らかく拒絶する。その静かな断定の響きが、私の持つどんな言葉でも決して覆すことが出来ないことを語っている。それがわかってしまった途端、私は唐突に地団太を踏んで駄々をこねたい衝動にかられた。

そんなことない。そんなことはあってたまるものか。先輩に疎まれ、同輩から遠巻きにされ、途中から関係を修復することも諦めて練習に逃げた根性無しの何が、彼に劣等感を抱かせよう。
ひとり孤立して、部員とまともな会話もできない私の何をもってして「副主将」などと呼べる。私がどんな出来そこないか、意気地も根性もない卑屈な人間か、彼はただ知らないだけなのだ。

「わたしは、」

言葉が詰まる。言いたいことは山ほどあるのに何一つ言葉になってくれないもどかしさ。漸く彼がこちらを見やった。
言葉なくスチール缶を握りしめる私がどんな顔をしていたのか私は知らない。ただ吐息だけで噴き出した赤葦くんは、私を見て可笑しそうに、けれど酷く優しい目をしてわらった。

「今はもう思ってないよ」
「!」

一緒にがんばろうって言われて、ハッとした。

赤葦くんの指が私の手を掠める。その唐突さに肩を揺らした私を気にすることなく、彼はもうとっくの昔に空になって冷たくなったスチール缶を私の手から抜き取った。赤葦くんは再びベンチから立ち上がって、今度はそれを完璧なコントロールでゴミ箱に投げ入れる。

僅かに掠めた指先がじんじんと痺れる。気持ちが定まらない。違うんだ。彼にしたって仕方のないどうしようもない懺悔が喉元までせり上がってくる。
衝動を押し殺すように両手を握りこんだ。ほんの数秒でいい、彼の背中に額を預けて、全てを掃き出しこの心の波紋を宥めたい。

「あのさ、明日も……名字?」
「…っ」
「…名字、どうかした?」

案じるように覗き込んでくる薄墨色の瞳に息が詰まる。途方に暮れて数秒、ごめん、呟いて右の指先だけで掴んだのは、向き合う彼のジャージの袖口。赤葦くんの指が微かに跳ねるのが見えた。

十秒だけ。十秒だけでいい。それできっといつもの私に戻れるはずだ。一人でいることにも後ろ指を指されることにもひそひそと話をされることにも慣れた、泳ぐことだけを考えていられる私に。

(―――違う、そうじゃないだろ!)

いい加減にしろ。戻っていいかわからないから、今こんなに落ち着かないんじゃないのか。

面倒な人間関係に見切りをつけ、こなすべき仕事を淡々とこなしながら、期待も信頼もなくただ自分ひとりで高みを目指す。もういいかと何かが切れてしまってからの部活は、それまでの苦しさからは考え付かないほど楽だった。
周りの承認など要らない、必要な仕事だけしていれば文句も言われない、「自分の水泳」だけしていればいい。思ってしまえば何もかもが他人ごとになった。上手く回り始めた世界がまやかしだということも、どう考えたってその先に何の解決もないことも本当はどこかでわかっていたのに、私は大人ぶったその諦念に甘んじたのだ。

吹っ切ったんじゃない。ましてや乗り越えたんでも決してない。ただ諦めたのだ。私は私がなるべきと位置付けた「副主将」になることを放棄した。水泳さえできればいいと思ったんだ。

それの何をもって、「副主将」などと呼べる。

「……俺には、名字がなんで苦しいのかわからないけど」
「…っ」
「名字は俺の失敗を許してくれたのに、自分の失敗は許してやれないの」

赤葦くんの凪いだ声がする。取り乱した私の足りない言葉に戸惑うことも説明を求めることもない。
彼は私が吐いたものだけで私の心中を図りだそうとしている。どこかしこを膿ませて傷んだ果実の様な心臓に、触れることなく耳を傾けてくれているのだ。

「名字が気にしてることは、もう取り返しがつかない?」

長い間があった。首を振るのには勇気が必要だった。ここで否を返せば、私は進んできた道の間違いを認めて引き返さなければならない。それはバツが悪くて苦々しくて、きっと茨の道になるだろう。
でも、部誌を当番制に戻そうと申し出た同輩たちも、今までごめんと頭を下げた先輩たちも、やり直そうと歩み寄ってきた。それは同じくらい謙遜さと勇気の要ることだったのだ。

首を振る。それが精一杯だった。頭にささやかな重みと、少し遅れてほのかな温もりが降ってきた。
言葉はない。ただそっと乗せられ、ゆっくりと頭を撫でる大きな手に、それでいいのだと赦された気がした。酷く凪いだ、私にしか聞こえないであろう小さな声が言う。

「…じゃあ一緒に頑張ろう」

反射的に目一杯唇を噛み締めなかったら、嗚咽の一つくらいこぼれてしまったかもしれない。目の縁が燃えるように熱い。少しでも瞬けば零れ落ちてしまいそうなそれを必死に堪えて、さっきよりずっとしっかり頷いた。

「明日も走る予定?」
「…うん」
「なら明日は名字が奢ってよ」

手が離れて、頭のてっぺんが寒くなった。指の中のジャージを離す。彼の視線がわずかに手元に移り、すぐ戻ってくるのがわかった。遠回しの明日の約束に苦しくなる。二本だって奢るよ。言えば笑って、一本でいいからといなされた。私、この人の前じゃいつも子どもみたいなところを見せてばかりだ。

そうだ、一緒にがんばろうと言ったのは私の方だ。忘れてはいけない。
私は一人で「副主将」をしているわけではないのだ。ここにおいても、部においても。

150911