梟谷で迎える二度目の春が来た。

年度初めは何かと忙しい。伝統に乗っ取って新二年が中心に行った新入生勧誘活動は概ね成功、現二年の数とほぼ同じ九人の新入部員を迎え、梟谷女子水泳部は新たなスタートを切ろうとしている。クラス替えされて間もない教室はまとまりなく浮ついたままだ。けれどグループ化も固定しきっていない時期にあって、私は比較的落ち着いて毎日を過ごしていた。というのも今年の私のクラスメートには彼がいるのである。

「おはよ、名字」
「、おはよう赤葦くん」

朝練終わりだろう、エナメルを肩に、シャワーの後の生乾きの髪で横切ってゆく彼が、斜め一つ前の席に腰掛ける。このやり取りは新学期が始まって以来の朝の習慣になった。
二年六組、新たな学年とクラスを迎えた今、私の斜め前では今日も柔らかそうな黒の猫っ毛が揺れている。

てっぺんに赤葦京冶の名を乗せたクラス表の半ば、自分の名前を見つけて我が目を疑ったのは四月のこと。直後、クラス表を遠目に眺める彼の頭を発見した私は、周りの目も忘れて駆け寄った彼にこの快挙を報告していた。

『赤葦くん同じだ!』
『は?』
『クラス同じ!六組だよ!』

見開かれた瞳から綺麗な薄墨色がよく見えたのを覚えている。その吸い込まれそうな双眸に映る自分が小さな子供のように頬を紅潮させているのに気づき、はっと我に返った時には周囲からの注目を十分に浴びていた。やってしまった。さっと血の気の引いた私に、しかし赤葦くんはいつもと同じ涼やかな目元に戻ると、確かめるように尋ねた。

『俺と名字が同じクラスってこと?』
『いや、うん、そうなんだ…ごめん、嬉しくてつい』
『…俺と一緒、そんなに嬉しかったの?』
『え、嬉しいよ、当たり前じゃん』

含みのある声音と笑みで問いを重ねた彼にもちろんだと迷わず頷く。だってクラスメートだ。そしたら相談も雑談も今まで以上にずっとしやすい。普段の赤葦くんの姿も同じ教室で知ることが出来るじゃないか。
そんなあれこれを言い募れば、しかし赤葦くんは再び切れ長の瞳を大きくし、さっと口元に手をやってふいっと顔を背けてしまった。私としては嘘偽りのない本心であるが、よもや気分を害しただろうか。思ったものの見上げた彼の色白の目元はほんのり紅く染まって見えて、まさかと今度はこちらが目を見張った。

『…赤葦くん?』
『…名字ってたまにものすごく恥ずかしいよな』
『ちょっと待って、その言い方はすごく不名誉だと思うんだ』

口を尖らせた彼がちょっと不機嫌そうに言うのにツッコめたのは幸いだった。薄墨色の瞳、色の白い肌と、目元を彩る淡い紅。室内競技プレーヤーであることを除いても彼は色白で、他の先輩方に比べれば細身だ。けれど背けられた首筋は男らしく、大きな手は骨ばっていて、見上げるような背丈は私なんかよりずっと高い。
こういう釣り合いのとれたアンバランスさを艶というのだろうか。心臓が揺れたのは誤魔化せない。今更だが整った彼の容姿を改めて目の当たりにした気がして、その後の会話の間中、私は彼を直視できなかった。

『でも、俺も』

やりとりの最後、何気ない独り言のようにこぼされた賛同の言葉の、その省略された述語を、私はまだ知らないままだ。



「うわ」
「、」
「…ごめん名字、数学の宿題見せてもらっていい?忘れてた」
「いいよ、ちょっと待って」

体を捻ってこちらを振り向いた赤葦くんがちょっと申し訳なさそうに言うのに頷き、私は鞄をごそごそした。昨日の晩急ピッチで仕上げたものだが、とりあえず見直しは済ませてあるので大丈夫だろうと、書き込みの済んだプリントを差し出す。

「珍しいね」
「新入部員のロッカー割とか、そういうのに追われて…ありがとう、助かる」

やや疲れた顔をする彼に苦笑を一つ。どこの部もこの時期は何だかんだでバタバタするようだ。

「ウチもやったよそれ。カマキリの巣が出きてて部室が阿鼻叫喚になった」
「カマキリならまだいいよ。うちはゴキブリだった」
「おお…皆さんGに耐性は…?」
「ゼロだな。木葉さんとか本気で逃げてたし。結局マネと俺で片付けた」
「あー先輩ああいうの強いよね。中学の頃カマキリ腕に乗せてめっちゃご機嫌だったな…」

可愛らしい都会の少女然とした先輩が腕をよじ登るカマキリをニコニコ眺める様はなかなかシュールで、部員皆が恐れおののいたのは記憶に鮮やかだ。赤葦くんはある程度想像出来たのか、「あの人なら…」と遠い目をしていた。

これからスタメン決めたりするの。そうだな、一人見込みのありそうなヤツがいて、もしかしたら入るかもしれない。へえ、一年生ですごいなあ。

個人競技と団体競技。基本的には何もかも背景が違うため、話してもピンとこないことは多い。けれど私は彼とこうして、何気ない部活の話をするのが好きだ。以前は細かいことまで話すことはなかったが、最近はちょっとしたハプニングや何でもない日常なんかの小話から、上手くいかないことの愚痴や相談、学校や授業の話、背筋に良いメニュー案まで、話の幅が広がりつつある。

部内では話せず、かといって友達ともそう頻繁に共有する話題でもない。そんな話を朝に、あるいは掃除の間に時間を見つけてはのんびり話す。それが私と赤葦くんの最近の日課になっていた。

「写し終わったら返すから」
「オーケー、いつでも平気」

前をむき直した彼の手元を見ていれば、写すと言いながらもある程度は自分で解いている様子で、彼らしいなあと頬が緩む。おはよう名前、とかかる声に挨拶を返せば、一年からの友人が立っていた。身を屈めた彼女は声を潜めた。

「ねえ名前、名前って赤葦と同クラだったっけ」
「一年のころ?いや、今年初めて一緒になったけど」
「…あっそっか、部会とか?」
「…?ごめん何の話かイマイチ…」
「え、なんかめっちゃ赤葦と仲良いから、いつそんな親しくなったんだろうって」
「仲っ…?」

思わず絶句しかけて赤葦くんの背中を見る。幸い彼の手元はプリント上を走り続けていて、こちらに、気づいた様子はない。仲が良いって、私と彼とがだろうか。確かにそこそこ話すっちゃ話すけど大体は事務連絡だし、まあ最近は世間話もするけど、あとは部活の話とかがメインで。

「…え、普通じゃない?もともとあんま話さないとこからクラスメートレベルになったってだけで」
「いや赤葦自体あんま話さないのがデフォなんだってば。男子と話してる時でもあんな会話連続しないし」
「いやそもそも男子の会話て女子みたく長々しなくない?」
「そーかもだけど、…あーだから、珍しいなって話!去年から一緒だけど女子と世間話してる姿とか見たことないから」

釈然としていないらしい友人に、しかし私もまた首を傾げる。確かに無口に思われがちだが、赤葦君は結構喋る。言葉数は多くなく返答は簡潔、会話に無駄と愛想がないから慣れるまでは気後れしたが、今ではそれが彼のスタンダードであるとわかっているため気にならない。それでいて言葉の選び方を知っている人なので、そう身構えることはないと思う。

友人は半信半疑のようだったが、「まあ副主将だしね、あんたたち」と呆れたように笑って完結させた。彼女からすればそれは一種妥協だったのかもしれないが、私はそれが最も簡潔な解答だと思った。事実、それ以外の接点は私と彼の間には存在しない。けれどそう思うとなぜだか心許ない気持ちになって、私は落ち着かない気持ちで斜め前の大きな背中を見詰めていた。

「サンキュ、名字。あとここミスってた」

休憩時間に返されたプリントの右下、応用問題の計算式の横には矢印と正しい文字式が数行。彼らしい律儀な字体を示す指先は骨ばった男の子のそれで、手のひらいっぱいで悪戯につかみとれば彼はどんな顔をするんだろうか。それが本当にただの悪戯心のみから来るものか判断ならないまま、私はお礼を告げ、式を書き直した。






「赤葦くんって、名字さんと付き合ってるの?」

ぴたり、ホームルームも終わり荷造りにかかっていた手が止まった。鞄に教科書を突っ込むべく屈めていた姿勢のまま、降ってきた聞き慣れない声の主をゆっくり見上げる。俺はいつぞやよりずっと上手く、全身の動揺を指先だけに押し込むことに成功した。生来の表情筋のやる気の無さと順応性の高さに感謝しつつ、体を起こしクラスメートの女子二人を見下ろした。

「そんな噂が流行ってるの?」
「流行ってるってほどじゃないけど、仲良いからどうなのかなって」
「…付き合ってないけど」
「じゃあ好きなの?」

思いの外面倒になってきた。これは簡単には引きそうにないらしい。
別に女子慣れしているとかじゃなく、単純に対峙する人間を観察しての推測である。後ろで半分隠れるようにこちらを伺い見ている方は大人しそうだが、手前の女子は気が強そうだった。言うなれば少々の威嚇には物怖じせず、かつ注意深くこちらの顔色や言葉尻を拾おうとしているタイプだ。
名前は出てこないが顔は覚えている。記憶の隅を引っかき回して思い出した。――――確か、水泳部。

「…、それって答えなきゃいけない話?」
「逆に答えられないような話なの?」
「優奈、」
「やだなあ、ちょっと気になっただけじゃん」

後ろの女子の制止を遮るように、手前の女子、優奈というらしい彼女が声を大きくする。ちらり、周りから集まる視線に、いよいよ面倒になってきたと内心眉を潜めた。後ろの女子と一瞬目が合う。慌てたように逸らされた視線に、この面倒の根源にうっすらと察しがついてしまった。

これが俺の自惚れだの勘違いであればいい。だが生憎こういう経験は二、三度したことがある。そして今までかわしてきた彼女らの詮索どれも根も葉もない勘違いばかりだった――――今まで、は。

「で、どうなの?」

瞬間的に現れる選択肢は三つ。一、これまで通りすべて彼女らの勘違いだと否定する。二、黙秘権を行使、この場を立ち去る。三、…これは賭けだが、思いきって牽制する。だったらどうしたと開き直って――――いや、待て。

ガラガラガッシャン。いつも通りに積み上げた選択肢の全てが一瞬でひっくり返った。

「…赤葦くん?どうし…」
「ごめん、少しいいかな」

真っ白に吹き飛んだ思考の更地にとんでもないタイミングで乗り込んできたのは、今度こそ聞き慣れた、しかし今一番参戦されてはまずい相手の声だった。

惰性だけで首を回して見やったそこには、肩口まで伸びた黒髪と冬の間に色の戻った白い肌。薄いなりにもしなやかな筋肉に包まれた肩に、やや不釣り合いな大きなエナメルを背負って立っているのは間違いようなく名字だった。一体いつから。完全に機能の停止した思考の沈静化が進まない。
そんな俺を他所に、会話に割って入ったことを少々気まずく思っているのか、名字は時計に目をやり遠慮がちに言った。

「相沢さん、伊藤さん、邪魔してごめん。赤葦くん、部会遅れるなら伝えておくけど、どうする?」
「あ…いや、…すぐ行く。待ってて」

つられて身やった時計が示す針は確かに部会まで十分を切っていた。惰性だけで頷き、机に出したままだった教科書類を鞄に詰め込む。

「わかった。じゃあ、廊下出てるよ。二人とも、邪魔してごめん」
「え、あ…ううん」

いつも通りの落ち着いた調子で言い残し、名字は一足先に教室に出ていく。その何でもない声が鼓膜に張り付いて離れない。横の二人の女子は渦中の人物の思わぬ登場に気を削がれたのも束の間、何か言いたげにこちらを伺っていたが、俺は手早く荷物を纏め、静かな拒否を込めて告げた。

「じゃあ、部会あるから」
「…名字さんと一緒に行くんだ」
「そうだけど、何?」

出した声は思った以上に冷えていた。往生際悪く食い下がっていた女子が、冷ややかであろう自覚のある俺の視線には一瞬怯む。いつもの余裕が戻ってこない。感情的な態度を崩せそうになかった。

「俺が誰と仲良くしようが、周りには関係ないんじゃない」
「…それは、」
「まあ確かに、名字は余計な詮索もやっかみもしないし、一人じゃ何も出来ない女子と違って付き合いやすいヤツだと思うけど」
「っ!」
「なにそれ、どういう…!」
「…俺は一般論を言ったつもりだけど、」

怒るってことは思い当たることでもあるんだ。

手前の女子が顔を真っ赤にして言葉を失うのを一瞥し、俺はエナメルを肩に背負って教室を後にする。最後にちらりと見えた後ろの女子が、涙目をして唇を噛み締め俯くのがわかった。たった今その彼女の某かの気持ちを真っ二つに折ってしまったことに後ろめたい思いが沸いてきたのは、廊下の端で俺を待っていた名字の姿を目にした時だった。

「話、もういいの?」

俺は黙って頷いた。名字は一瞬怪訝な顔をしたけれど、やはりいつもと同じで、必要以上の質問を重ねてくることはなかった。その何ら変わりない驚くほどのいつも通りが、波立つ心を落ち着かせてくれない。

長い沈黙だった。黙々と歩くだけの廊下はいつもよりずっと早く終わりを迎える。名字が何か言おうか迷っているのはわかっていた。部会はあと数分後に始まるはずだった。
あとは角を曲がるだけ、そこで名字が足を止める。息を吸う音がやけに大きく聞こえた。

「…あのさ、さっきの」
「関係ないから」
「、」
「名字は気にしなくていい」

俺に「そう」する権利はない。
それが何をする権利なのか、荒波の立った心境で上手な言葉を見つけることはできなかった。ただ例えばそう、さっきのように、ああいう手合いを突っぱねるのは、単に俺の感情のせいだ。踏み込まれたくないのも邪魔されたくないのも俺の一存。名字の立場のためとか、それもないわけじゃないけど、それだけじゃない。
だってきっと名字の側に、「そういう」気持ちは一つもない。万が一、万が一あったとしても、俺と名字の間でその答え合わせが成されない限り、俺と名字はただの顔馴染みとか、クラスメートでしかないのだから。

「今までと同じでいい。今までみたいに、普通につるんで欲しい」

名字が嫌じゃなければ、そんな気遣いの譲歩の言葉すら付け加える余裕はなかった。口を挟ませる間も与えられずに矢継ぎ早に吐き出せば、言葉は唐突に空っぽになって唇を縫い付ける。

好きなの、名字のこと。
彼女の食えない先輩が揶揄するように口にした意味深な問いかけが蘇ってきて、俺はさっきの女子のように唇を噛んだ。
そんなんじゃない。言いたい自分は確かにいるのに、じゃあ一体何なんだと言われれば答えに窮する自分がいる。

「―――うん、わかった」

静かだがしっかりした声で、名字は頷いた。戸惑いを飛び越えたように、彼女は真剣な面持ちをしている。これもいつもと同じだ。全容がわからずとも戸惑いがあれども、彼女はどんなものに対しても真剣で、そういうところを、すごく好ましく思う。

「…じゃあ、行こうか」

名字が言い、俺は頷く。会議室のドアを引けば、ほとんどの部活の代表者は揃っていた。俺たちは何も言わず、各々の席につく。あの部長の隣に腰かけた名字は、あのきりりと隙のない副主将の表情を浮かべ、きびきびと資料に目を通していた。

さっき場を切り抜けようと浮かべた最後の選択肢は無意識に語っていた。開き直る。名字と、他とは違う感情をもって一緒に行動しているのだと、そう認めて牽制する。そんな選択肢が出てくる時点でそれはつまり、そういう感情が俺にあるからに他ならない。

けれどそれを好きだとかなんだとか、そんな簡単な分類分けで片付けるのは俺の本意じゃないのだ。
そんな単純な名前をつけられるような、分かりやすいプロセスを辿ってきたものじゃない。名字と築いてきた繋がりは、格好つけて言うなら「絆」とも呼べるようなそれは、きっともっと曖昧で不確かで、ずっと脆くて貴いのだ。

160119