「名字先輩、ラン終わりました」
「、オーケー、ありがとう」

息を切らして外周を終えた一年生の報告に頷き、記録をつける。外周はおよそ一キロ、7分のインターバルで7周をこなしきるか。一周およそ6分半。一年時点でこれなら体力的には申し分ない。

「先輩、次、何準備してればいいですか?」
「次は基礎トレだから、プールサイドに戻るよ。でも皆が戻るまではここで休憩してて」
「、はい!」

はきはきと気持ちの良い受け答えをする後輩にぴりりと引き締めていた心が僅かに緩む。今期入った一年生の中では指折りの有望株だ。同期内で一二を争うタイムとは言わないが、人一倍練習に取り組む姿勢に劣等感や行き過ぎた競争心は感じない。自分に何が必要か、何が出来るか常に考え、前だけ見詰めた向上心で黙々と日々をこなす姿は、目立った記録以上に目に留まる。
…それに比べて、と言いたいわけではないが。

「っあー疲れたー!」
「七周とか、陸上部かっての!」

バタバタと固まって走り込んできた数名の一年生が肩を上下させて息を切らして声を上げた。私は記録用紙につけたタイムを確認する。入部初期のタイムよりかなり遅い。最近はずっとこうだ。

暑いだの汗をかいただのと憚りなく不満を呟く声に、すでに走り終えていた同じ一年生達が硬さを隠し損ねた顔を向けた。空気が緊張するのが分かって、私はしかめそうになった顔から表情をゼロにする。
入部当初見られなかった不穏な亀裂が一年部員の間に生まれつつある。とりわけ反抗的な態度を取る一部の彼女らからあからさまな視線はなくとも、差し向けられる不満が私に対する嫌味であることは薄々でなく理解していた。

部長に相談すべきか。一瞬の沈思黙考。ここでの全権責任者、新入りを窘める立場は副主将ではない。ちらり、視線を投げて心臓が飛び跳ねた。市原先輩は私をじっと見詰めていた。

「―――…っ?」

言葉もアクションもない。見張られている、というのとも少し違う。
読めない部長の姿に、ボード片手にしばし迷った。それでも表情に出してはいけない。これは副主将としての赤葦くんを観察していたときに勝手に学んだことだ。

彼は滅多なことで表情を変えない。それが彼の本来の性格ゆえなのは知っているけれど、その要素はとりわけ私には必要だと思った。漬け込まれてはならない――――不躾な視線にも悪意ある評価にも、自分の焦りや自信の無さにも。

ちりり、不意に視線を感じ、その方向に意識だけを向けた。二年でクラスが同じになった同輩が数名、固まって談笑しつつ水筒を傾けている。
なんら変哲のない普通の光景だ。でも空気に滲むものがある。

(…嫌なアンテナが育ったもんだ)

思わず内心苦笑した。この一年で随分と人の悪意に敏感になってしまった。それでいちいち傷つくなら感覚も鈍らせておけばいいのに、人間とは面倒だ。
それでも一年かけて少しだけタフになり、嫌われ役に慣れた今の私は、その痛みを我慢できるようになっている。

「残念ながらウチに室内プールはないからね。プール開きが来るまでは陸トレに励んでもらう―――陸上部並みに」

思った以上に冷えた声が出た。まさか真っ向から来るとは思っていなかったのか、数名の一年生がさっと視線を逸らした。だが中心で声を上げていた気の強そうな子は、一瞬の怯みも束の間、堂々こちらを睨んできた。

「だとしても私たち、泳ぎに来たんですけど。自主練にでもして有志で市民プールに行った方がよくないですか?」
「その方が生産的だと思うならそうすればいいよ。退部届なら準備する」
「…は?」

ぎょっとした様子でこちらを見た彼女が、初めて引け腰になるのが見えた。取り巻きたちの顔色が悪くなる。遠巻きに様子を見守っていた他の一年生たちも凍り付いたようだ。けれど私は構わなかった。

「ここは梟谷女子水泳部だ。スイミングスクールじゃない。泳ぐ気があっても『部活をする』気の無いやつに部にいてもらう必要はないよ」
「っ…!」
「…ちょっと、名字さんそれは言い過ぎじゃない?」

絶句した一年が遮られる。ポニーテールを揺らして割って入ったのは山瀬先輩だった。一年生を庇うように立ちふさがった長身の先輩は私を見下ろす。その仕草がどうにも芝居がかって見えるのは私の性格の悪さのせいだろうか。

ざわざわり、外周している他の部活の部員たちの目が集まり始めるのがわかる。向かい合う二年と三年、その背後の一年数名。流れる不穏な空気は容易に読み取れるらしく、成り行きを見守る囁きが鼓膜を引っかいた。一瞬怯みそうになる心臓を表情筋と一緒に圧殺する。

年少副主将として学年問わずそこそこに顔が割れているのはわかっている。だからこそ弱みを見せてはならない。そんな思考回路と、一年の頃の自分には考えられない反抗精神に奮い立つ私に、山瀬先輩は滔々と語った。

「スポーツ推薦で入ってきた子もいるんだし、早く泳ぎたいって思って当然じゃない。それに、陸トレが悪いとは言わないけど、確かに外周は多いと思う。去年も一昨年もこんなに走らなかったし…名字さんは泳ぐより走る方が得意かもしれないけど、そうじゃない子もいるし。走りすぎは足にも良くないでしょ?」

諭すような先輩の声に隠れ、失笑したのは右後方。さっき水筒を傾けていた同輩の一団だった。
身体能力的に水泳より長距離走の方が向いているのも、部内でも上位の私のランのタイムがスイムのタイムより優秀なのは自覚している。陸上部にでも行けばいいのに。小さくも隠す気のない嫌味に冷たく火照った心臓が強張った。走り出しそうになる鼓動を捕まえ、ゆっくり息を吸い長く吐く。

こんな時、赤葦くんだったらきっと冷静さを失わない。表情も悟らせたりしないはずだ。言うべきことだけ考えろ。

「…メニュー案への不満ならお聞きします。でもやる気の有無は別問題です」
「やる気がないなんて、」
「遠藤、中塚、宮橋の標準タイムは5分を切ります。7分インターバルでギリギリになるはずがありません」
「…確かに遅かったかもしれないけど、それってそんなに目くじら立てなきゃいけないこと?誰だって調子の悪い時はあるじゃない」
「ここ二週間ずっとです。ランだけじゃなく基礎トレも身が入ってません」
「私、副主将だからって部員に練習を強制するのは良くないと思う。まして陸トレでしょ?スイムならまだしも」

ふつり、腹の底から湧き上がる熱が体を火照らせた。無表情が軋む。話が通じない。否、この人に私の言い分を聞くつもりはないのだ。
今まで気づかなかった自分の鈍さに呆れかえるほど、気づいてしまえばわかりやすい事実だった。分かり合えないとかそんなレベルじゃない。この人にとって最初から言いたいことは決まっていて、私の言い分に突き付ける答えはNO一択。聞こえの良い台詞は一年部員を庇う優しい先輩のそれだけれど、私が提示した証拠を加味した公平なジャッジとは程遠い。

今思えばもうずっと、もしかすると私が副主将に選ばれる前からずっと、この人は私のことが無条件で気に入らなかったのかもしれない。
それが本当なら恐ろしい話だ。あからさまに態度の硬くなった市原先輩の方がどれほど良心的で素直だろう。山瀬先輩は常に「優しくて良い先輩」で、けれど思い返してみればいつだって、私はこの人に何かを助けられた覚えはない。

この人が私の何を気に入らないとか嫌いだとか、そんなことは考え飽きた。考えたところで無意味なのだ。その理由に私が介入する余地はない。

誰だって嫌われて嬉しい人なんかいない。
でも私を嫌おうがいけ好かなかろうが、「部活」には関係ない。

「ねえ香織、香織もそう思わない?いくら副主将でも、」

朗らかな声音に滲む困ったような色が薄っぺらく耳に張り付く。この人の性格の悪さに一年間も気づくことなく過ごしていた自分に呆れを通り越して腹が立った。必死に被った無表情が瓦解する。その綻びを見ようと送られる同輩や一年の視線に奥歯を噛み締め、

「…名字が言った何がおかしかったの?」

淡々とした声の紡いだ言葉の意味が、一瞬理解できなかった。

「やる気がないヤツは帰れってことの何が駄目なの?そんなの夏には監督が毎日言ってるじゃん」

まず耳を疑い、発言者を疑い、最後にはその思考回路を疑った。つまり私の耳は正常か、発言したのは本当に市原先輩なのか、彼女の意識は正常なのかをスリーステップで考えた。
振り向いた先で硬い表情を崩さない先輩を見たとき、答えは全部イエスになった。

「か…香織?どうしたの、いきなり」
「どうもこうも、名字は副部長でしょ。ならメニューの最終決定権は私にある。文句があるなら部長の私に言えばいいってだけ」

その視線にブレはなく、口調に迷いはない。背後で山瀬先輩が絶句するのがわかる。同時に市原先輩の肩越しに見えていた、色素の薄い頭が動くのが見えた。
これまでぼんやりグラウンドを眺めていたはずの篠崎先輩が、思い出したように気だるげな足取りで歩み寄ってくる。この人話聞いてたのか。いっそそこから驚いた私を通り過ぎた彼女は、予想外の人物の前で立ち止まった。
今年同じクラスになった同輩、相沢優奈。

「頭の足りない一年けしかけて自分は高みの見物、と。カワイイ顔してやることがエグイねぇ」
「っ!」
「まあでもツメが甘いわ。手玉に取ったのはアンタじゃないみたいだし?」

唇をゆがめて笑った篠崎先輩の色素の薄い瞳がゆらりと流れて山瀬先輩を捉えた。相沢優奈やその取り巻きがつられて視線を投げた刹那、白い肌にかっと赤を昇らせた先輩はすごい形相で篠崎先輩を睨みつける。言葉よりも雄弁な自白。

一体何がどうなってるんだ。わけもわからないまま見守るしかない私の横で、絶句していた相沢さんが言葉の戻らないまま篠崎先輩に食って掛かった。

「なっ…にが、!」
「なんでバレたって?簡単、セーカクの悪さがカオに出てんだよ」
「ッ!このっ……サイッテー!」
「ハイハイとりあえず鏡見るか、ん?」
「篠崎、もうやめな」

この十数秒間で何度目になるかわからない青天の霹靂。ありありと嘲りを浮かべた口調の篠崎先輩を市原先輩が止めたことも、その制止を篠崎先輩がすんなりと聞き入れたことも両方もだ。
そして完全に挑発され、顔をいっそ赤を通り越して紫にした顔をゆがめて叫んだ相沢さんに、私は軽いショックを受けていた。彼女自身に対してというだけではない。篠崎先輩のかつてない踏み込み方、その容赦の無さにである。

「…一年二年に一体どういう事情があるのか、私は全く知らないし、知られたくもないだろうから聞かないけど」

市原先輩が歩み寄ってくる。その瞳はひたり、息を乱した相沢さんを、そしてその斜め後ろで固唾を呑んで状況を見守るしかなかった数人の二年や一年を捉えたまま揺るがなかった。
先輩は強張りを隠せない横顔のまま、けれど一言一言区切るようにはっきりと言った。

「ここにいる全員に言っておく―――何年生だろうが関係ないから。もう春なの。インターハイ予選も、シーズンも間近なの。三年にはこれが最後の大会になる」

だから。そこで一旦言葉を切った先輩がすうっと息を吸う。その瞳にごうっと燃え上がる炎が見えた気がして、私は息を呑んだ。

「―――だから、くだらない私情と派閥争いで、『部』の輪を乱すような迷惑な部員に、くれてやるエントリーなんて一つもない」

しん、と周囲が静まり返っていた。初めは私と山瀬先輩に集まっていた注目は今や、市原先輩の元に一身に集まっていた。言い切った市原先輩が初めて私を見た。敵意はない、けれど睨む様な、めらめらと燃える炎の名残を宿した視線に、私は否が応でもたじろぐ。突き出されたのはノートとストップウォッチだった。

「…次、プールサイドでしょ。名字、先行って始めて」
「……はい」

受け取り、迷って、頭を下げた。何も言わずに片づけ、つられて動き出した一年生や相沢さんたちとは別の同輩たちと一緒に移動を始めたが、三年生だけは誰一人校門付近から動こうとはしていなかった。

今彼女らを呼んではいけないことは下級生全員が暗黙のうちに分かっていた。三年しか残されない。始めて、の一言にはきっと仕切っておけという命令も含まれていたはずだ。でなければストップウォッチとノートを託されることはなかったろう。

それでもそっと振り返って見やった遠くには、凛と伸ばされた市原先輩の背中が見えた。硬い顔だった。普段となんら変わりない篠崎先輩の隣にいればなおのこと、恐れも不安も何もかも接着剤で無理やり固めて押し込んだような顔に見えた。
その強張った表情に、私はいつになく、にわかに先輩のことが心配になった。

160203