「篠崎」
「あん?」
「ちょっといい」

任意同行なのは言葉だけで、ニュアンスからして強制連行らしい。
元々勝ち気な顔立ちをきつくさせた同輩に、篠崎光琉は胡乱な目をして独りごちた。そこそこに部員の捌けた部室の人口密度はそう高くない。だがぴりぴりと空気を緊張させていた強張った気配は未だ名残を残している。

面倒そうな顔を隠さないながらも話に応じるつもりはあるらしい篠崎の茶髪を横目に、市原香織は人知れず眉間に皺を入れた。彼女の一番の友人であった山瀬水城はすでに帰路についてここにはいない。
あの正門前での一悶着から数日、二人の間に親しい会話はなかった。

「で、何」

やや遅れて部室から出てきた篠崎は、開口一番そう言った。その不遜な態度に一瞬込み上げた苛立ちを飲み下すも、受け流すにはまだ時間がかかるらしい。市原は不機嫌を隠せない声で問うた。

「……名字と相沢の間に何があったか、聞いてる?」
「、……」

篠崎は唇を結んだままただ眉根を寄せた。細められた凪いだ双眸に探るような色が浮かぶ。まるで今更何をとでも言われたような気がして、市原は苦々しい表情を隠し損ねる。
案の定篠崎に容赦はなかった。

「本人に聞けば?」
「…相沢が何も言わないのよ」
「じゃあ名字に聞きゃいいじゃん」
「……っ」

まごうことない正論だった。睨みつけた冷めたブラウンの瞳は僅かたりと揺るがない。八つ当たりなのはわかっている。それでも高みの見物を決め込むような篠崎の態度が、市原は一年の時から嫌いだった。




仲が良い部だと思っていた。
一昨年、自分が一年の頃は間違いなくそうだった。去年も変わらずそう思っていた。新入部員は皆良い子で有望だと話し、夏を越えてもその評価は変わらなかった――――たった一人、例外に目を瞑れば。

名字が副主将でさえなければ。
尊敬していた先代部長への恨めしい思いは募った。そうすれば名字の孤立も部員の派閥化も起きなかったのに。部はこれまで通り円満に運営できたろうに。
けれどそう信じて疑っていなかった自分が、どれほど身勝手で幼稚だったか、今の分裂した部の状況を見れば嫌でも理解できる。

木兎に平然と指摘され、男バレのマネに痛烈に皮肉られ、それでも背け続けた市原の背中に最後に刃を突き立てたのは、彼女を冷然と突き放した篠崎だった。

『名字は、あたしらが不甲斐ないから犠牲になったんだ』

名字に対する旧二年の態度が旧一年の間に分裂を生み、後に態度を軟化させた旧二年の一部とそうしなかった他方の間にも亀裂が生まれた。そうして今、人事騒動に関係ないはずの新一年の間ですら溝が生まれている。

不和の伝染。確かに波乱の種を投げ込んだのは瀬戸美波の人選だった。でも『主将』に任じられたのは市原だ。それは如何なる状況でも部を率い、部員を束ねるため最善を尽くさなければならない責任を意味する称号だ。

市原は先輩として名前の手を引き、主将として副主将たる名前と共に、水泳部の新体制を築いてゆかねばならないはずだった。
だが彼女はその責任を、『主将』の肩書きの意味を、まるで理解していなかった。


「美波さんが水城を副主将に選ばなかった理由が、やっとわかったわ」
「そりゃまた随分今更なことで」
「…そうね」
「、」

市原は唇を噛み締める。認めざるを得ない。屈辱的だ。でも自業自得でもある。そしてあまりに遅すぎた。

「私より、名字の方が、よっぽど『副主将』してるわ」 
「―――……」

顔をゆがめて絞り出すようにこぼした市原の言葉に、篠崎は今度こそ眼を見張って彼女を見た。自分の前で弱音を吐くなど、これまでの市原からすればあり得ないことだ。しかも名字を認め、自分の非を明言するなど考えられない。
公私共に親友であった山瀬と仲違いをしたことを差し引いても、それほど弱っているということだろうか―――否、それだけでこの台詞は出まい。

気の強いところもあるが、市原が本来仲間思いで情に厚いことは篠崎も知っている。だからこそ尊敬する先輩が仲間を差し置いて選んだ名前を認められず、同時に完全に突き放すこともできなかったのだろう。

そして同時に市原には繊細で脆い部分がある。単独行動をモノとも思わず、平気で嫌われ役をこなせる(むしろ素で飛び込んでゆく)篠崎とは真逆で、独りになるのも嫌われるのも怖くて仕方がないタイプだ。
だから事なかれ主義に走る。篠崎の嫌うそれは彼女に言わせれば「おてて繋いで仲良しごっこ」だ。

けれど先日の市原は違った。塗り消し切れない恐れと不安で強張らせた顔で、それでも最後まで妥協せず、これまでずっと二人三脚でやってきた山瀬水城を糾弾してみせた。

『ここは水泳部で、今は部活時間でしょ。メニューとか業務とか、部活に関係あることに文句があるなら言えばいい。名字はずっとそうしてた。…私たちが、部活と何の関係もないこっちの感情で、名字を仲間外れにしてきた間、ずっとだよ』
『…なにそれ…なによ、香織が今更あの子を庇うの?不満だ不満だって今までみんなで言ってきて、なのに一人だけ見てるばっかで―――みんな香織の味方してきたのに、今更私たちのこと悪者扱いするわけ?自分の手は汚さなかったくせに!』
『―――うん、ごめん』
『っ!』

声を荒げて自分を責める友人に向かって、市原は頭を下げた。三年皆が息を呑んだ。一先ず引き上げて移動した部室には、上のプールサイドから聞こえる、主将不在にあって代わりに指揮を執る名前の声が届いていた。

『…主将なのに、部がどんどんおかしくなってくの、止めるどころか一緒に加担してた。私が主将で、名字が副主将で、それで水泳部を作ってかなきゃいけなかったのに、そのために任された役目だったのに、何もわかっていなかった。感情だけで動いてた』

静まり返った空間で、息もつかずに市原は言い切った。一度でも言い淀んでしまえば藻屑となって喉に詰まってしまうかのようにとめどなく、しかし淡々と吐き出された言葉は、半ば懺悔のようだった。

『私はずっと、主将失格だった』



あのあと遅れてやってきた顧問の登場で、三年は皆部活に戻った。当然のように指揮権を市原に戻し、黙々と練習に取り組む名前を、篠崎以外の三年は各々の思いを抱えて見つめていた。

「名字が一人になったのも、水城が相沢をけしかけたのも、結局は主将の責任よ」
「ま、そうさね」
「…こんなことなら、美波さんの言う通り、アンタが主将になればよかったかもね」
「カユイ。思ってもないこと言うんじゃないよ」

篠崎は鼻で笑って言った。ここで慰めの言葉など露程も心に昇らせないのが、白福がいつか赤葦に語った篠崎の冷たさであり正しさだ。

「あたしは泳げりゃそれでいい。部活動なんざどうだっていいクチだ」

篠崎はいつかと同じことを思う。自分と市原たちは同族ではないが同レベルだ。一人孤軍奮闘する名前を、篠崎はただ見ているだけだった。けれど篠崎は名前を気に入ってもいた。

冷静に見えて、脆く見えて、けれどアレは水泳バカだ。実のところ根本的には泳ぐことしか考えていない。そして自分に似た、ただし無自覚で悪意のない、そんな冷徹さも持っている。

水面を見据えるあの横顔と、一週間分の会話があればすぐわかる。淡々と業務を覚えたのも黙々と練習に取り組んでいたのも、全ては泳ぐため。あの冷遇を受け、針の筵に晒され、他人の機微に敏感そうなひ弱な一年に退部の二文字が気配にすら現れなかったのは、基本的に泳ぐことしか念頭にないからだ。退部だなどとは、思いつく前提も脳味噌の余白もありはしなかったに違いない。

瀬戸美波の人選は正しかった。アレは確かに主将には向かないが、ただの部員にしておくには惜しい。
部に引きずられず部を支える――――団体を逸脱しないあの個人主義の根底にはあるのは、並々ならない水泳への執着心だ。


「あっ名字ー!!」

重い空気を突き抜けるような声に、市原は肩を揺らした。騒がしさでは他の追随を許さない男バレの末っ子主将が、部誌を書き終わって出てきた後輩を捕捉したらしい。男バレ部員たちと名前は篠崎と市原の存在には気づいていないようだった。

「お前も今帰りか!?」
「はい、こんにちは木兎先輩。お疲れさまです」
「おう!名字もオツカレな!」
「いいんだぞ名字ちゃん、こんなヤツにかしこまらなくても」
「木葉うっせーどういうイミだよ!」
「あれー、名字ちゃんそれ部誌?今から職員室持ってくの?」
「あ、はい。皆さん今からお帰りですか?」
「そ、ファミレスで飯食って帰ろーぜってなってる」
「へえ、いいですね」
「あーなんだったら名前ちゃんもおいでよ!木兎に奢らせるからさ!」
「エッなにソレ俺言ってない!」
「エッ先輩そんなことは」
「おやおやァ、ここは男見せるんじゃないんですか木兎くぅん」
「小見やん煽るねぇ」
「うぐぬっ…!」

相変わらず喧しい連中だ。篠崎は口元だけで笑んで思う。仲間に囃され唸る木兎を前に、180越えに囲まれ弾丸トークに押し包まれた名前が困っているのが手に取るようにわかった。

「木兎先輩、全然いいですから。せっかくバレー部さんで行くのに、お邪魔しちゃ」
「別に邪魔なんて誰も思ってないから」
「!」

野鳥園かと思えた喧騒が水を打ったように静まった。発言者はすぐ判明する。名前含めて一同が視線を送る先には、クールで優秀と評判の男バレの二年生副主将。

おやまあこれは。篠崎は好奇心を隠さず状況をよく見ようと首を伸ばした。名前は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で彼を見上げたが、赤葦の方は早々に視線を逸らしてしまう。
しかし言葉はなるべく過不足させたくない。赤葦京治とは基本的にそういう人間だ。

「…名字に用事がなければ来なよ。一人増えたところでそんな変わりないし」

きっとそれほど声量もないであろうに、やけに大きく響く淡々とした付け加えに、さらなる一瞬の沈黙。そして息もぴったり同時多発的に部員へ拡散するニヨニヨ笑い。

「ほーお?」
「これはつまりィ?」
「おい木葉、小見もやめてやれ」
「…?なんかわかんねーけど、赤葦も賛成ってことだよな!」
「…まあ、はい」
「ヘイヘイヘーイ、だったら決定だろ!」

普段クールで隙の無い後輩の思わぬ姿をどこから突っ込もうかと画策する数名を鷲尾が回収すれば、残った空気を一掃するのは良くも悪くも雰囲気クラッシャーな木兎である。
木兎の中では赤葦の賛成票が最大決定権を握っているも同然らしいが、最も影響力があるのもあの男自身だ。普段それほど言葉を交わすわけではない小見や鷲尾にまで背を押され、度重なる追撃を受けた名前は、しかし結局はまた赤葦のもとへ視線を戻す。

何を言い合ったわけでもない。しかしその数秒にも満たない視線のやり取りで、名前は不意に戸惑いと驚きを顔から消した。そうしてその目元が、口元が柔らかく解けて、

「…じゃあ、お邪魔させてもらいます」

その柔らかな声音は、それまでのどの言葉よりも鋭利に、切り抜かれたように鮮明に届いた。崩された相好の年相応なあどけなさに、市原は瞠目して言葉を失った。

それはこの一年間―――副主将に任命されて以来今まで、水泳部にいる時間、名前が一度たりとも見せたことのない笑顔だった。


無意識にだろう、ショックを受けたような市原の横顔を一瞥した篠崎は、もう残った会話もないだろうと荷物片手にその場を離れた。

きっと名字はもう、部員との、少なくとも市原や山瀬の様な上級生との絆を諦めてしまっている。仕方ないのだと割り切り、吹っ切って、それも通り越したのだろう、もはや意識に無いと言っていいほど気にしていない。

好きの反対は嫌いだ。だがそれを超えれば無関心が来る。名前にそんなつもりはないだろうから、恐らくは無意識なのだろう。だが孤高を選んだ名前は多分、すでに手を伸ばせば届くような場所にはいない。下手をすれば仲直りのための架け橋さえ、かける縁はないのかもしれない。

市原の傷ついた顔に篠崎は同情しなかった。自業自得だ。茶髪の下で唇がそう動く。この部における最も深い溝は三年の間にあるものでも二年のそれでもない。名前と、それ以外の間にある断崖だ。

始めに名前との糸を切り落としたのは彼女の先輩たる自分たちの代だった。そして自分は好奇心と僅かな罪悪感、そして潜在的な同族意識で、その切れ端をほんの少し掴んでみただけだ。

160218