浅い水面を殴りつける水飛沫が、轟音を立てて白く爆ぜる。

鼓膜を満たす滝の音。つんと鼻を刺激する水道水のカルキの匂い。風に乗って頬にまでたどり着く細かな水滴が、降り注ぐ陽に熱を帯びた肌に心地よい。

深く息を吸う。カルキが一段と強く香った。梅雨の晴れ間に見る空は眩しく、瞼を刺すほど鮮やかに青い。
洗い立てのプールが取り戻した水色の床に、波打つ水が煌めく陽光の輪を揺らす。肌を焼く日差しが胸まで焦がすようだ。湧き上がる衝動を目一杯抑え込み、デッキブラシを握る手に込めた。

ああ――――夏が来る、


「何その明治維新みたいな顔」
「ぅおっ、」

ばしん。背中に食らった衝撃が私の意識を一気に引き戻した。ついでにつんのめったのを爪先の力で何とか堪える。この人たまにいちいち暴力的だよなともう聞きなれた声をふり向き睨めば、傷んだ茶髪の下で色素の薄い瞳がにやりと笑った。ていうか明治維新みたいな顔ってどんなだ。

「どんな顔ですかそれ…」
「時代の夜明けを迎えたぜ的な。幕末顔と言ってもいい」
「ここまで具体的なのに一切伝わってこない例え初めてですよ」
「あたしこそあんな厳粛な顔でデッキブラシ握るヤツ初めて見たよ。なに、プール掃除ってそんな神聖な儀式なの?」
「だって……泳げるんですよ、先輩?」
「いや見てりゃわかんでしょ」
「今年も夏が来たんですよ」
「まだ六月だけどね」
「篠崎先輩は!嬉しくないんですか!プール開き秒読みなのに!」
「気温水温足して25ないと入れないじゃん」
「待ちきれなくて過呼吸起こしそうです」
「あんた泳いでないと死ぬの?マグロなの?築地デビューすんの?」
「築地じゃ泳げないんで太平洋でお願いします」
「アッ駄目だバカがいる。水泳バカこじらせたただのバカがいる」

篠崎さんがお腹を抱えてげらげら笑う。横を通った一年がぎょっとした顔で見るのもお構いなしだ(普段滅多に爆笑なんてしないから驚くのも仕方ない)。
それにしたって失敬な、そういう先輩だって泳ぎ出したら延々泳いでばっかのくせに。地味に真面目にプール掃除してたくせに。メニュー終わりに自由に400って言われたらみんなブレするところずっとバッタしてるくせに。ていうかアレどんなスタミナだ。

「名字、50ベスト今いくら」
「、…前に測った時は34でした」
「100は?」
「……まだ1分9です」
「へえ、伸びてんじゃん」

ついっと唇を吊り上げるのが様になるこの先輩は、時折こうして私のタイムを聞いてくる。そしてしばしば計測もしてくれる。タイムクロックで簡易の測定をしようとすれば、どこからともなく表れてストップウォッチを構えるこの人にも慣れてきた。
それがこの人なりの可愛がり方なのだろうかと考え始めたのは二年になってからだ。自惚れなのかどうかは、私にはイマイチわからない。

「…先輩は、」
「冬測ったヤツ、100が1分4くらい」
「…」
「あ、バッタな」

フリーは忘れた。
あっけらかんと言い切るのが篠崎先輩らしくて呆れてしまった。だがそのタイムで冬測った分ならこの夏また更新されるはず。入賞の可能性だってあり得る。
まだ低い場所で波打つ水面を見やった。私は標準記録にも数秒足りない。タイムを切ったところで今年のフリー100は激戦区だ。
そうやって考えていたことが顔に出ていたのだろうか。不意に篠崎先輩の声のトーンが変わるのがわかった。

「名字、お前、この夏伸びるよ」
「!」
「普通に真面目にやってな。変に焦んなくても後からついてくる」

ざあざあと、水面を叩く水音は気づけば深みを増してくぐもり始めていた。足を浸ければふくらはぎまでになるだろうか。未完成のプールはゆっくりと水位を上げてゆく。
激しい水音に溶け込んだ静かな声が胸を打つ。この人が不意の真剣さで口にすることがなんだって可能に思えてしまうのはなぜなんだろう。

篠崎先輩はデッキブラシを引きずって立ち去ってゆく。倉庫に向かうその背中はいつもと同じく猫背気味で気だるげで、風に靡く茶髪はいつもと同じでパサパサだ。そんないつもどおりが無性に嬉しくなって、私はデッキブラシを仕舞うべく先輩を追いかけ走り出した。







「ね、最近駅前でオープンしたショッピングモールもう行った?」
「あーあそこ?まだなんだよねー、気にはなってるんだけど」
「じゃあ今度みんなで行かない?参加できる人だけでいいしさ!」

恐らく今春残り数日を数えるほどになった陸トレを終え、皆して部室に引き上げてから15分ほど。流行のブランドとその服についての話題からだろう、明るい声で提案したのは二年の一人だった。
ぐるりと部室を見渡した彼女の様子から、彼女の言う「みんな」が同じ二年の仲間内に限らないことは見て取れた。各々着替えに勤しんでいた三年や一年も会話に加わり、賛同あるいは惜しみつつも辞退を申し出る声が相次ぐ。

「いいですねーソレ!ね、由香はどう?」
「日曜…、うん、多分なんもないし行こうかな」

一ノ瀬由香は一瞬考えたものの、思い切ったように頷いた。部で遊ぶのは高校に入って初めてだ。先輩たちとよく知り合うにはいい機会かもしれない―――そう考える彼女の頭にはもちろん、一か月にも満たない前に起きた校門前でのあのイザコザがある。

あれ以来部内抗争や派閥争いのような不穏な事件は何も起こっていない。一時はぎくしゃくしていた空気も徐々に砕けた雰囲気に戻ったし、やけに反抗的だった一年三人も部長と何かを話したらしく、それ以降は他の一年と同じように大人しく部活に励んでいた。初めは気まずげだった名前に関しても、彼女のあまりの平常運転の態度に毒気を抜かれたらしく、確執らしき確執は残されていない。名前だけは相変わらず基本的に一人行動なのだが。

ただ敢えて言うなら、今までよく一緒にいた香織先輩と水城先輩のツーショットをあまり見かけなくなっただろうか。別に会話がないとかギスギスしてるとかそういうことはないのだが、だからこそ周りも突っ込むに突っ込めないような、何か見えない溝が引かれているように思えるのだ。
しかしそんな二人に関し、二年は言うまでもなく三年までもが暗黙のうちに触れずにいるのがわかってしまえば、気づかぬふりを貫く以外に新入りの一年に出来ることなどない。

一ノ瀬を含め、一年には彼女らが入学する以前の水泳部についての知識はほとんどない。副部長就任を巡ってひと悶着あったらしいという漠然とした話すら、他の部活に所属する一年がそこの先輩たちから聞いたのを教えてもらって知ったことだ。

全国区クラスの並み居る梟谷において、比較的少数精鋭を特徴とする水泳部であっても、二年(去年時点では一年だが)が副主将を務めるケースは確かに異例だ。とは言え一ノ瀬らの眼から見て名前は決して他の部の副将に見劣りせず、選ばれるべくして選ばれたと言われても頷けるのだが、当初はそうではなかったのだろうか。

何はともあれせっかく入った部活動である。上手くいかないことがあっても、部員みんなが良い関係を築けるのが一番望ましい。
ちらり、一ノ瀬が見やった先にはちょうどロッカーの扉を閉じる名前がいた。今日は別の二年が部誌の担当らしく、皆と一緒に部室に引き上げてきたのを一ノ瀬は確認していた。だがその着替えのペースは思ったより早く、てきぱきと荷造りを済ませた名前はエナメルのジッパーを引く。それを見た一ノ瀬は慌て、腕を通しかけたシャツもそのままに踏み出した。

「あっ、待っ、名字先輩!」
「、うん?」
「先輩は…どうされますか?」
「どうって…?」

怪訝そうに首を傾げる名前に一ノ瀬はシャツを引っかけたままたじろいだ。もしかして話を聞いてなかったのだろうか。会話こそ途絶えさせずとも何となしにこちらに集まる皆の意識を感じつつ、一ノ瀬は妙な緊張を覚えながら続けた。

「あの、今週末、みんなで駅前のショッピングモールに行こうって…」
「、ああ」

思い当たったように打たれた相槌と名前の小さな笑みに、一ノ瀬はほっとして息をついた。きっと何か考え事をしていただけなのだろう、そう思い、先輩も行かれませんかと本題に入ろうとした彼女はしかし、次の瞬間凍り付くこととなる。

「いいね、楽しんでおいで」
「……え、」

柔らかく笑った名前の顔に嘘はなかった。下がった眦も落ち着いた声も見下ろす眼差しも、落ち着きを帯びた「センパイ」のものだ。そしてそれゆえに一ノ瀬はフリーズした。
―――なんでそんな、他人事みたいな。

「じゃあまた明日」

そう告げて背を向けた名前を引き留めたいのに言葉がまるで追いつかない。BGM代わりだった会話が気づけばまばらになっている。

「ね、ねえ、名前は?」
「え?」

引きとめたのは名前の同輩だった。今や皆が名前と、一ノ瀬に代わって名前の足を止めた彼女の動向を見守っていた。ようやく空気の異変に気付いた名前が、聊かの困惑を浮かべた顔で自分を呼び止めた同輩に向き直る。しかしその言葉を継いだのは同輩ではなく、ずっと沈黙を守っていた市原だった。

「名字は行かないの」

ぴん、と糸を張る様な緊迫感に、今度こそ部室が沈黙に包まれる。市原は名前を真っ直ぐに見ていた。その視線にブレはなかったが、それは居心地やバツの悪さを押し込んで、意地でも逸らすまいとしているような力みを隠しきれてはいなかった。

心の底から驚いたという顔をする名前に、市原はますます唇を引き結む。これが演技なら主演女優賞ものだ。込み上げる苦々しさの中で嫌と言うほど思い知る。

名前は、皆の言う「みんな」の中に、当然のように自分を入れていない。

「…けど、」

「みんな」で行くって話なんじゃ。

戸惑いを隠せない名前が言わんとするそんな一言は、少なくとも上級生陣には透けて見えた気がした。部内状況を把握しきってはいない一年部員もが、横たわる断絶の深さを初めて目の当たりにするのがわかって、市原は変色する空気を振り払うように畳みかけていた。

「なんか予定でも入ってるの」
「……土曜ですか、日曜ですか?」

市原は言い出しっぺの二年を見る。どっち?みんなどっちが良い?と慌てて周りを見渡した彼女に、周囲も急いで希望を伝えた。そして結果が出る。

「えっと、とりあえずは日曜、に…」

市原はそれを聞き届けると、再び名前を見やる。名前は戸惑いこそすでになかったが、ゆっくりと視線を泳がせ黙っていた。
ものを言う前に一拍置いて黙するその時、名前が酷く慎重に言葉を選んでいるのだということは、市原ももうわかっている。

「…すみません、その…日曜はもう先約があって」
「―――…そう」

それが答えか。
市原は悟られないように唇を噛み締めた。少し離れたところで、一ノ瀬が顔をゆがめるのが見えた。蜷局を巻いて重くなる空気に、名前もまた居づらそうに身じろいだ。
先約があるのは本当だ。だがこんな風に予定を聞かれたことなど一度もないのに、今日は一体どうしたというのか。駅前のモールなんて全員参加が必要でもなかろうに、なぜこんなに空気を悪くしてまで私を話にいれるのか―――。

しかし困惑する名前の、それどころか市原含め他の部員の度肝をも抜いたのは、更なる予想外の人物だった。

「…じゃあ、来週はどうなの」
「!」

ロッカーの扉を閉め、羽織ったシャツのボタンを留めながら、山瀬水城は放るように言った。その口調にいつもの物腰柔らかさはなく、淡々とした声音はいっそ突き放すようなそれだった。視線も名前を見やることなく、ボタンを留める指先に落ちたまま、曲がりなりにも名前相手にも保たれていた「優しい先輩」の顔は見る影もない。
しかしそれ故にその素っ気ない言葉は、山瀬が本心から見せた名前に対する精一杯の歩み寄りを如実に語っていた。

頑なに着替えの手を止めない山瀬から、目を見開き棒立ちになる名前へ視線が移る。誰かがおずおずと「私、来週でも大丈夫です」と呟き、後押しするように何人かが賛同した。お前はどうだと再び視線を浴びた名前の目が助けを求めるように流れたのは、ちょうど着替え終わった篠崎のもと。

視線に気づいた気怠けな薄茶の瞳は、途方に暮れた二年副主将の情けない顔を見ると鼻で笑った。猫背にエナメルを背負い、篠崎は愉快気な口調で言う。

「やれまァ、モテモテじゃないのフクシュショー」
「いッ、や、どこがそんな話に…!」

追いついてこない言葉を繋ぎ名前は全力で抗議した。この最大限までギシついた空気のどこにそんなハートフルコメディが転がってるんだ。油の切れたネジですらもう少しスムーズに動くはずだ。
しかし場の空気を読み尽くしておきながら、その上でガン無視するのが篠崎光琉である。

「いいじゃん、不参加記録中断すれば。たまには付き合ってやんなよ」
「…先輩は、」
「当然パス。当たり前でしょ」
「駄目。篠崎は強制参加だから」
「はあ?却下。なんであたしだけ強制」
「私たちだけじゃ名字が居づらいでしょ」

今日は驚きの連鎖が止まらないらしい。なかば勢いだけで切り込んだのだろう、それを言ったら終わりだと誰も触れずにいた暗黙の事実に踏み込み、押し切るように篠崎を黙らせた市原は、さっきとは打って変わって名前の方を見ようともしない。

流石の篠崎もこれは予想外だったらしく、面食らった顔をしていた。今や皆が篠崎の動向を固唾をのんで見守っている。それを見渡し、ほとんど睨むような眼差しを自分に送る市原を再び見やって、篠崎は呆れ顔を作ると面倒そうに言った。

「拗らせてんねぇ、どいつもこいつも」

やれやれと肩をすくめ、皮肉たっぷりに口端を吊り上げた篠崎に、市原と山瀬がぐぬっと黙り込む。自由奔放を形にしたような個人主義代表者に言われると大変腹立たしいのだが、今はそんな文句も言えないのがさらに悔しい。

篠崎はいつもと変わらぬやる気のない仕草で、面倒そうに髪をかき上げた。しかし名前はその半眼に、やはりどこか面白がるような色が隠れているのを見た気がした。

「とりあえずアレだ、三年共、名字の様子はあたしじゃなくて本人に聞きな。一二年も覚えときなよ、あたしに仲裁役をする趣味はない。そんで名字、お前はなんかあったらあたし見んのヤメロ。
それから」

来週日曜、空けといてやる。

話は終わったと言いたげに入口に向かう篠崎の背中を、瞬きも放り出した名前の瞳が追いかける。そうしてようやく瞬きが二回。唇は何かを言いかけて一瞬開き、そのまま結局閉じられて、けれど部室の扉が閉じられる寸前に弾かれたように開かれた。

「―――アス!」

お疲れさまッした!

がばり、皆に45度の礼を残し、名前は篠崎を追いかけ部室を飛び出してゆく。ドア越しに届いた「光琉先輩!」の一声と激突音、「ぅおっ、…このバカ、肩痛めたらどうすんだッ」という遠慮なしの怒声と鈍い反撃音が聞こえてきた。明るい悲鳴は名前のものだ。

「…ありがと」

呟いたのは市原、向けたのは山瀬へ。別に、と歯切れ悪く返された言葉を、市原は十分だと思った。

市原は荷物を準備し部室を出る。校門へ向かう篠崎と名前の向こうには、そろそろ見慣れてきたバレー部の姿が待ち受けているのが見えた。
最近はずっとこうだ。帰る時間が重なることを差し引いても、男バレはほとんど毎日と言っていいほど名前を輪に入れて帰路につく。

白福に引き入れられた名前は、ものの数秒で何の違和感なく一団に溶け込んだ。突き飛ばす勢いで背中を叩くのは木兎だろう。つんのめった名前の腕を掴むのは隣にいた木葉だ。黒髪の後輩、赤葦が木兎を叱り、フォローを入れているのであろう鷲尾と小見に名前自身が加わって、復活した木兎にまたも体重をかけられ押し潰されそうになりながら笑っている。
圧巻だ。市原は自嘲する。いっそ水泳部にいる時の方が浮いているのは気のせいではないだろう。


副主将に就いてから、名前は学外での部の集まりに参加しなくなった。他人の機微にも場の空気にも敏い名前が、自分の存在が皆の感情を強張らせることに気づくのは造作なかっただろう。
必要最小限の集まり以外からひっそりと姿を消した名前を、誰も輪に引き入れ戻そうとはしなかった。誰もが気づいていながら、自ら進んで遠のいていった名前の察しと物わかりの良さに甘えたのだ。

名前は何の疑いもなく「みんな」のことを「自分以外の皆」と認識している。それが当然のようにだ。それは孤立も疎外も彼女にとって、もうずっと昔から何の不思議もない「日常」に成り果てていたからに他ならない。

名前の扉は完全に閉ざされたのはきっと、「表情豊かで真面目な一年」が「寡黙で優秀な副主将」となりきった時だ。泣き言も陰口も言わず、反抗も敵対もせず、ただ黙々と耐え、呑み込み、そしてついには諦めたのだろう。そうして誰にも気づかれることなく、その扉は閉ざされた。前だけを向いて歩くことに決めた後輩との間に出来た途方もない隔絶に、今の今になるまで誰一人として気づいて来なかった。

市原は遠ざかる一団から目を逸らす。今更抉るような罪悪感を覚えたところで何の意味もない。
名前自身に自覚があるのかすらわからないこの断絶を超えるまで、あとどれくらいかかるのか、市原には想像すらできなかった。

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