(…浮いてるな)

物理的な意味だけではなく、空気的な意味で。

分厚いガラス越しに見えるプールの中ほど、先ほどから一レーンを貸し切り状態にして泳ぎ続けている彼女を見てそう思う。青と黒の競泳用水着に身を包み、明らかに玄人とわかる速度で泳ぐ姿は、水中散歩を楽しむお年寄りたちがメインゲストたる休日の市民プールにあって明らかに異彩を放っていた。

日曜は泳ぎにゆくのだと、機嫌よく話す名字の話を聞いたのは金曜の朝だった。プール開きは来週じゃなかったのかと聞けば、つい待ちきれなくなってとバツの悪そうな子供のように言うから笑ってしまった。

行きは走って市民プールまで、帰りは電車で帰るというストイックぶりに感心するのもそこそこに、思い出したのはそろそろシューズを新調しようか思案していたこと。何気なく市民プールの位置を聞けば、行き慣れたスポーツ用品店からそう離れていない。
そこまで思い至って、彼女の大まかな予定や同行者の有無をさり気なく聞き出した俺は、木葉さんあたりに言わせれば確信犯というヤツなんだろう。いや、こんな話絶対あの人たちには言わないけど。

そうして買い物を済ませ、少し足を延ばして訪れた市民プール、13時を回ろうとする今、名字は聞いていた予定通り延々と泳いでいた。確か選ぶのは5時間コース、プールが開くのは朝9時だそうなので、出てくるのは14時頃だろうか。

ガラス張りの壁からプールサイドはそう離れていないが、学校のプールに比べればずっと遠い。小さなギャラリー席に人は殆どいなかった。脇にある浅い子供用プールから察するに、きっとスイミングスクールに通う子どもの親がここから参観できるようになっているのだろう。

プラスチック製の長椅子に腰掛け荷物を置く。名字が再びターンするのが見えた。激しく壁を蹴るクイックターン。数秒の間水面下に消えた黒いキャップが水面を突き破り、再び両足が白い飛沫を上げ細腕が何度も水を掻く。

もっと近くで見えればいいのに。
学校のプールサイドで見るよりずっと遠い距離に何とも言えずもどかしさが沸く。脳裏に鮮やかな夏の記憶は薄れてはいないものの、名字はこの一年できっともっと速く綺麗に泳いでいる筈だ。それを間近に見れないのが悔やまれた。

どれほど往復を繰り返しただろう、ようやく名字は泳ぐのをやめ、床に足をつく。肩を上下させて呼吸を整える彼女は、一瞬キャップに手をやり、思い出したように腕を下ろした。ああそうだ、学校でも本当は駄目なのに、ここはとりわけ市民プール、髪の毛を浸すわけには行くまい。
ちょっとした癖や行動がわかってしまうことに頬が緩む。代わりにゴーグルだけを外し、仰向けになって浮力に身を任す姿は一年前の夏と相変わらずだ。

薄い水着の下で胸を上下させる名字の、水面すれすれで天を仰ぐ横顔にふっと見入る。ああ――――そう、あの眼。あれも全く変わっていない。

真っ直ぐな、痛いほど真剣な眼差しは、去年よりさらに純度を上げて研ぎ澄まされている。触れれば切れそうなほど鋭利な透明度。高みを見詰め、高みを目指す目だ。遠いと思ったこの距離にあっても、その眼差しは目を眇めたくなるほどに眩ゆい。

どれくらいそうしていただろうか。名字は不意に床に足を付け、流石に消耗した様子でプールから上がった。そのままこちらに近づいてくると、キャップを剥ぎ取るように脱いで頭を振り、ギャラリー近くに置いてあったボトルを掴む。

口をつけて数秒、ようやく一息ついて、時計を見やろうとしたんだろう。何気なくこちらを見た名字の瞳が、ついに俺の姿を捉えた。一瞬ドキッとしたのも束の間、零れそうなほど見開かれた瞳が突如連れ戻してきた幼さに、思わず軽く噴き出してしまった。

「っ…!?…、…!?」

かちんと固まった名字ははっとしたようにきょろきょろ周りを見渡している。おおよそ俺の目当てが他にいるんじゃないかと探しているのだろうが、残念ながら俺が会いに来たのは名字本人である。立ち上がってガラス壁の傍までゆくと、彼女は慌てたように駆け寄ってきた。
滑ると危ないからゆっくりおいでと言う間もなく、ガラス一枚隔てた向こうにやってきた名字の口が「なんで、」と紡ぐのが見える。どうやら会話できるほどガラスは薄くないらしい。
少し迷い、思いついて、スマホのメール画面を呼び出した。手早く打って画面を見せる。

『シューズを買った帰りに寄った 近くのスポーツ用品店』

温水プールゆえにだろう、軽く曇ったガラスを擦った名字がこちらに顔を寄せる。クリアになったガラス越しに画面を覗きこむ名字は、当たり前ながらてっぺんからつま先までずぶぬれだった。
もう一度画面をタップする。視界の端で名字の瞳が瞬くのが見えた。

『金曜話してたから、名字いるかなって』

ほろり。
彼女の長い睫の上に、濡れて艶めく黒髪から水滴が滴り落ちたのは、何気なくスマホを差し出したその瞬間だった。

スローモーションのように映った刹那の光景、引き伸ばされる体感時間。間違いなく一瞬停止した心臓がやっとのことで鼓動を思い出し、いやに大きく脈打ち始めた。
殆ど反射だけで眼を逸らす。だが俺はその直後、今の名字に目のやり場など一切ないことに、今の今まで無頓着でいた自分を呪いたくなった。

気づいてしまえば何もかもが心臓に毒になる。去年より伸びた髪は薄い肩に水滴を落とし、晒された鎖骨、体のラインは男の俺よりずっと華奢に浮き上がっている。
知ってはいた、去年だって普通に見ていた。にも拘わらず今更再認識する。名字は、多分他の女子と比べて――水泳のせいだろう――かなりスタイルの良い方なのだ。
白い肌と黒髪のコントラスト、薄く開かれた唇の桜色が網膜に焼き付くのは、顔を上げた名字が頷いて見せるよりずっと早く、

『あとどれくらい泳いでるの』

じわじわと込み上げる気まずさを押し殺し、誤魔化しを兼ねて文字を打ち込んだ。名字は何かを言いかけて、それから時計を見やり、ちょっと身を屈めると下の方のまだ曇ったガラスに指を走らせる。名字側からは鏡映しに、俺から見れば正しく書かれた文字は『45分』。

『このあとの予定って、走って帰るだけ?』

名字はこっくり頷き、でもそれから「あっ」と口を動かすと、さっきと同じく彼女側からは鏡映しで、そしてさっきよりは時間をかけた下手な文字で、『ごはん』、それから『かも』と付け足した。

俺は一瞬迷った。名字が怪訝そうに首を傾げ、俺を伺うのに目を合わせられない。
次のメッセージを打つのには、少しの時間と思い切りが必要だった。

『俺も飯まだだから、良かったら一緒に行かない?』

名字が眼をまるくする。濡れた睫が上下するのを見守る間に、肩へ無意識に力が入った。次の瞬間、名字は大きく頷き、破顔一笑してみせた。

その酷く嬉しそうな顔が呼び戻した幼さが、すらりと晒された体躯と濡れた髪の纏う女性らしさを―――敢えて避けた言い方をすれば、色気のようなものを中和するのがわかって、俺はその無垢さを好ましく思うと同時に、内心そっと安堵した。

競泳用の水着と濡れた髪はきっと、スイマーとしての名字の晴れ姿だ。
何となくそんなことを考えたのは去年からだと思う。無論今日のそれは練習着というやつなのだろうが、何にせよそれはきっと、俺たちがユニフォームを身に纏う時と似ているのだろう。

吹き硝子のように薄く繊細に、そして同じくらい鋭く水面を映して透き通るあの双眸を見た後には、特にそう思う。半端な思いで軽々しく触れてはならない神聖さ――――水を駆る時の名字を、水着に身を包む彼女のその姿を、俺はどうしても余計な考えと共に見たいとは思えない。

気づかれないよう深く息を吸い、戻ってきた余裕を握りしめ、ガラスにそっと顔を近づける。身をかがめて目線を合わせれば、名字も俺の方に顔を寄せた。
スマホを使わず唇で伝える。ゆっくりと紡ぐ四文字。

『待 っ て る』

瞳を瞬かせた名字は、一拍おいて再び笑った。
綻ぶようなその笑みは、さっきの子どものような笑みとは全く違っていた。ふわり、色づいた頬の薄紅色が、気の所為と片づけるには眼に眩しい。

舞い戻ってきた面映ゆさに心臓をぎゅっと掴まれる。伸ばしたところで届かない手を伸ばそうとしたのは無意識だった。誤魔化すようにジーンズのポケットに指をかける。やはりさっきとは全く違う心持ちで、けれど今度こそ俺は名字から目を逸らさずにはいられなかった。

分厚いガラスが、45分が、今日一番にもどかしい。






「そうだ、赤葦くん、実はですね」
「うん?」

場所は市民プールから徒歩15分、こじんまりしたローカル食堂感溢れる定食屋。昼時の日曜とは言え小洒落たカフェなどとは違った大衆食堂だ、中年男性が客のメインを占める店内に同じ年頃の若者はほとんど見られない。

味のある木目をした二人掛けのテーブルを挟んで向き合う目前の盆には、幾分減った玄米ご飯と味噌汁、切り干し大根の煮物と漬物、メインディッシュにはアジの竜田揚げ・大根おろし添え。メニューは同じだが性別差は出るもので、名前のものは並盛、赤葦のは大盛だ。
細身の姿から想像し難かったのか、赤葦くんってよく食べるんだね、と目を瞬かせた名前に、運動部だし、あと俺燃費悪いんだ、と返した赤葦の膳は、言葉通りすでに半分以上片づけられている。

このあたりでわかるのは試合帰りに寄った定食屋くらいだ、と何気なくこぼしたのは赤葦で、ならばそこがいいと言い出したのは名前だった。飯が美味いのは間違いないが色気の無さもお墨付き、男子高生たる自分はともかく名前は嫌がらまいかと思っていた赤葦だったが、名前は居心地の悪さなど微塵も感じた様子なく、席に着くなりわくわく顔でメニューを覗きこんでいたから安心した。それどころか運ばれてきた結構な量の膳にも怯むことなく、見る間に片づけてゆく様は気持ちのいい食べっぷりで、さすがは白福さんの後輩かと勝手に思ったのは内緒である。別に姉妹ではないが。

「今度の日曜、駅前の新しいショッピングモールに行こうって」
「うん」
「部室で話になって」
「、うん」
「なんかよくわかんないんだけど」
「…うん」
「私も行くことになったんだ」
「…」

もぐもぐ。言葉の合間にアジを頬張り、味噌汁を啜って、呑み込んではまた話す。食べている間は大層静かなので多少の無作法には目を瞑り、相槌を打つだけでいたが、ゆっくり繋がった一文には赤葦は箸を止めた。それを見た名前も同じく箸を止め、神妙な面持ちで赤葦の方に顔を寄せる。

「でね、その日なんだけど」

さてはてそれは一体どういう事態か。名字を誘うとはどういう風の吹き回しだ。場合によっては実力行使で引きとめることも辞すまい。白福さんにも連絡して根回しすればなんとでもなろう。
如何なる状況でも冷静沈着、コート上で司令塔を務める優秀なセッターと呼び声高い頭脳を惜しみなく回転させ、ここまで考えるのに要したのはお馴染み安定の0.5秒。

普段は眠たげと言われようが彼も立派な猛禽類、赤葦は静かに瞳を細くさせ、ゆっくり口を開く名前に身構えて、

「…何着ていけばいいと思う?」

即刻背負ったシリアスを引っ込めた。

「…なんでもいいんじゃない?」

死ぬほど気のない返事が出た。猛禽モード瞬殺である。
通常装備の眠たげな目を濁らせて彼は思う。デートか。デート前にそわそわして落ち着かない系女子か。その話で行けば俺は相談を受けた親友ポジションになるらしい。なんだそれ全然納得がいかない。

「なんか後輩も来るし先輩もいるし、わざわざ予定聞かれて合わされて、回避不可っていうか、でも篠崎先輩来てくれるっていうから逃げられないし」

死んだ目をする赤葦に気づくことなくうんうん唸ってアジをつつく名前は、迷いを振り切るようにぱかりと大きく口を開くと、つついていた竜田揚げを丸ごと頬に詰め込んだ。ついでにとばかりに玄米ご飯も頬張れば、深刻な表情は一瞬で掻き消え、実においしそうにもぐもぐする様は平和そのものである。
あんな細い体のどこに消えるんだろう。自分のことは棚に放り上げしみじみ思って浮かべた先ほどの水着姿、なぜだかそのタイミングで、ふとその言葉の違和に気づいた。

「…『回避』とか『逃げられない』ってことは、名字、行きたくないの?」
「、え」

尋ねた言葉に他意はなかった。だが付け合わせの切り干し大根を摘まんだ箸は宙に縫い止められ、丸められた瞳からは鱗が転がり落ちるのがありありと見えた。
ああそうか、まるで無意識だったのか。なんら毒気のない無垢な驚愕を前に、なんだか複雑な思いがした。


名字は基本的に優しい。へそ曲がりだとか根に持つタイプとは程遠いし、むしろ喜怒哀楽の怒をどこに落っことしてきたのかと心配になるほど我慢強く、憤怒を露わにすることは滅多にない。類稀なる辛抱強さと相まって、その気質は温厚篤実と呼んで差支えない。

だがそれは思うに、聖人君子のような慈悲深さから来ると言うよりは、ある意味行き過ぎた諦めの良さから生まれるのかもしれない。本当は手酷く傷ついて、理不尽に対し憤って、けれど温和さと共に先立つ諦めが、そんな諸々の一切を割り切らせてしまう、そんな気がするのだ。

仕方ないのだと諦めて、細かく砕いて飲み下す。腹に収めてしまった後に残るのは、優しさで隔絶された無色透明の無関心だけ。

名字にそうさせたのは間違いなく部員たちだ。そして今この目の前で、途方に暮れた子どものように言葉を失う名字に悪気はない。
だがきっとこの真っ直ぐさは、時としていっそ残酷なまでに、彼らの心を刺し貫くのだ。
無垢な切り捨て、悪意なき断絶。無論自業自得だろうが、鼻で笑ってやれない程度には同情を禁じ得ない。

「名字がそんな顔することないだろ」

唯一無二の同労者を前にして湧きあがるこの感情はなんだろう。立ち尽くしてしまった子供の手を引くような心地に感じるのはきっと、一回りも二回りも大人びて見える彼女が思っていたよりずっと近く、手の届く場所にいることに気づいた醜い安堵だ。
それでもその頼りない眼差しに縋られれば、手を伸ばしてやらない理由はない。

「先輩も後輩も、多分同輩もだけど。名字がなんでもない顔で『ひとり』でいられるのが、今になって寂しくなっただけだよ」

随分と虫のいい話だ。突き放し、冷たくあしらい、向けた背であしざまに語ったそれは、謂われのない迫害だったはずだ。それでも目前で言葉に迷う小さな唇が陰口にゆがんだことは一度もなく、その華奢な腕が自らの務めを疎かにしたこともなかった。

去年の秋の初め、なすすべもなく泣きじゃくる彼女の手を引いて歩いた帰り道を、俺に忘れるつもりはない。
でもこのきっと底抜けに底なしの水泳バカに、そんな残酷な発想が露ほども思い浮かばないことも知っている。

「名字はただ、振り向いてやるだけでいいんじゃないの」

歩み寄ってやれなどとは言ってやらない。名字にそんな義理はないし、ましてや水泳部員にアシストなどするものか。
自力で来い。その断絶を飛び越えるだけの気概を見せろ。そう思う。

俯いた長い睫の下で、瞳の色が揺れるのには気づかないふりをした。箸をおいた手を伸ばし、言葉にしないありったけの大丈夫を込めてかき混ぜた髪は生乾きだった。
ぱちぱち、長い睫が数度上下する。意志の強い瞳が、光の粒を集めて自分を見詰めるこの瞬間を、赤葦はいつ見ても酷く尊く思う。
いざ試合に臨まんとするかのような真剣さで、名前は口を開いた。

「……服、」
「うん」
「一張羅で行くよ」

目元を引き締め下された宣言はいっそ宣戦布告に等しかった。だがそれ以上に、名前の昭和漂うボキャブラリーチョイスが、赤葦だけでなく隣のサラリーマンまで吹き出させたのには笑ってしまった。


160419