深く息を吸う。雑念と雑音が遠くなるように。

高い天井をものともせず籠ったカルキの強い匂いが、肺を満たし、肺胞に取り込まれ、たぎる血液と1つになって全身を駆け巡る。

少し前に迎えた都大会に出したタイムは最高タイムに2秒足りなかった。練習中に出した速度を試合で出せなかったのは多分、この不定形で不安定な高揚を緊張に還元してしまったせいだ。
同じ轍を踏むわけにはいかない。集中と萎縮の微妙なラインで揺れ動くこの緊迫を、冷まさず煮立てず、沸騰寸前のこの温度で保たなければならない。

アドレナリンはどこまで速度に変わるだろう。緊張と興奮が拮抗する中、気持ちは妙に凪いでいた。多分、今、すごく調子がいい。
目前に深々と透き通る水面は、学校のプールじゃ御目にかかれない透明度で揺らめいている。


なんでもいい―――――泳ぎたい。
早く、速く、どこまでも。




「…相変わらず変に度胸のあるヤツ」
「は?」
「名字」
「、」

100メートルフリー予選、飛び込み台の前に立った二年副主将を見下ろし、篠崎光琉は喉を鳴らして笑った。決勝に至る僅か数枠のレーンを巡り何十人が競うレースもラスト2本、名前は第3コースについている。

その横顔に、周りの選手達に感じられるような緊張あるいは闘志は伺えない。あるのはただドライアイスのような覇気。恐ろしい純度の集中だ。
隣で同じように名前を見下ろす市原にも感じるものがあったのだろう、言葉なく目を見張る彼女を横目に、篠崎は握り潰すようにウィダーを飲み干した。

鋭いホイッスルの音と共に篠崎はストップウォッチを握る。一瞬の静寂、緊迫感を解き放つピストルの音―――入水。

飛び込みは上々だ。だが順位が伸びない。コースの位置はエントリータイム上位者から4、5、3、6、2、7、1、8コースの順に振り分けられる。順当に行けば3位のタイムを持つ名前は、しかし後続に差をつけるどころかじりじり追い抜かされて行く。

最初の25メートルで出遅れた。険しい顔でレースを見守る市原が、案ずるように呟く。50メートルでのターン、現状5位。はらはらしつつ電光掲示板を見やったチームメイトの中、しかし篠崎は名前から目を離さなかった。

乱れることのないフォーム――――名前の速度は、落ちない。

「…行け、」

行っちまえ。
篠崎は口角を吊り上げる。ターンからの潜水、4位の選手を頭一つ抜き去った。乱れぬペースに焦りは見えない。凪いだ集中が持続されているのが見てわかる。
残り30メートル、6コースの現在3位の選手に並ぶ。会場の声援にざわめきが混じりだした。さあ行け、抜いちまえ。

「嘘…!3位抜かすよ!?」
「名前ラストーー!!」

5コースを泳ぐ選手のフォームが焦りにブレるのがわかった。篠崎はストップウォッチを一瞥した。前半50を上回るタイム。落とすどころかギアを上げている。
残り15メートル。現状2位の選手に並ぶ。拮抗する速度。残り10メートル。名前が手のひら一つ分前に出た。残り5メートル、肘一本分前に伸ばされた腕が水を掻き、そして。

ドンッ!

壁に手を突く。激しく肩で息をしながら、名前が掲示板を仰いだ。篠崎は計測を止めたストップウォッチを見、それから電光掲示板の公式タイムを見上げた。
順位は二位。1:03.52。過去最速――――だが、標準記録には満たない。
ゆっくりプールから上がった名前が、思い出したように応援席を見やった。後輩や同輩が労いの声を投げる中、名前は一番に篠崎の茶髪を見つけ出した。

いつもの退屈そうな顔を崩さぬ篠崎を目に、名前の表情がわずかに揺れる。それから間をおいて、60度に折り曲げた会釈はきっと、応援していた部員全てに向けてのものではないのだろう。いつも通り伸びた背を向けてプールサイドを離れてゆく名前から、篠崎は何も言わずに視線を外した。






寝静まったバスの揺れる車内で、結局一睡も出来なかった。

「オッケー到着。各自荷物持ったらすぐ部室行って、解散前にミーティングよ」
「はーい…」
「了解でーす」

普段の練習の半分も泳いでいない体が倦怠感に沈むのは、大会という非日常が疲労を割増しにしているからだろう。にもかかわらず片道1時間の移動中、重い体には僅かばかりも眠気はやってこなかった。

撤収作業のためにドライヤーをパスした髪は生乾きで、ゆすると微かに塩素が匂う。流石に疲れの伺える声ながらいつも通りきびきびと指示を出す市原先輩に従い、眠たげな部員たちが目をこすりながらバスを降りてゆく。私はいつも通りしんがりを務め、忘れ物がないか確認を済ませてから運転手さんに挨拶して下車した。

バスを降りれば一ノ瀬さんが私のエナメルも一緒に出してくれていたため、礼を告げてありがたく受け取った。部室にゆく前に職員室に寄り、準備してきたミーティングの資料をコピーしてもらう。重たいエナメルを体ごと引きずるように部室へ走り、輪になって座ればいつも通りのミーティングが始まった。

今日の結果と今後の予定の確認。リレーメンバーの確認と補欠の決定。土日の練習時間の調整。滞りはない。資料にミスもないし、眠気もない。言葉に淀みもないはずなのに、…けれどなぜだろう。
自分の一挙一動の現実味がいまいち遠くて、身体にしっかり馴染まない。

「―――連絡事項は以上です」
「…そうね、他に言うこともなさそうだし…今日はみんなお疲れ!明日は昼練だけだけど、すぐ帰ってしっかり休んできて」
「あーしたっ!」
「おつかれさまでーす」

市原先輩の締めくくりを掛け声に、皆が最後の緊張感を放り出す。今日の閉め作業が同輩の一人の担当であることを確認し、私はエナメルを肩に担いだ。このまま晩御飯に行かないかと盛り上がる話題を背中にひっそり部室を後にする。名前を呼ばれた気がしたが、きっと気のせいだろうと片づけた。

なんだろう。体だけなら今すぐ眠れると思うのに、妙に思考が冴えて休まらない。じっとしていられない胸騒ぎを抱えたまま部室棟を離れる。不意に聞えたボールの打突音に足が止まった。体育館。

「木葉ナイッサー!」
「前前前ッ!…ッしゃあ!!」

吸い込まれるように覗きこんだそこでは、試合形式の練習が行われていた。…いや、違う。相手の選手に見覚えがない。他校との練習試合のようだ。でもこの時期に―――ああ、梟谷はシード校か。ならばインターハイは、

「―――……」

急にエナメルが重くなった。立っているのがしんどくなって、座り込みたい衝動に駆られた。

打ち込まれるサーブ、乱れるレシーブ。赤葦くんがコートの端まで走り出る。ネットからの距離は遠く、だがその凪いだ瞳はコートを一瞥した刹那のうちに、次の一手を策して閃いていた。
迷いはなかった。膝を、肘を、指先の関節まで柔らかく弾ませて繰り出される、だが柔さなどとは無縁の大胆で挑発的なセットアップ。

バッシュのスキット音が響く。ロングトスが入った射程圏内に木兎さんが走り込んで来た。翼を広げるような跳躍―――そうして矢のように飛んだボールを悠々捕まえた右腕が、三色のそれをネットの向こうへ叩き込んだ。

「ヘイヘイヘーーーイ!!」
「ナーイスキー木兎!」
「よく上げたな赤葦!」

クールドライに見えて結構に負けず嫌いの彼の黒髪を、鷲尾さんの大きな手がぐしゃぐしゃにかき乱す。ガッツポーズを決める木兎さんの背中を叩く小見さんに続いて、肩を組んだのは木葉さんで――――その朽葉色の髪が重なったのが駄目だった。

傷んだ茶髪の下で飄々と笑う、気怠げで猫背気味の背中が、ストップウォッチを戯れに振り回している。

「―――っ」

あと3秒。
あと3秒だったのに。

エナメルが足元に転がる。折れる膝を抱え込む。床につけたお尻に響く足音を感じながら、唇にきつく歯を立てた。そうしてバッシュの摩擦音に耳を傾ける。目元を埋めた膝小僧が濡れないよう、何度も深呼吸を繰り返して。






頭の右が、温かい。

浮上する意識が身体の位置を模索する。手足の感覚を手繰り寄せれば、膝もそれを抱えていたはずの腕も、なぜだかだらりと投げ出されていた。頭の下の柔らかい布は何だろう。確かめようと身じろいだ反対側の側頭部に何かが触れている。温かい。誰だろう、知らない手。

「…起きた?」

――――手は知らない。でもこの声なら知っている。

夢見心地が吹っ飛んだ。ほとんどバネみたいに跳ね起きた。ベンチの端と端、距離は多分ひと三人分。反射的に頭に手を遣り、目をかっ開いて声もなく凝視した彼は、いつもと変わらぬ安定の無表情をしていた。
あまりの冷静さに自分の方がおかしいのかと錯乱する。いやおかしいのか。ここどこだ。ていうかどれが現実だ。

「男バレの部室。入口のとこで寝てたから連れてきた。今は――6時40分」
「…、…!?」
「ちなみに夢じゃないから」
「エッ…!」
「うん、夢じゃないから」

言いながら足元のエナメルからおにぎりを取り出し、もぐもぐと頬張る赤葦くんの自由さたるや。いやいいんだけど、構わないんだけど、マッハで混乱する自分が阿呆に思えて来るほどのこの通常運転。ていうか食べるのめっちゃ早い。

ぐるぐる泳いだ視線がようやく周囲の全体を把握する。水泳部の見慣れたそれと造りは同じだが、明らかに空気の違う部室。腰掛けたベンチは柔らかく、さっきまで頭を乗せていたところには綺麗に畳まれたジャージがあった。きっと彼が枕代わりに貸してくれたのだ。思って頭を抱えたくなった。
寝るとか。膝抱えて爆睡とか。しかも他校の選手の来ている体育館でって何事だ。

「…バレー部、練習試合、」
「5時に終わった。片づけして6時解散。20分までは白福さんもいたよ」
「…赤葦くん、」
「俺は半まで部誌書いてたから、別にそんな待ってない」
「…どうやって…」
「…」

質問にもならないぶつ切りの言葉へこれでもかと先回りしてきたキレッキレの返答が初めて滞った。私、一体どうやってここに来たんだ。
恐る恐る赤葦くんを伺う。おにぎりを頬張るあいだの沈黙は偶然か、はたまた故意か。合わない視線が答えを明かす。嚥下した彼はぼそりと言った。

「…白福さんに言われて、俺が」
「……誠に申し訳ございませんでした…」

顔から火が出た。出そうとかじゃなくもう出てた。なんたる醜態か。タイムスリップしてバスで寝て来たい。それか部室まで運ばれながら露程も起きなかった自分に助走つけて飛び蹴りしたい。
頼む、せめてどうか俵担ぎであってくれ。百歩譲っておんぶなら瀕死で済む。いやもう怖くて聞く気もないけども。

「あんなとこでうずくまってるからびっくりした」
「…もう何とお詫びすればいいか…」
「それはいいけど、何があったの」

ぐしゃり、握り潰したアルミホイルを投げる腕。私は空気の塊が喉につっかえるのを感じながら、放物線を描いてゴミ箱に吸い込まれるそれを見送った。

何『か』ではなく何『が』。そう聞くあたりが、凍りつく私の返答をどこまでも待つように佇む沈黙が、恐ろしく彼らしいと思った。

「…帰り、…バスで、寝れなくて」

あまりの馬鹿げた説明に自分で途方に暮れた。これじゃ本当に仮眠しにきたみたいじゃないか。
けれど繕う余裕もなく晒した焦りも、定まらない説明の順序も、彼には全てお見通しのようだった。瞳の色を深くして私を見詰めた彼が、何かに思い当たったように瞬きをひとつする。
薄い唇がそっと開いて、どこかいつもより慎重に音を紡いだ。

「…インターハイ?」

言い当てられた。誤魔化しようなく。心臓を射抜くように、的確に。





「常に速く」泳げればそれでいい。考えるのはいつもそれだけだった。
それが目標と呼ぶには漠然とし過ぎていることも、順位やタイムに執着の薄いスタンスが競泳に向かないことも色んな人から指摘されてきた。
それでも水泳は個人競技だ。尽くしたベストが最速なら最下位だって悔しくない。場合によってはただ泳ぐだけでも構わない、本気でそう思ってきた。

けれど今日、泳ぎ切ったそのあと見上げた茶髪のあの人を前に、残ったのは絶望感だけだった。

「標準記録に、3秒ちょっと足りなくて」

出したタイムはベストだった。この日まで尽くしてきた努力にも嘘はないと断言できる。
けれど標準記録を突破できなければ、インターハイには出場できない。


「インハイって言っても個人競技だし、出場したところでリレーメンバーだって入れないから、それがどうしたって話なんだけど、ただ」

自分が満足するだけの速さじゃ、あの人と同じ次には行けないんだって、


「それが、…それが」

もう言葉が出なかった。ただふっと視界が暗くなって、膝をつく彼のネクタイが見えたのも束の間、こつり、ぶつかった額が温もりを帯びてゆく。
頭を預けたシャツのシトラスと、今までで一番に強く香る彼の匂い。背中を包む大きな手の温度に、目の前が一気に滲んで消える。


体育館に差し掛かったあの時、猛烈に喉を締め上げたのは焼けるような悔しさだった。

インターハイもその先にある春高も、あの絶大な信頼を寄せられ寄せる先輩たちと肩を並べて向かえる、赤葦くんが羨ましかった。その姿を見た途端、終わってしまった夏を勝手に思い知らされて、勝手に苦しくなったのだ。


頭を預けた彼の肩がじわじわと濡れていく。滲んだ涙を温める彼の体温が胸を刺すのに、背中をゆっくり叩く手に心が震えて止まらない。
濡れる肩が申し訳なくて浮かせた頭はけれど、伸びてきた手に当然のように引き戻される。ぐっと力を込めて逃がしてくれない掌の温度は、まどろみの中で労うように髪を梳いてくれていたのと同じそれだった。

「…そっか」

静かな声だった。言葉以上の労いだった。押し潰されそうな胸が軋んで、力の入らない手で赤葦くんのシャツを握りしめた。何も言わず、背中をあやすだけの寄り添うような沈黙が、剥き出しのまま並べた心臓に各々痛いほど沁みてゆく。

共鳴する心音に言葉なんて必要なかった。きっとそれが正解だ。同じ二年、送り出す側。来年の今頃にはもういない大きすぎる背中を目指し、並んで、でも結局は追いかける他に術がない。

辿る道はよく似ている。これまでもこれからも、それがきっと私たちなのだ。

160522