調子を狂わされていた自覚はあった。

まさかと思っていた。むしろ初めから想定してすらいなかった。日焼け跡を残した柔い肌を何の気負いなく陽に晒し、まるで学校のプールサイドにでもいるかのような無防備さで歩き回る彼女に、眩暈がする思いがした。着せたシャツから余る肩も裾から覗く細い脚も思い出すすべてが目に毒で、瞼の裏に焼き付いたそれが纏われたパーカーとハーフパンツの下に重なる度に、どうしようもない焦燥に駆られる理由はすでにわかっている。

誤算だったのはただ一つ。俺は自分の認識を軽視し、自制をどこかで過信していて、そしてその油断こそが命取りだった。





「混ざってこなくていいの」
「あ、赤葦くん」

しこたま買い込んだ花火はすでに三分の一を残すほどだろうか。木兎さんを筆頭に皆して一気に10本も15本も束にして火をつけるものだから、派手さに引き換えその消費は恐ろしく早い。

しかし赤や黄色が咲き乱れるその中心に、先ほどまで一緒に騒いでいた名字の姿はなかった。新しく準備してきたバケツを片手に戻ってみれば消えていたその背は、いつの間に戦線離脱をしていたのか、少し離れたところに腰掛けてじっと皆を見詰めていた。


『なあ、最後花火して帰ろうぜ!』

運動部ならではの底なしの体力で遊び倒し、日も暮れる頃となった夕刻、言い出したのはやはりというか木兎さんだった。行きに寄ったコンビニで売っていた花火をガン見していたのである程度予測はついていたが、名字が目を輝かせて賛成したのには少し驚いた。

『うわ、花火ですか!?します!しましょう!』
『おおっ、じゃあ名字は俺と買いだしな!』
『はい!』
『あっ、ちょっと木兎、コンビニの場所わかってんのー?』
『聞いちゃいねーわ…兄妹かあいつら』
『赤葦ついてってやれ、今の名字じゃ木兎と迷子になるぞ』
『…そッスね、じゃあ行ってきます』

バケツなんかは準備しておく。苦笑しながら申し出てくれた鷲尾さんに甘えて、俺は早々に駆けだした二人を追いかけた。まるでそれが当然かのようにぶんぶん手を振って俺を待ち受けていた二人に、木葉さんの言った兄妹かというツッコミがまざまざと蘇ってきて、余計なとこまで似なきゃいいがと閉口したのは内緒である。

名字は心底楽しそうで、道中ずっと木兎さんと何の花火を買うかで盛り上がっていた。絶対打ち上げな!なんて案の定なことを言う木兎さんに同調していた名字は、小さな子供のようにほっぺたを赤くして、腕一杯にロケット花火を抱えてコンビニから出てきた。

あの子、あんな風に笑うのね。

コンビニに向かう俺たちの背を見送った水泳部の三年、山瀬さんはそう呟いたという。それを耳にしたらしい木葉さんが、「やっぱ溝って深かったんだな」と苦笑するのを見て、その溝をまるで感じさせることなく彼女たちを巻き込みきってみせた、ウチの三年連中には密かに脱帽した。

日も高く上った昼過ぎ、昼食を取るなり「遠泳行くかァ」とシャツを放り出した篠崎さんに倣って、水泳部が歓声とともに服やら何やらを空高く放り上げた景色を思い出す。無邪気に両手を上げてはしゃいでいた名字はあの時、脱ぎ捨てたハーフパンツとパーカーと共に、副主将の肩書きも放り投げてきたのかもしれない。

けれどこうして日の暮れた今、彼女は宵闇迫る浜辺から、それを拾い上げてきたようだった。

「まだロケット花火あっただろ」
「うん、けどちょっとはしゃぎすぎたなって、反省中」
「え、今更?」
「う、…赤葦くんはたまにグサッとくるよね、悪意無いから余計刺さる」
「名字がたまによくわからないこと言うからね」
「あ、今のは違う。今のは完全に面白がってる」
「随分自信あるんだ」
「声が違うんだよ」

それを言うなら、膨れっ面の名字が本当に拗ねているわけではないことは俺にもわかる。思いはしたが口には出さず、俺は名字に買ってきた缶ジュースを差し出した。

「わ、ごめん。後で返す」
「いいよ、奢りで」
「…じゃあ、後じゃなくていつか返すよ」
「、…オッケー、その方がいい」

缶ジュースを開けて傾ける。その合間に名字はぽつぽつと今日の出来事を語った。更衣室で先輩らと大騒ぎしたこと。その時もしかすると最も因縁が深かったかもしれない先輩と、和解と呼べるかわからないにしろ、きっと初めて真っ直ぐに会話が出来たこと。気にかけてくれていた後輩とたくさん話せたこと。男女も部活も混合のビーチバレーが楽しかったこと。木兎さんのスパイクを間近に見られて感動したこと。

「でも一番嬉しかったのは赤葦くんのプレーが見れたことかな」
「…別に目立つようなプレーヤーじゃないだろ、俺」
「それ謙遜通り越して卑屈だよ。あ、特にあれ、まさかスパイク打つとは思わなくてびっくりした」
「ああ、あれ。試合じゃ滅多にやらないけどね」
「したらいいのに。めちゃくちゃカッコよかったよ」
「…」
「あーでも見れて一番良かったのはやっぱりセットアップかなあ」
「…じゃないと困る、セッターなんだし」
「うん、そうだね」

裏表のない言葉で酷く嬉しそうに語るのをやめてほしかった。遠慮のない褒め言葉に滲む温度から、海辺を見詰めて微笑む名字が、ほっぺたを赤くしているのまでわかってしまいそうだった。

木兎さんが再びロケット花火に火を灯す。歓声と共に一際大きく鮮やかな赤が弾け、次いで金色の光が吹き上がった。光の雨を眩しそうに見つめ、名字の横顔が笑みを深める。酷く尊いものを見詰めるような眼差しだった。

「楽しそうだね」
「そうだね」
「いや、名字が」
「え、私?」

思わず口をついた俺の台詞が木兎さん達を見てのものだと思ったらしい名字が、少し驚いたように俺を見上げる。じっと見詰めて頷けば、彼女はやや気恥ずかしそうに視線を落とした。けれどすぐ、今日一日の楽しさ全てを宝箱に収めるように、しんとした重みをもって頷く。

「うん、楽しい。…楽しかった」

夜を迎えた海のように凪いだ声だった。はしゃぎ疲れた子供じゃ作れない、時を尊び惜しむ色。
ちょうどあの、宵闇に閃く火花のように。生まれた瞬間に過去となるこの一瞬に永遠が無いことを、幼い子供じゃいられなくなった俺たちはもう知っている。

「さっきさ、光琉先輩と話してて」
「、」
「先輩、大学でも水泳するんだって」
「…へえ。推薦で?」
「うん。関西の大学」

首をねじるようにして名字を見た。関西。紡いだ彼女の手元には、もってきていたらしい花火が幾本か握られていた。
名字の指がマッチを擦って、立てたろうそくにそっと灯す。浮かび上がる横顔に、揺れる炎が陰影を作った。

普段篠崎さんを苗字で呼ぶ名字は、時折思い出したように敬称の上へその名を乗っける。何がその切り替えとなるのか聞いたことはないし、多分、聞いてやるべきことでもないのだろう。ただ語る横顔は穏やかなままで、俺はそれに少しだけ安心した。

「じゃあもう会ってくんないんですかって言ったら、すごい面倒そうな顔されてさ」
「…先輩らしいね。想像できる」
「うん、けど、じゃあ勝手に来りゃいいじゃんって」
「、」

パーカーとハーフパンツを着こんだ彼女がシャツを返しに来た時には、小さくなって目の合わない姿に、居たたまれない様子をさせてしまったことに気まずい思いをした。だがなんだかんだで考えるよりは動くのが得意な体育会系、ビーチバレーが始まればすぐさまボールを追いかけるのに夢中になった名字は、そこからは終始一日上機嫌だった。

今までと同じくバレー部と行動を共にすることも多かったが、部長の市原さんと一年の子を挟んでジュースを買いに行ったり、篠崎さんと市原さんの友人だという山瀬さんとで遠泳しに行く姿も見た。水泳部と関わる彼女の顔には、多少緊張気味でも嘘のない笑顔があった。

とは言え中でもいつも以上にくっついて回っていたのはやはり篠崎先輩で、選ぶジュースまでお揃いにしてきたのには三年皆して爆笑していた。篠崎さんは顔面どころか言葉でも面倒くさいと語り、カルガモの親子だの金魚とフンだの好き勝手に言っていたが、本気で邪険にするようなことはなくなんだかんだ名字の好きにさせていた。

あれはあれで可愛がってるのよ、あいつ。
鬱陶しそうに眉間に皺を入れる篠崎さんと、その横で満足そうにジュースを傾ける名字を眺めながら、白福さんはニヤニヤして言った。

あの人と同じ次にはいけない。そう言って泣いた名字の気持ちに、篠崎さんは粗方察しをつけているのかもしれない。
殺し損ねた嗚咽を吐き出し、丸めた背中を震わす姿を思い出す。胸を焦がすような焦燥も一緒に蘇ってきて、俺は思わず握りこぶしを作った。不意に名字が言う。


「赤葦くんも、寂しい?」

真っ直ぐにこちらを見上げる瞳は、漆黒と呼ぶにはやや淡い色をしていた。
その表面に舞い降りた火花の光が、角を落として丸みを帯び、角膜の潤みに溶け込んでゆく。その眩しさに、俺は眇めた眼をゆっくり外して、砂浜でじゃれる一つ上の仲間たちを見詰めずにはいられなかった。

赤葦くん「も」。当然のようにそう言える彼女を、時折酷く眩しく思う。答えは思っていたより、ずっと素直に形になった。

「…寂しいだろうね」

騒がしい先輩たちだ。悪ふざけも好きで、何かといい加減で、野次馬根性も旺盛、しかもその中心核には扱いの厄介な末っ子まで付属ときている。

けれどひとたびコートに立てば、いいや、本当はコートでなくたって、言葉の重みも背中の大きさも、追いつき難く及ばない。どんなに大人びていると言われたって、二年副主将の肩書きがあったって関係ない。

先輩の肩書き。一年という時の高い壁。悔しいほど頼もしい、その差は自分で嫌程わかるのだ。

「ん」
「…」

差し出された花火を受け取る。頼りない紐、その先の細いふくらみと、薄っぺらい色紙。線香花火。

名字は同じそれにろうそくの火を灯す。呆気なく燃えた色紙の先で、焔は小さな火の玉になった。俺もそれに倣う。名字がろうそくの火を消せば、途端に空間の明度は落ちた。

不安定に揺れながら仄かな光を放つ線香花火の先端を、彼女は真剣に見詰めていた。

「でも私、思ったんだけど。赤葦くんがいるから、私多分平気だと思うんだ」

ぱち、ぱち。動きを定めた火の玉を中心にして、はじけ飛ぶように細い金糸が散る。宵闇に散る珊瑚礁の、激しくもささやかな明滅。赤みがかった繊細な火花は、酸素を震わす柔らかな振動を指先に届け、生まれるたびに散ってゆく。

永遠を知らない刹那が、名字の穏やかな瞳に踊る。

「私は全然力になれないし、助けてもらってばっかで、でもだから…月並みなんだけど、赤葦くんにはすごく感謝してるの」

会えて話して、こんな風に一緒にいられるようになれて、そのぜんぶが。

「本当に良かったなって」

―――いつもだったら多分、心臓の裏側、手の届かないそこをくすぐり上げる感覚にじりじりと追い詰められるのを押し込んで、誤魔化すように憎まれ口を叩いていただろう。

それなのに彼女は、そんな余裕すら俺に与えてくれないまま、酷く嬉しそうに繰り返すのだ。


「ほんとうによかったの」


恥ずかしいヤツ。なんか詩人みたいだね。
そんな風に真顔で茶化して、名字にふくれっ面をさせるのは俺の十八番だった。平生からの不愛想に磨きをかけたぶっきらぼうな声音でも、彼女がそれを誤解することなく汲み取ってくれることを、汲み取ってしまえることを知っているからこそ、そうすることが出来てきた。

けれど今日は違った。俺は彼女から目を離せなかった。込み上げてきた衝動は、これまでの何かとは質量も熱も何もかもが違っていた。

「あ」

ゆっくりと勢いを失くす火花の中心で震えていた、仄明るい朱色の光の玉が不意に地面へ落下する。

永遠なんて存在しない。昨日も今日も明日からも。このメンバーで戦い、あの人たちのいるコートに立てる時間は、火花のように激しく散って、駆け抜けるように過去となる。

けれどそれは、この少女と、隣で微笑む彼女と過ごす今にだって言えることなのだと、そう稲妻のように理解して、―――ぱちん、何かが弾け飛んだ。


「あかあしく、」


こちらを仰いだ名字が何かを言うのが聞こえた。けれど俺にはその言葉がわからなかった。

火薬の香り、潮風の磯、覚えのある甘い匂い。
掴んだ腕は微かに汗ばみ、吸い付くように柔かった。無垢に見開かれた瞳を、ああなんて無防備なんだろうと思って、それから。

そうしてゆっくり唇に感じた柔い温度は、信じられないほど熱かった。

160709
突然の海編・後半戦。