どぼん。

飛び込み台から飛び込んだわけでもなく、梯子を伝ったわけでもなく、ただプールサイドの縁から飛び降りた。否、それは「飛び降りる」と言うよりも、「嵌まった」に近い落水だった。

真夏の生ぬるい水温と薄まったカルキの匂い。割れた水面は夏の空気を抱き込み、足元から湧き上がる無数の泡が逆巻く水流に巻き込まれる。
沈む私の体とは逆方向、競うように水面を目指して急上昇する柔らかな空気の玉が、水着越しのお腹を、むき出しの脚を撫でてゆく。くぐもった水音は鋭敏な外の音を遮断した。

ゴーグルのこちら側で目を閉じる。そうすれば不意に、すう、と匂うはずのない火薬の香りが鼻を掠めて、水泡の音が遠のいた。

火花の弾ける柔らかい音、カルキとは似つかない潮風。指先に伝わる明滅の振動が途絶えて、それから。

「―――ッ!!」

しゃがみこんだ足裏で力一杯底を蹴る。力任せに抵抗を無視して、ロケットみたいに水面を突き破った。ゴーグルを剥ぎ取り、大袈裟なほど頭を振って、無意味に水面を薙ぎ払う。それでも握り込まれたように縮んだ心臓は、容量不足の窮屈そうな拍動を繰り返している。ゴーグルのフレームを握りしめる。
上手くいかないリセットはもう何度目になるのだろう。


『ごめん』


睫の先が触れる程の隙間を満たす宵闇と、それをつたって届く熱。聞き慣れたはずの、聞いたことのない彼の声。

触れた柔さに移された自分のものではない温度が、火傷のように今なお疼いて、それで、だから。

「…っ、」

力の抜けた脚が折れ、ぐにゃりと体が水に沈んだ。剥き出しの瞼を泡がなぞってゆく。ゴーグルは手の中のまま、眼球を包む薄い皮膚越しに触れる水と、反射する陽光が眩しい。

「……だめだ、」

ごぽり、吐き出した吐息は潰れた声と空気の玉になり、額を掠めて上昇してゆく。

庇うように身体を折り曲げたところで、痛む心臓に逃げ場はない。
消えない記憶と残像が、消せない事実を突きつける。


彼がその場の勢いや考えなしでああいうことをするような人でないことを、私はすでに疑いの余地がないほど知ってしまっているというのに。







「名字」
「、はい」
「明日のメニュー、インターバル200の8本って追加じゃなかった?」
「え、…あ」
「それから、リレーメンバーが重複してる」

差し出されたノートを確認し、私は思わず言葉を失った。当然の様な筆跡で記されたメニューリストは目を疑うほど間違いだらけだ。針のむしろで過ごした一年の時ですら、こんなミスはほとんどしたことがなかったのに。目に余るその体たらくに落ちる肩を持ち上げられない。

「…すみません、ちゃんと確認してなくて…」
「いや、別にいいんだけど……どこか調子悪いの」
「え、」
「こういうミス滅多にしないでしょ、名字」

ノートを手放しそのまま立ち去るかと思いきや、やや眉根を寄せて私を見る市原先輩に、咄嗟に返事に窮する。調子。良いか悪いで言えば最悪だ。けれどそれは体調不良とかそういう、どうにもならないものじゃない。いや、現状まるでどうにもなっていないわけだけど、ケアレスミスを弁護するには余りに個人的な私情に過ぎる。

「…いえ、ただ…ちょっと寝不足で」
「…、そう」

寝不足なのは嘘ではない。実際この数日眠りは浅く夢見も良くない。内容は言うまでもない似たり寄ったりな残像の繰り返し。だが不調の理由として告げるにはかなり苦しい言い訳であるのも本当だ。
ぐるぐる思い巡らす合間にも、市原先輩は立ち去る気配を見せない。何だろうか、余計に肩に力が入るのを感じていれば、不意に先輩が口を開いた。

「…熱中症とかそういうの、気をつけるのよ」
「!」
「それから夜更かしも」
「え、あ…はい」

ぺたぺた。今度こそ歩み去ってゆく先輩のビーチサンダルの足音が、可愛らしくも間抜けに響く。引き戸が開いてまた閉まる。もうひと泳ぎするんだろう、プールサイドへ向かって遠ざかる足音を聞きながら、心臓はゆっくり沈んでゆく。

監視室の片隅に掛けられた時計の針は下校時間を示している。今日は別の部員が当番なので、ノートの修正が終わってしまえば、私にここに居残る理由はない。

ポーカーフェイスを保てなくなっているのだろうか。熱中症や夜更かしを心配されるほどに。
部員には絶対に悟られたくない。弱みを見せたくないと殆ど本能的に思うのは一年から拗らせてきた強迫観念だ。相談は出来ない。どうすればいいんだろう。たとえばこんな時、


(こんな時、赤葦くんなら)

「――――」

思った自分に愕然とした。途方もなく途方に暮れた。


彼に倣い、彼を目指して、彼に学んで会得したポーカーフェイスが、他でもない彼によって保てなくなった。その今になっても私は呼吸に等しい当然さで、彼の落とす影に、先を行く背中に、打開策と答えを見つけようとしている。

刷り込まれた条件反射の根深さを思い知る。これまでずっと絆だなんて綺麗な名前で呼んでいたものの正体を、依存という名に垣間見る。交錯する矛盾と滑稽さに言葉が出ない。
自分に呆れる余裕すらなかった。残ったのはどうしようもなく逃げ場のない閉塞だけ。

頼れない。

私は彼に、赤葦くんに、寄りかかることがもう出来ないのだ。

「…っ、」

シャーペンを放り出して膝を抱える。なにもかもが壊れてしまったようだった。彼の顔を思い浮かべるだけで苦しくて堪らなかった。何も言われていない、聞いていない。けれどわかる。もうどうしたって今まで通りじゃいられなくなった。けれどそれならどうやってこれからを紡いでゆけばいいか、私にはそれもわからない。

部に居場所がなかった時も、独り黙々と練習をこなす日々にも、こんなにも置き去りにされたと思ったことはなかった。誰とも分け合えない閉塞の中で、今度こそついに私はひとりきりだった。膝をついて、座り込んで、もう立てないと弱音を吐きそうなとき、いつだって目を閉じればその向こう側、確かに見い出せた彼の存在は最早そこには感じられない。

それだけで、たったそれだけで、世界にたったひとり取り残されてしまったかのようだった。

寂しくて、苦しくて、どうしようもなく泣きたくなった。








「おろ?」

スマホを覗きこんだ白福雪絵は、長い睫を上下させて眠たげな瞳を瞬かせた。

自主練を切り上げ後にした体育館前、いつもであれば生乾きの髪を揺らして駆けてくるはずの後輩の姿はまだ見えない。
何かあったのだろうか。怪訝に思って確認したメッセージ画面には思った通り、部活の違う後輩からの返信が返ってきていた。並んだブロック体が告げる応答に白福は一瞬沈黙する。

「名字ちゃんどうしたって?」
「…、なんか、メニューの組み直しで残るって」
「大丈夫なのか?最終下校過ぎてんぞ」

ひょいとトーク画面を覗きこんだ雀田に応じた白福の言葉に、名前を待つ間にと菓子パンを頬張っていた木兎は目を丸くする。ちらり、時計を見やった木葉が、やや言い難そうに声を潜めて確かめた。

「こういうのってあんま言いたかねーんだけど…三年連中の差し金だったり?」
「でもこの前、海で和解したんじゃなかったのか」
「そりゃ市原と山瀬とはって話だろ?」
「確かに、三年は他にもいるしな…」
「でもメニュー組むのはもともと名字ちゃんか香織の仕事だって聞いたよ?」

木葉と鷲尾、木兎による推論に、しかし雀田が指摘を入れる。黙ってそれに耳を傾けていた白福は、ふとその会話に交わっていない声を探して顔を上げた。ぐるり、見渡した端の方で、重たいエナメルにやや背を曲げた猫っ毛の後輩は、アルミに包まれた大きなおにぎりを頬張っている。

梟谷の屋台骨を支える副主将はすこぶる燃費が悪く、細身の見た目に反して大食らいだ。帰り際に帰路までのカロリーを摂取する姿は別段珍しいものではない。コート上以外じゃとりわけ表情の起伏に乏しい後輩は、今も普段と変わらぬ落ち着いた佇まいで沈黙を守っている。
にも拘わらず、何故だろう。そんな「いつも通り」から、何故だか無性に目が離れない。

西日に伸びる影が長い。未だ太陽が猛威を振るう真夏の半ば、黄昏を迎える斜陽の中に、季節がゆっくりと折り返そうとしているのを垣間見る。

「ねえ赤葦、なんか聞いてる?」

名字ちゃん来ないの。

心からそのまま転がり出た白福の問いかけに、体育館前の水道に腰を預けていた赤葦は、おにぎりを包んでいたアルミの皺を伸ばす手を止めた。
育ちの良い後輩が口にものを入れたまま話すことは滅多にない。それ知っていて彼が咀嚼を終えるのを待った白福へ返されたのは、しかしいつもと同じ平淡で簡潔な返答だけだった。

「いえ、何も」
「…、そ」

なのに赤葦は、不思議そうなカオしないんだね。

唇をつついたそんな指摘は、トーク画面に浮かんだ可愛らしいスタンプを前に、喉の奥へ呑み込まれていった。

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