「すみません」
「お?…なんだ、一年か?」
「あ……はい」

丁寧に紡がれた言葉と、きりりと引き締められた目元に滲む緊張感。力みを隠せない肩は薄く、きちんと揃えられた爪先はまだ新しい上履きに包まれている。
こんがりと焼けた小麦色の肌と、まだあどけなさの残る顔をした女子生徒、名字名前は、予想外の人物との遭遇にわずかな動揺を飲み込んで、目の前の大柄な男子に尋ねた。

大きくて強い瞳だ。眠たげに見える瞼の下、しかし猛禽類の獰猛さを秘めた琥珀の眼差しが、純粋な好奇の色で遠慮なく彼女を観察する。覆い被さるように彼女を見下ろす男子学生にこの女子の見覚えはなかったが、彼女の方は彼を一方的に知っていた。
つんつん立った銀髪と色素の薄い瞳、見上げるような長身とがっしりした体躯。男子バレー部部長で、そして副主将を務めるあの涼やかな彼にとっては、面倒くさくて尊敬できる凄い先輩―――名前は確か、ボクトさん。

「なんか用か?誰か呼ぶ?」
「、はい、あの…市原先輩はいらっしゃいますか」
「市原?オッケー、」

ぱっと身体を捻った彼、木兎光太郎は、ぐるりと教室を見回した。初めこそその得も言われぬ威圧感に一歩引きそうになったが、根は非常に素直で気持ちの良い人らしい。
この長身だと人捜しにも便利そうだなんて思いつつ、名前はその珍しい髪色から眼を離す。かすかに得た安堵はすぐに、別の緊張でかき消され始めていた。

「おっいたいた!おーい市原!後輩来てんぞー!」

名前は思わず肩を揺らして仰天した。教室の隅まで轟くような大声がクラス中の視線を集める。殆ど反射的に大きな彼の背中に隠れそうになったのを堪えたのは、意識の隅に残っていた肩書きの故だった。
後ろ暗い理由で来たわけでは決してないが、上級生の階に足を運ぶのが無駄に気まずいのは世の常だ。名前の場合はとりわけに。

「…名字?」
「すみません、今少し大丈夫ですか」
「構わないけど…」
「先生からの預かりものを届けにきました」

怪訝、というよりやや不審げな様子でやってきたポニーテールの女子生徒、市原香織は、差し出されたプリントを受け取らぬまま視線を落とす。
名前の顔が微かに強張った。だが横に立ったままこちらを見下ろしている木兎の視線を些か気まずく思ったのか、市原はゆっくり手を伸ばしてプリントを受け取った。
名前はそんな自分の微かな変化を横の木兎に拾われていたことには少しも気づかず、ますます背筋を伸ばして気丈さを保たせた。

「次の練習試合の日程表です。去年より参加校が一校増えたので、集合が一時間早いそうです」
「…、わかった」
「一年には先生の連絡先を回してあります。先輩の連絡先は、許可を頂いてから回そうと思っているんですが…」
「わかった、メアドとケー番回して。名字のも知ってるとは思うけど一緒に知らせて」
「はい」

備品の補充、バスの座席表、部費で落ちない費用の回収。名前は必要事項を短くまとめたメモに時折視線を落としながら、顧問からの連絡を簡潔に伝達してゆく。市原は幾分硬い表情のまま、それに短い相槌で応じていた。

「これで…以上です」
「確認しとく」
「お時間取らせてすみませんでし、」
「っなあ!」
「!」

漸く終わった、と思った名前はしかし、威勢よく割り込んできた声に度肝を抜かれた。最後まで言い切るのを待ちきれない、むしろ今までずっと待っていたと言わんばかりに声を上げたのは、二人の遣り取りをじっと見詰めていた木兎。
これには市原も驚きを隠せず、一体何だと彼を見る。だが当の木兎は市原に構うことなく、肩に力を入れたままの小柄な一年に関心の矛先を向けていた。

「お前があの、水泳部の一年フクシュショーか?」
「ッ、」

今度こそ身も心も凍り付いた。遠慮なくよく通る彼の声が再び視線をかき集める。先程より明らかに好奇の色を強くした目で不躾に貫かれ、名前は身体が穴だらけになるような気持ちで根が生えたように立ち尽くした。
市原の表情がわずかに強張る。それは後輩の萎縮ぶりを目の当たりにした心配と言うよりは、負い目や後ろめたさと呼ぶ方がしっくりくる表情だった。

流石の木兎も名前の異変に気づき首を傾げる。言ってはいけないことを聞いたのだろうか。だが何ら禁句があったとは思えず、その筋肉質な背中を折り曲げ名前を覗き込んだ。

「なあ、違うの?」
「……いいえ、そうです」
「やっぱそうか!え、じゃあこれもお前がまとめたの?一年で?」
「あっ…!」

プリントを取り上げられ、しげしげと眺められる。もう声も出なかった。やめてくれ、なんでこんな。今すぐここから逃げ去りたい。それなのに足には根が生えたまま、あまつさえますます強くなる視線に細かく震え始める。
名前はもはや言葉もなく、辛うじて頷くのが精一杯だった。誰か助けてほしい。殆ど泣きたい思いの胸中に、一人の同級生の顔が過ぎった瞬間。

「すっげーなあお前!あかーしみてー!」
「!?」

心中を読まれたのかと思った。名前は涙目なのも忘れて顔を上げた。先には目一杯大きくされ、自分を見下ろす琥珀色のぐりぐり眼がふたつ。そこに向けられ慣れた猜疑の色や薄められた嫌厭の色はなく、ただ純粋な感嘆だけが伺えた。

「俺ンとこもさあ、フクシュショーが一年なんだよ。あかーしっつって、あんまノリはよくねーけど、すっげー頭イイの」
「…し、ってます。赤葦くん」
「なぬっ!?やっぱ有名なのか!?」
「え、あ…はい、多分」
「くっ…悔しーけど流石は俺のコーハイ…!俺も目立ちたい!!」

もう十分目立ってます、ついでに私を巻き込んで目立つのはやめてください。そんな本音を呑み込んだ名前は、この空気だけでエネルギッシュな上級生とは対照的に、いつも涼しげで温度の低い気配を纏う同級生を思い出した。
落ち着いた薄墨色の双眸をした彼は、この人とどんな風に接するのだろう。この人は赤葦くんのことを―――正確に言えば、『一年生副主将』のことをどう思っているんだろう。

聞いてしまいたい思いはしたが、横に自分の先輩、それも部長がいる状況ではその問いは憚られた。しかし彼はきっと同じ主将であっても、溝の向こう側にいる市原とは違う答えを出すのではないか。そんな名前の期待に似た憶測は、その数瞬後には証明されることとなる。

「つーかウチもそうだけどよ、やっぱ一年でフクシュショーやんのってすげぇヤツなんだな!」
「え、」
「あかーしもデキるコーハイだし、まあ俺のがスゴイけど!名字だっけ、お前もえらいよなあ」
「っ…別に、」

まるで自分の後輩のように手放しで名前を誉めた木兎に応じた、正確に言えば彼を遮ったのは、名前自身ではなかった。木兎はただ怪訝そうに、しかし名前は再び肩を強張らせ、隣にいた市原を見る。名前と木兎の遣り取りを黙したまま見ていた彼女は、棘を隠し損ねた声で吐き出すように言った。

「顧問からの連絡ぐらい、誰でも出来るでしょ」

名前は咄嗟に力いっぱい唇の裏側を噛み締め、表情筋の反応を圧殺した。肩に入った力も抑え込んだ。今度こそ上手くいったと思った。
彫像のように固めた表情の内側で、名前は無残にひび割れた心臓がぺしゃんこになるのを無視して暗示のように考える。これ以上ここにいることはない。感情が凍り付いている間に、解凍してしまう前にここを立ち去ってしまわなければ。

「―――すみませんでした。失礼します」

頭を下げ、もう一度上げた名前はもう、市原の顔も木兎の顔も見なかった。ただ背中に突き刺さる無遠慮な視線にぶすぶすと穴を開けられながら、意地だけで伸ばした背筋と震えた脚で階段へ向かう。

直接何か言われたことはない。時折当てつけや嫌味を混ぜた言葉を送ってくる他の二年生の中に会って、一番自分に言いたいことがあるに違いなかった部長である市原は、同輩たちを止めることはなくとも自ら明白にきつい言葉を放ってきたことはなかった。

市原が本当は自分の相棒たる同輩を副部長にと望んでいたことを、名前は十分理解している。彼女が名前に強く当たることをがないのは一概に、名前を副主将に据えたのが他でもなく、彼女が尊敬する前部長を含めた三年の総意であったからだということも痛いほど。

名前は市原のことを先輩として尊敬し、慕ってもいた。副部長となった後こじれた関係に愕然としたこともある。それでも市原の立場になればその気持ちは容易に理解できた。薄い膜一枚越しに自分を拒絶しながら、それでも自分を副部長として扱うのも、決して冷たい言葉を吐くことなく黙々と自分に接するのも、彼女の優しさであり精一杯の譲歩だ。本当に我慢しているのはこの人なのだと、そうやって少しずつ増えてゆく傷を黙々と我慢してきた。

だからこそ彼女の言葉は刺さった。心臓の裏側まで貫通するほど深く深く。
彼女が本当は自分のことをどれほど疎ましく思っているのか、初めて水面の下の氷山を垣間見たと思った。

「…っ、」

短く切った髪で目元を隠して、精一杯俯いて階段を足早に降りる。喉の奥がぺしゃんこに握り潰されて声が出ない。目の縁が火傷しそうなほど熱い。

泣いてどうする。

心の底の膿んだ傷跡が熱をもってじくじくと痛んだ。目の前が霞むのが情けなくて腹立たしい。これ以上ないほど唇の内側を噛み締めれば、じわり、滲んだ血の味がした。

泣いたってどうにもならないのだ。

名前はしっかり深呼吸した。人気のない階段の踊り場で天井を見上げ、目の縁の重みを確かめる。冷えた滴は少しずつ乾き始めていた。そっと目を閉じる。重ねた睫の隙間にじんわり浸透してゆくのを確認して、繰り返す瞬きで水分を散らす。

堪え切った。名前はしっかり息を吸い、吐いて、一人で静かに確かめる。大丈夫、耐えれるうちは限界じゃない。





「あっ、おい!」

綺麗に頭を下げ、迷いのない足取りで踵を返した一年女子を呼び止める彼の声は、短い髪から覗く日焼けした項と共に、廊下の角に消えた。
突然の急展開に一瞬呆気にとられた木兎を盗み見、市原は気まずい思いをする一方少し安心してもいた。居合わせたのが単細胞だ何だと揶揄される木兎でよかった。一時は学年で噂になった水泳部の就任問題は今ようやく下火になってきていて、下手に勘の良い輩に詳細を知られるのは可能な限り避けたい事態なのだ。

だが彼女はこの木兎光太郎という人間に関する自分の認識が少々甘いことに気づいていなかった。確かに普段単細胞と揶揄されるのが木兎であるが、それでも彼は強豪男子バレー部の部長に選ばれた人間であり、当然それには相応の理由がある。

「市原お前さあ、わざわざ一年がここまで話に来たってのに、あんな言い方することなくない?」
「!」

どのタイミングで立ち去ろうかと考えていた市原を先制したのは木兎だった。もうすでに立ち去った名前の背中を探すように、木兎は廊下の向こう側を見やる。
淡々と連絡事項を報告する名前は一見落ち着き払い、的確に仕事をこなしているという様は彼自身が引き合いに出した後輩たる赤葦にも通じるように見える。しかし木兎はほとんど本能的に察知していた。彼女は赤葦とは違う。赤葦が生来のテンションと淡白な性格で物事にあたっているのに対して、名前の落ち着きは終始塗り固められたように人工的な其れだった。

「なんかずーっと居心地悪そうだったじゃん、あの子。すげー気ィ張ってるっつーか、気ィ遣ってるっつーか」
「…別に、いつもあんな感じだよ。愛想ない子なの」
「それにしたってカワイソーじゃね?まだ一年だろ?」
「……そもそも一年が副部長なんかするから無理が出るんじゃん」
「でも選ばれたんならやるしかねーじゃん」
「それはただ、」

三年が選んだから。口をついて出そうになったそれは事実であると同時に敗北宣言のように思え、市原は思わず口を噤む。木兎はその様子を黙って見ていたが、頭の後ろで腕を組むと、事もなげに言った。

「俺らはたとえ赤葦が二年でも『副主将』にしたと思うぜ。だってアイツが一番『テキニン』だって思うからな」
「それは、…それだけその子が優秀ってことでしょ」
「まーそれもあるけど、別に完璧ってわけでもねーよ。まだイチネンだしな」
「…だから、その一年が副部長するのって、どうなのさ」
「うん?」
「先輩たちと長く一緒にいたのは、私ら二年なのに」

押し殺したような声音が押し殺されていた不満を語る。キツイ練習をこなしてきたのも一緒に大会に出たのもずっと自分たちの方が長かった。一緒に部を引っ張ってゆこう。そうやって互いに言い合った仲間もいる。
それなのに尊敬してきた先輩が選んだのは、大した実力もなく入部まもない新入部員だった。無論部長ではなく副部長だが、それであっても十分―――そう、屈辱と呼ぶべき感情を呼び起こした。まるで自分たちは頼りなく、不出来で、部を率いる片翼を任せられないと言われたように感じた。

だが木兎は一貫しており、どこまでも痛いほど真っ向勝負だった。

「だから認めねーの?」

そんな理由で?という副音声が聞こえてきそうな口調の、遠慮も容赦もない不躾な問いに、市原はカッとして顔を上げた。
名前の異変に気づいていないわけではない。控えめだが良く笑い、自分にも懐いていた後輩の表情が少しずつ塗り固められたように硬くなってゆくことも、それが自分たち二年のせいであることも本当はわかっている。しかし頭で理解していても配慮を示す気にはなれないのが現状だった。遣り切れない不満が良心の呵責を握り潰しているのだ。
あんたに何が分かる。そう反駁してやろうとした彼女はしかし、次の言葉を思わず呑み込んだ。

湖面のように凪いだ琥珀の瞳が、瞬き一つせず彼女を見下ろしている。真夜中を見透かす猛禽の双眸。責めるでもない、ただ尋ねるだけの声音が、なぜか声帯を縛り上げる。


「副部長だろうが何だろうが、イチネンでコーハイだろ。
コーハイの面倒見るのがセンパイだって俺は教わったけど、お前んとこはちげぇの?」


現実として面倒を見られているのは木兎の方だが、バレー部員は、そして赤葦自身も薄々勘づいてる。木兎が『そんな』だから、赤葦が余計な気を遣うことも居心地の悪さを感じることも少ないのだ。
彼は赤葦に『副主将』をさせる点で群を抜いて長けている。それは事あるごとに赤葦に頼ったり絡んだりとさんざん迷惑をかけることも含まれるのだが、赤葦が彼の相手をするからこそ、彼は誰の眼から見ても『副主将』の役目をこなしていると映るのだ。

では木兎は赤葦にすべてを委ねているかと言われればそうでもない。持って生まれた身体能力だけではない、人を惹きつけ、ここぞという時に理屈抜きで部員をまとめ上げる天性のカリスマ性もまた、木兎が持ち合わせる才能の一つであり、部員たちに彼を部長に選ばせた大きな要因である。

それを木兎が意識しているかと言えば恐らく答えはノーだ。だが察しの良い赤葦は気づいている。彼が副主将としての面目を保っていられるのは、木兎の奔放な振る舞いと、それにさり気なく歩調を合わせるレギュラー陣の自然な気配りによる部分が多い。そしてなにより木兎自身が赤葦のことを後輩として可愛がっている、そのことが大きいとも。

「…っ」

市原は顔をゆがめ、何か言おうと口を開いたが、結局言葉を出すことなく唇を引き結んだ。
気に入らないのだ。副主将の任を言い渡されてから暫く経った頃から、名前はただ黙々となすべきことをなすようになった。二年の嫌味に言い返すはおろか、一年の同輩に探りを入れても愚痴や陰口をこぼしているという話も聞かない。黙々と仕事を覚え、黙々と部活をこなす。二年を頼ることは最小限で―――否、部員そのものを頼ることすら滅多にない。

「…生意気なのよ、」

その澄ましたような横顔が気に入らなかった。自分たちを頼りもせず、淡々と物事を行う様が。

「アレで生意気なら赤葦なんてどうなんだ」
「男バレは関係ないでしょ。自分で何でもできるみたいな顔してさ、」
「そりゃお前、部長のお前がそんなじゃ頼れねーじゃん」

市原の表情が凍り付いた。木兎はなんの悪意も他意もなく、深々と突き刺さる正論の刃を振り上げた。

「二年みんな名字のことを認めてないんだろ?そんな『センパイ』どうやって頼ればいいんだよ」

俺さっきもいったじゃん。コーハイの面倒みんのがセンパイだって。

「―――部外者に何がっ…!」
「あのさあ」

市原を遮ったのは木兎ではなかった。いつから話を聞いていたのか、辛辣に言い放ったのは近くの机に腰掛けていたバレー部のマネージャーだった。普段と同じへらっとした緩い笑みを浮かべているが、その瞳は随分と冷めた眼差しを市原香織に注いでいる。

「私、少なくとも香織よりあの子と付き合い長いんだけどさあ、名前をウチの赤葦みたいな冷めた性格だと思ったことは一回もないんだよね」

その口調に読み取れる軽蔑と冷笑に、市原の強張った表情に険しさが混じる。木兎は思わず半歩身を引いた。女の争いとはいつだって恐ろしいものなのだ。そして、そういえば水泳部の一年副部長は彼女の中学時代の後輩だったかと、記憶の断片を引っ張り出して思った。

「甘えさせてやんない、支えてやんない、じゃあもう一人で頑張るしかないじゃん。くだんない意地で『イチネン』の面倒も見れないような『センパイ』じゃ、そりゃ副部長なんか任せらんないよね」
「は、あ…っ!?なによ、そんなこと私っ…何も知らない部外者が知った口利かないでくれる!?」

「なんだ?喧嘩か?」
「香織…?なんかあったの?」
「木兎なにしたんだよお前ー」
「イヤ俺なんもしてねーし!!」

荒げた声が集めたくない注目を集める。先ほどまで彼女の後輩に集中していた皆の関心が一気に自分に向いたことに、市原は怯んで一歩引いた。その様子をマネの彼女は悠然としたまま冷やかに眺める。
三年の教室に足を運び、木兎の配慮のなさで注目を集めた時も、名前は一歩だって引かなかった。あの子のことだ、自分の肩書きを酷く真剣に受け止めていて、あまりに真剣過ぎて、雁字搦めになっているのだろう。虚勢ばかりの立ち姿は、しかしそれでも堂々としていた。

市原はマネを憎しみの籠もった瞳で睨みつけたが、これ以上周りの注目を集めるのは本意ではなかったのだろう。憤然と身を翻し立ち去ってゆくその後ろ姿を、木兎は黙って見送った。普段同級生とバカをして叱られる木兎光太郎の姿はそこにはない。彼が時折見せる何を考えているかわからない双眸は、燻る感情を持て余したポニーテールのクラスメートを静かに見据えていた。

「大人げないっていうか、センパイげないよね」
「お?」
「あんなので部長なんだから、二年に副部長任せてられるヤツがいないのもトーゼンだわ」

名前は肝が据わっている方でも特別タフな方でもない。ただ底抜けに真面目で真剣なだけだ。それだけが彼女をギリギリのところで保たせている。マネの彼女はかつての後輩を思い出し瞳の険しさを増した。
入って半年にも満たない後輩にそうまで負担を強いていながら、本来一番庇ってやるべき立場たる部長が夏を終えて久しい今もあの体たらくとは。吐き捨てたマネに、木兎は苦笑いした。いつもと立場は逆転している。

「まーまー、水泳部って三年が副部長決めたんだろ?二年からしたら複雑なんだろ」
「そうかもね。でもあの子に非は一切ない」
「…、」
「なのにあんな、それも一年の子に、まるで自分が悪いことしてるみたいな顔させて」

木兎は一瞬黙して鼻の下を擦った。普段から頼りっぱなしのテンションの低い後輩を思い出す。自分は彼に無理をさせてはいないだろうか。自分より落ち着きがあると皆が口をそろえて言う冷静な後輩の表情は、まだ少し読むのに苦労する。普段はなんら浮かぶことのないそんな疑問が、ふっと彼の胸を過った。

「…なー」
「何?」
「あかーしはさ、ダイジョーブなのかな。そういうの」
「…、今度聞いてみたら?」

マネは思わず険しさを緩め失笑した。この大型猛禽類はやはり本能だけで生きているようだ。誰より赤葦に世話を焼かせながらも、誰より赤葦の居場所を守る翼を広げているのは自分だということに、彼自身はなんら気づいていないらしい。そこがまた木兎らしいと思いながら、こんな先輩が名前にもいればどんなにいいかと、こんがりと日焼けした後輩の硬い横顔に思いを馳せた。

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近々専用ページの作成とシリーズ化を検討しております。
宜しければお付き合い下さいませ。