高校二度目の夏休みが明けた。

「名前ひっさしぶりー!全国三位だって?すごいじゃん!」
「うん、ありがとう」

教室に入るなり勢いよく背中をしばかれ、苦笑交じりに応答する。いっそ私よりずっと体育会系な対応だ。だが彼女が属する吹奏楽部もまた全国区と名高い強豪、体育会系にも遜色ないしごかれ方をしているのは知っている。

梟谷女子水泳部は今年のインターハイを全国三位で終えた。始業式の後半、ステージにて受け取った賞状とトロフィーは一旦顧問に託され、後に校長室前に飾られることになるという。

ステージに上がって賞状を受け取る部員の中には、市原先輩ら三年生、数名の一・二年、そして篠崎先輩の姿があった。先輩はいつも通りざんばらの茶髪でステージに上がると、実に遠慮なくかったるそうに校長から賞状を受け取っていた。

バタフライ200、圧巻の一位。冬の自己ベストを大幅に更新し、大会記録にすらコンマ数秒まで迫る記録を叩き出した先輩は、しかしメダルはおろか入賞自体、高校入学以来初なのだという。
泳ぎ切り、一番に壁を殴りつけ、乱れた息で肩を上下させながら、優勝を知らせる電子掲示板を振り仰いだ時すら、あの人は目に見えてわかる喜色というものを見せなかった。

LEDがかたどる数字を見上げる横顔に見えたのはむしろ、レース直前を彷彿させる抜身の刃のような鋭さ。歓声を上げる皆がどうして気付かなかったのか私にはわからない。ただ同時にふと思った。篠崎先輩にとって、水泳とは何なのだろう。

私が持つ先輩を語るための言葉は、この一年半と少しで随分増えた。
けれど私は多分、篠崎光琉という人の本質を未だほとんど掴めていないのだと思う。

「名前もインターハイ出たの?」
「いや、私は出てないよ。だから壇上あがるのちょっと気後れした」
「え、いいじゃんそんなの、部の功績なんだし」
「、…そうだね」

部の功績。至極当然と言った様子で告げられたそれはやはり、吹奏楽という団体競技(正確には「競技」とは言わないかもしれないが)に属するゆえだろうか。

人数の規定によると熾烈なレギュラー争いのある団体競技と違って、個人競技である水泳は比較的人数制限の壁を感じにくいかもしれない。種目と距離の組み合わせ次第でエントリーは多種多様、タイムを主とした条件さえクリアすれば複数の種目に出ることもできる。だが人数が決まっていないということは、実力がなければ補欠といった「おこぼれ」に預かることは皆無ということも意味する。

総合三位を出せる部であっても、私のような部員の一部は出場タイムを切ることすらままならない。梟谷は未だに個々の実力差が大きいチームだ。

そう考えると―――。
息するように開いてしまった意識が身体を離れ、スキット音が重なる体育館まで流れてゆく。蓋をする間もなく蘇ったステージを横切る凛と伸びた背筋と長身、それに反して眠たげな横顔が、一気に心臓をひっくり返した。

急沸する情景を振り払うように居直った身体が勢いあまって机を鳴らす。怪訝な顔を見せた友人が何かを言おうと口を開くのがわかった。だが構える間もなく背に刺さったのは、聞き間違えるはずのない声だった。

「よっす赤葦、入賞おめー!」
「さんきゅ。そっちもベスト8だっけ」
「お、知ってんの?」
「まあね」

近づく足音、同時に胸骨を殴るように脈打ち始める心臓。斜めひとつ前に位置する彼の席を見詰めたまま、私は身動きが取れなくなるのを感じた。
過剰反応だ。明らかに自分でわかるそれに、焦る以上に愕然とした。耳に馴染んだはずの落ち着いた声に、耳に届くのを好んだ声に、これでもかとかき乱される事実が、感覚を遠のかせる足以上に胸に刺さった。

「おはよう赤葦」

友人が気軽に投げかける。はっとして顔を上げたのはほとんど無理やりだった。自然に、友人に続いて、何でもない四文字を引っ張り出せばそれでいい。けれど音になる前のそれを封じ込んだのは、他でもない彼の声だった。

「おはよう」

ぱたん。
目の前で何かが閉じられる、そんな感覚と共に、ほとんど本能的に理解した。

―――――拒まれた。

「…名前?どうかした?」
「、ん?」

平気なふりは、上手になった。何でもない声を出すのも同じように。

「何でもないよ」
「そう?」
「うん」

ひたひたと忍び寄ってくる何かが形をとってしまう前に、感覚の薄い足元へと沈め込む。そうして掬い上げた心を、現実に落としてしまわないよう腕一杯に遠ざけた。

言葉を、反応を、自然に出来ない繕った平然もろとも、差し出す前に拒まれた。偶然じゃない、それは彼の意志だった。察し得たのは経験値以外の何物によるのでもない。表情をさして表に出さない彼が沈黙に乗せる色を読み解き、その感情を察する感覚は、私が自分で思う以上に鋭敏に育っていたのだ。
でも、それだけだ。

「なんでもない」

そうだ、なんともない。暗示のように確かめる。
耐えられるうちは限界じゃないことを、私はよく知っている。








「お、名字じゃん!おーい!」
「、木兎先輩」

駆けてきた自分を従順に待ち、きちんとした会釈と共に迎えた一つ下の少女に、木兎はよく通る声で「久しぶりだな!」と声をかけた。周囲から集まる視線にやや苦笑しつつ、決して嫌な顔をせず「お久しぶりです、こんにちは」と返すその礼儀正しさと、ひらがなを一つずつきちんと発音する名前の丁寧な挨拶は、同じく一つ下で副将を務める彼自身の後輩の姿を彷彿とさせる。

「名字って学食だっけ?」
「いえ、普段はお弁当なんですけど、今日は母が早出で」
「ハヤデ?」
「出勤時間が普段より30分早かったんです」
「ああ!それで弁当がないのか」
「はい」

頷く名前の手元を何気なく見下ろせば、そこには日に焼けた細腕と親子丼セットを乗せたトレー。つやつやと光を帯びる卵の黄色と、それを被ってごろりと転がる鶏肉を見詰めていた大きな瞳が、彼自身の手の中に握られた食券の文字に移った。つられて視線を向けた名前が見たのは、生姜焼き定食の文字。しばしの沈黙の後、木兎が呟いた。

「俺も親子丼にすればよかった…」
「エッ」

しゅん、とへなるミミズクヘッドと大きな背中を突如覆った哀愁に、名前はトレー両手に大慌てした。木兎がアップダウンの激しい気性だとは当然心得ているが、名前にとって木兎は常に明るく前向きな印象が強い。そのせいか、言うなれば煌々としたロウソクの火が今にも消えそうになるのを見てハラハラするようなものなのだろう。木兎が急に意気消沈するのに、名前はいつまで経っても慣れることが出来ないのだ。

「こ、交換!ちょっと交換しましょう、なんなら半分こでも」
「えっ、マジで?いいの!?」
「木兎さんがいいなら、」
「よっしゃー!じゃあ半分こしようぜ!」

ぱあっと顔を明るくした木兎は瞳を輝かせて提案する。前言撤回、確かに名前は己の後輩と同じで落ち着きがあり礼儀正しいが、これが赤葦だったら「明日食べればいいでしょう」の一言で終了だったに違いない。
大きく厚みのある手のひらで名前の頭を撫で繰り回しつつ、うんうん、と木兎は一人頷く。「私は少なめでいいですから」と付け加えられる申し出もまた有難い。
ちなみに彼の想像通り、ここの男バレがいれば口をそろえて甘やかし過ぎだの餌のやり過ぎだのとさんざん名前をたしなめたに違いない。

「待たせたな!」
「いえ」
「んじゃーいただ…」
「あ、お箸つける前に親子丼を…」
「あっそうか、そうだな。なんか皿ある?」
「お漬物のを空にすれば…」
「採用!」

めいめい空にした漬物の小皿に具をのせ、互いのトレーの隅に置く。交換が済んだところで今度こそ頂きますを重ねあわせ、二人は同時に箸を取った。三年と二年、男子と女子、体格にも食事量にも差はあるが、そこは両方お腹を空かせた昼時の体育会系。目の前の食事を胃袋に収める作業は真剣不可侵。傍から見ればいっそ他人同士が居合わせた絵面でしかない食事風景は無言そのものである。

しかし皿の三分の二を片づけ、空腹が良い具合に満たされてくると、木兎の意識は再び目前で親子丼を頬張る一つ下の水泳部員へ向けられた。申し出通りそこそこの量を木兎へ譲ったはずなのに、丼の減りは今一つだ。特別食欲が無さそうには見えないが、何度かファミレスに寄った時にはもっと気持ちのいい食べっぷりだった気がしなくもない。

ファミレス、と言えば。木兎はふと味噌汁を傾ける手を止める。最近名前を体育館で見かけない気がする。無論名前は水泳部のため体育館にいないことが普通なのだが、初めに白福が彼女を誘ったのをきっかけに、ここ最近は夏休みに入っても週に二、三度は体育館前で落ち合い一緒に帰っていたのに。
そういえば前に白福のラインに入った連絡じゃ、メニューの組み直しとか何とかで残るっつってたっけ。木兎は空になった味噌汁茶碗をトレーに戻し、そのまま名前をじっと見る。よくよく見れば少々疲れた顔に見えなくもない。一度そう思ってしまえばあとは直進のみたる木兎は、箸を握ったまま真っ直ぐ尋ねた。

「名字、最近忙しいの?」
「、え?」

実に唐突な問いかけに、名前は不意を打たれた顔をする。こちらも箸を握ったままぽかんとする名前を、しかし色素の薄い大きな瞳は臆することなく覗きこんだ。

「ここんとこお前こっち来ねーからさ。あ、引き継ぎで忙しいとか?」

たいていの部活動では夏の大会を最後に三年は引退する。春高を目指す男バレを始め一部例外はあるものの、水泳部は推薦組を除いた三年は基本的に引退したはずだ。推薦組も自主練でプール使用をする形で残っているにすぎず、部活動上は新体制がスタートしているだろう。となれば名前は赤葦より一足先に部長に就任した可能性が高い。そりゃあ忙しくもなるか―――思い当たる可能性にそう自己完結せんとした木兎はしかし、名前の様子に言葉を止めた。

言葉の上手くない木兎は、それをどんな顔と言っていいかすぐにはわからなかった。多分少し待って考えてもわからなかったと思う。
ただ彼は箸を止め、返す言葉なく佇む名前を見詰め、口の中に入れていた言葉の代わりに、思ったそのままを声にしていた。

「…赤葦となんかあった?」
「!」

どうしてそんなことを聞いたのか、木兎自身にもやっぱり説明はつかない。ただ何となく、そう、例えば迷子になった子どものような、名前のそんな顔を見たら、彼女と並ぶ二年副将の片割れたる彼の後輩が脳裏をふっと掠めたのだ。

チームメイトに言わせれば野生の勘。恐らくは木兎自身の与り知らぬ無意識下で機能する洞察力と推論が、思考のプロセスを辿らず弾き出した的確過ぎる結論。それは他の誰よりも真っ直ぐ、そして完全な不意打ちとして、名前の抱えた核心を貫いた。

「…あ…、」

完全に箸を止めた名前の口から、意味をなさない音が漏れる。じっと見詰めてくる大きな両眼に探る様な色や敵意はないが、底まで見透かしてしまいそうな猛禽の瞳が不思議と視線を縫い止めて離せない。

普段は待てが利かないくせして、こんな時ばかり言葉を強要せず返答を急かすこともしない木兎は、しんとした静けさを纏って名前の返事を待っている。

瞬き一つで壊れてしまいそうな瞳が揺れた。へらり、繕うように浮かべた笑みは強いた無理で明らかに軋んでいた。名前はぐっと狭めた気道から、押し出すように言葉を落とす。

「……上手く…話せなくなって」
「それって、赤葦と?」
「……」

垂れた頭は頷いたのか俯いたのか。つやつやした卵を被った白米は、まだ三分の一ほど残っている。
出来損なった笑みすら剥がれ落ちたに違いない顔を、垂らした髪の下に隠して黙り込んだ名前を、木兎もまた暫し黙ってじっと見詰めていた。それから生姜焼きの残りをかき込み、呑み込んで、茶碗を置く。

「俺、あんま詳しいことはわかんねーけど」

赤葦が名前を気に掛けているのは木兎もよく知っている。モテるわりに彼女も作らず女っ気の無い後輩が、唯一他に対する事務的な態度を崩し、引いた線の内側に入れる同い年の女の子。共に一年から副将を務め、部会だ何だで行動を共にしていれば尚更、お前らデキてんのか、とツッコむヤツが後を絶たないのも仕方ない。
だが赤葦はそのたびに決まって平温のテンションで、「名字とはそういうんじゃないんで」とすげなく否定してきた。ブレない冷静さとその言葉通り変わらぬ二人の距離感に疑念を挟む余地は無く、今ではあれやこれやの噂も下火になっている。

頭の良い赤葦の考えていることは正直木兎には想像できない。でもずっと同じコートで汗を流し、トスを貰い、スパイクに打ち変えてきた時間ならある。だから何となく、それが赤葦の本心で、赤葦が言うならそうなんだろう、とも思う。

ただ思うに、よしんば二人が「そういうんじゃない」としても。


「あかーしは名字のこと、すげぇ大事にしてると思うぞ」


基本的に感情を表にしない赤葦の瞳が名前を捉えるとき、ふっと柔らかく色を乗せることを木兎は知っている。大抵の誰に対してもそう出来る赤葦がふと一定の距離を測り損ね、無防備に近づいてはハッとしたように距離を取るような、柄に無く不器用な一面を見せることも。

同い年だから、副将同士だから。理由はきっと一つじゃない。
だが木兎に対してより遠慮ない物言いで接し、それでいて仲間に対してよりずっと繊細で慎重な扱うさまが、言葉よりずっと雄弁に語っている。

冷静で気が利いて頭もキレて、それでいて負けず嫌いで遠慮のない後輩が、他の誰との空気とも違う距離感で接する唯一無二。


恋愛でも友愛でもなくとも、それがどんな形であれ、赤葦にとって名前は特別だと、木兎は確かにそう思う。


「……、」

木兎を見詰めて揺れていた名前の目が、食べかけの丼へと落ちる。黙したままの両手が徐にそれを持ち上げた。箸を握り直し、生姜焼きと一緒に親子丼をかき込み始めた頬が、先ほどまでの行儀の良い食べ方とは似ても似つかない作法で一杯になる。

そうして丼から顔を上げ、胸に押し迫る全てを一緒くたに呑み込まんとするように、小さな子供が意地だけでそうするさまで懸命に咀嚼する後輩の頭を、一つ年上の顔をした木兎は何も言わず、ただ笑って手を伸ばし思い切りぐしゃぐしゃにしてやった。

161012