背負ったエナメルが異様に重く、踏み出す足が異常に軽い。

走らないのは無意識が張った意地だった。表情筋が言うことを聞かない。ざっくりと裂かれた心臓から、冷たい何かがあふれ出している。ふらつく足元に斑点を作らないことが不思議なほど、体の内側はしとどに濡れている。

気づかないように、名前をつけないように、氷柱の刺さった心臓を抱えて、惰性に頼って廊下を進む。
泣き叫ぶ足元の感情の意味を拾ってしまえば、何もかもが崩壊してしまうのは目に見えていた。




新体制移行後の初顔合わせを主な目的とした夏明け初回の部会は、いつもより15分早くお開きとなった。

全国区の強豪が連なる梟谷では今年も、冬の全国大会出場を目指し旧体制を維持する部は多かった。男女バスケ部、サッカー部、一部の引退組を除いた吹奏楽。夏の終わりに新体制に移行したうちとは違い、春高を控える男女バレー部も当然そこに名を挙げられていた。

会議中も机を片付ける合間も、顔を上げる教室に市原先輩の姿はなかった。主将と呼ばれて振り向かねばならないのが自分であることへの強烈な違和感は、夏終わりからずっと消えない。副将を引き継いだ同期が腰掛けた隣席から、並べた肩をぴりつかせるようなあの緊張感を感じることも最早なかった。

それでもこの場に足を踏み入れる都度、伸ばした背筋を緩められない条件反射と刷り込みはどれほどの時間をかけて薄れてゆくのだろう。
懐かしいと思うには生々しく、寂しいと思えるような心温まる経験とは程遠い。ただ漠然と拭えない違和感の中、口の中で転がした主将の二文字は異物のように馴染まなかった。

また一つ。心を過ぎったそんな呟きに驚いて、同時に胸を刺す痛みを飲み下そうとしたその時だった。

『今日、校門で白福さんたちが待ってるから』

逆さにした椅子を乗せた机の四足が音を立てて床を打つ。日焼けしていない腕には見覚えがあった。降ってきた声は会議中終始私など存在しないかのように、一切視線の合うことのなかった彼の声。

反射的に捻じった首と共に、そのまま上がろうとした視線をはっとして縫い止めた。捲られたシャツに突き刺した視線へ降る静かな声は、滴る雨粒にも似ていた。

唇を開いた。伸ばした手でその雫を受け止められるように。

そうして冷えた秋雨のような声は、氷柱に似た言葉で私を貫いた。


『俺は木兎さんの練習に付き合うから、安心して』







がちゃん。

開いたドアの先、部室はもぬけの殻だった。部活が始まって30分、すでにプールサイドに上がっている皆の声が天井越しに届く。背骨を軋ませるようなエナメルを足元に落としたら、ふわふわと覚束ない足の置き場がわからなくなった。

(…安心してって)
早く着替えなければ。急かされるようにエナメルに手を掛ける。

(それじゃあまるで私が君を避けているような)
今日のメニューは100のインターバル8本3セットと、50のダッシュを20本で。

(でもそれは私の態度のせいで)
ただもう水温がそんなに残ってないから、今日は早めに上がろうって先輩が。

(けどまるで、それが普通で、平気で当たり前みたいな態度)
ああけど、先輩はもう。


がちゃ。

再びドアの開く音が、息の詰まりそうな沈黙を切り断った。振り向いた先の逆光の中、動きを止めた傷んだ茶髪が輪郭を淡く透かしている。くたびれたエナメルを背負い、色素の薄い涼やかな瞳が、驚いたように私を見るのがわかった。

「珍しいじゃん、アンタが遅れ…ああ、そういや今日部会だっけ?」

ぞんざいに放られたエナメルが大きな音を立てて床を鳴らす。ほとんど同時にドアが閉まった。ゆるく結んだネクタイを解く仕草から目を離せない。なんでもない衣擦れが火傷するほど鼓膜を炙る。

「…なに、どうかした?」

ぱちり、視線が噛み合ったのが、どういうわけだか限界だった。

「…っ、」

膨張する痛みが心臓を圧迫し、詰まる言葉が喉を塞ぐ。まともな声一つ出せそうにない。畳まず丸めたシャツのようにぐしゃぐしゃのまま押し込んだ感情が、喉を焼くほど煮え立っている。

一年前と同じだ。唐突に思い出す。一年前の新学期、副将に任じられて少しの秋の初め。上で部誌を書き、着替えに下に降りてきて、ドアの前で立ち尽くした時と何も変わらない。


それでもあの時泣いたのは、彼の手に引かれる帰り道だったはずだ。

思い出したそれが心臓を食い破り、視界をゆがめる熱い滴が瞼の縁を乗り越えた。


「ちょっ、…は?ちょっと名字、」

頭上に降ってくる声はいつになく上擦っている。息が出来ずに口を空ければ吐き出すように嗚咽が漏れた。肩に触れる手つきは想像よりずっと繊細で、足元から崩れて座り込んだ。もう立っていられない。平気なふりがもうできない。

彼を拠り所として保たせ、彼の前だけで空っぽにしたことのあるそのすべてが、初めて彼以外の人の前で、腕の中から取り落とされてゆく。

「どうした、誰に言われた。何されたか言ってみな」

矢継ぎ早の質問が返答を要求する。静寂と共に言葉を待った木兎さんとは真逆の反応に、本当ならこの人の方が黙って言葉を待ちそうなのに、なんてどうでもいいことが頭を掠めた。


赤葦くんのことが好きだ。

言葉にすればあまりにも呆気ない答えだ。あまりにも当たり前すぎて、意識する必要など感じたこともない事実だった。

重ねた言葉も築いた信頼も分け合ってきた体温も、尊さを欠片にしたようにこの胸に降り積もっている。彼を好きでなかった瞬間など今に至るまで一瞬だってない。何の疑いなく言い切れるそこには彼を異性として意識する感情が間違いなくあって、けれど私にとってそれは、心に渦巻くすべてを篩にかけて最後に残る答えじゃない。

ただこの人と、ずっとこうやって、並んで歩くことが出来ればいいのに。

友愛であり、恋愛でもあって、それ以外の無数の何かでもある感情すべてを、一つ余さず抱え込んだ時、最後に残るのはそれだけだ。

永遠を約束されない毎日の片隅で、堪らなく胸を握りつぶし、泣きたくなるほど締め付けるその願いはきっと、そのすべての「好き」から出来上がっている。


感情に名前は必要なのだろうか。
なにもかもひっくるめて、ただ傍にいたいのだと言えるだけの幼さは、十七歳には許されないのだろうか。
今のまま、この距離で、全ての「好き」と上手に手を取り合って、歩いてゆくことは。


赤葦くんのことがすきだ。一緒にいたいと思う。

永遠の定義と不完全性を無視して、「ずっと」という言葉の曖昧さに甘えていいというのなら、許された幼さで考えられる限りの先までずっと。


ただそれだけなのに、どうしてこんなにうまくいかないんだろう。


「名字、」

行き場のない手が光琉先輩のシャツを握りしめる。縋るようなそれが肩を掴む先輩の手を揺らして、けれど引き離すようなことはされなかった。
先輩はそれ以上何も言わなかった。ただみっともなく泣き出した私が瞼を腫らして泣き止むまで、初めに想像していた通りの沈黙の内側で私の傍にいてくれた。



161105
また一つ。の後ろには、頼れるひとがいなくなった、が続きます。
先輩方もいつの間にかそういう存在になっていましたという…補足がなければ理解できない恐ろしく言葉の足りない描写……