肺が破れそうなほど痛い。
いつもは三分のインターバルを二分半で回した身体が、温度を下げたカルキの中で燃えるように火照っている。鈍い疲労を籠もらせた筋繊維が千々にちぎれて発熱する感覚。

吸い込む酸素を懸命に送り出す心臓が痛いほど脈打つのを感じながら、熱を持った体を水に浸して空を仰いだ。陽の傾いた夏空が、深めた蒼に終末の訪れを抱えている。急に押し寄せてくる感情を握り潰すほどの孤独を、唇を噛んでやり過ごした。

夏が終わる。もう秋になる。また泳げなくなる時期が来る。
そうしたら、この胸を刺す寂寞を、私はどこにもってゆけばいいんだろう。




「―――じゃあ、今日はここまでにしよう。ありがとうございました」
「「「ありがとうございました!」」」

濡れた身体に吹き付ける風にやや唇の色を薄くしながら、後輩たちがシャワー室に向かうのに続く。温水シャワー完備の更衣室がそろう私立校なのに、プールだけは屋内でなく屋外にあるのだから梟谷はよくわからない。

いつもより熱いシャワーを浴びて、ほかほかと暖まった体が冷めないうちにタオルを被った。少し遅れて更衣室に向かい、いつも通り隅っこのロッカーを陣取って手早く着替える。

監視室は閉めた。備品は足りていた。明日のメニューは昨日に仕上げて、ミスが無いかは確認済み。羽織ったジャージのジッパーを胸元まで引き上げて、そこで思い至って動きを止める。そういえば部誌、今日の当番誰だっけ。

「名字」

確認しに行かねば。思って顔を上げたそのタイミングで、降ってきたぶっきらぼうな声に肩が跳ねた。振り仰いだそこには、天井の蛍光灯を背に、生乾きの茶髪の下からこちらを見下ろす色味の乏しい瞳が二つ。

推薦組の自主練とするには重いはずの正規練習を全てこなしながら、練習前と大差ないかったるい気配を引っ提げた一つ上の先輩を前に、私は思わず言葉もなく身構えた。
みっともなく泣きっ面を晒した記憶で羞恥に焼かれる余裕もない。構図はきっと傍から見れば蛇に睨まれた蛙そのもの。
一体何を、問う間も与えず放り投げられたのは、有無を言わせぬぞんざいな命令だった。

「ちょっと面貸しな」
「は?」

言ったが最後、伸ばされた手が私の二の腕をむんずと掴む。遠慮なく引き上げられた上半身に引きずられ、踏み出した足はあっと言う間に部室の敷居を跨いでいた。一拍おいて「ちょっと篠崎!?」と市原先輩の慌てた声が追いかけてくる。白黒する目が現実を捉えるも言語能力がついてこない。

「先ぱ、どこに…荷物、部誌もまだ」
「んなもん後から取りに戻んな」
「いや、でもこれ今どこに」

言いかけてはっとする。断線した思考回路を稲妻のような直感が飛び越えた。掴み取った推測の可能性が本能的に足を竦ませる。
行く先に見える建物に強張る表情が確信を掴むのを自覚した。まさかこの人、全部知って。

「…先輩、これ、違いますよね。放しッ、」
「煩いね、黙って腹でも括ってろ」
「はあ!?」

無遠慮極まりない暴言に眼を剥くも憤慨する余裕は抱く間すらなかった。辿り着いた扉とその向こうから響く話し声に、言葉もろとも足が竦んだ。

「っちょ…!」

もう良い、もう十分だ、しばらく放っておくと決めたんだ。頭を冷やす時間が欲しい。平気になれる余裕が欲しい。それだけなのにどうしてわざわざ、ようやく閉めた蓋を引き剥がしに行かなきゃならないんだ。

鼓膜を刺す無機質な声と温度の無い瞳が蘇る。駄々を捏ねずにいられない感情と急沸する恐怖心が綯い交ぜになる。必死で逃れようと本格的に身をよじれば、腕に食い込む五本の指の容赦の無さに顔がゆがんだ。

「光琉先輩ってば!」

傍から見た絵面を気にする余裕もなく、必死で踏ん張った両足がずるずるとコンクリートを滑る。追いつく言葉も足りないまま上げた声は、ほとんど半べそをかいたみっともないものだった。

ちらり、振り向く瞳が呆れたように細められる。駄々を捏ねる子供を見下ろすのとなんら違いの無い、どうしようのないものを見る目。
逃げ場はない。思った案の定、そして私のよく知る通り、篠崎光琉という人に余計な容赦は一切なかった。

「往生際が悪い」

ばっさり言い捨て、日に焼けた手が体育館の扉に手をかける。拳一つ分まで隙間を広げた重い鉄の扉の間、捻じ込まれた足裏が力任せに引き戸を押し開けた。

足蹴にするが如きの乱暴かつ無礼な開扉へ集まった無数の視線にも怯まず、実に堂々仁王立ちになった先輩は、つんと顎を上げ体育館を一瞥する。

そうして右斜め向こう、当然ながら突然のことに硬直し、ボール片手にこちらを凝視する彼に向かって、実にふてぶてしく言い放った。


「おい男バレ、どうしてくれる」

お前のせいでうちの副将が使い物になんないんだけど?


傲岸不遜と呼ぶに相応しい態度と口調による告発に、先輩を除いた全員が凍り付いた。





「…は…?」

辛うじてその一言を出せただけ、俺の声帯は奮闘したと思う。

遠慮も慎みもまとめて踏みにじるが如き殴り込みと、推定20センチの身長差を無視してこちらを睨み下す心底面倒くさげな視線。
放り投げるような口調が語るところの意味を理解するより早く、フリーズした思考回路に行き着いたのはその斜め後ろで絶望的な顔でこちらを見る同級生の姿で、ひっつかまれた首根っこは明らかな強制拉致の過程を物語っていた。

「、ちょうど良い」

一体何に目を留めたのか、凍り付く皆をまるで気にせず篠崎さんが動き出す。まともな抵抗もままならず引き摺られるがままの名字とがっつり目が合った。…ここ数週間の溝を前に俺を映して気まずさに強張るどころか、いっそ助けを求めて縋るような眼差しを送ってくるあたり名字も相当錯乱しているらしい。いや、俺も正直何がどう、ちょっとついていけてないけれども。

とりあえず大層気まずい日々を遅らせてきた元凶たる身で何を言うかという話だが、落ち着いて考えろ名字、俺はどう考えても助けを求める相手じゃない。

「お…おい、篠崎なにを」

ようやく戻ってきた言葉を絞り出し、依然混乱極まれりといった表情で木葉さんが言う。しかし篠崎さんはずんずんと体育館を横切ると、体育館倉庫までたどり着き、開けっ放しだった扉の隙間から埃っぽいそこへ掴んでいた名字を押し込んだ。

さながら荷物を放り込むのと変わらぬ手つきと、一拍遅れて届いた鈍い音と蛙の潰れたような声に皆ぎょっとした。流石にそんな乱暴な、と一歩踏み出した俺に、しかし抗議の声を上げる間はなかった。踵を返し、つかつかと距離を詰めた篠崎さんが、次いでむんずと捕まえたのは紛うことなく俺の腕。

「!?」

この細腕のどこにそんな力があるのかと尋ねるべき剛腕だった。一、二歳の年の差など意味をなさない男女間の体格差をものともしない力の強さ。呆気に取られたが最後、なんの躊躇なく引きずられ、文字通り、敢えて二度言うが文字通りに、体育館倉庫に放り込まれた。

「ッ、と…!」

使い古しのマットに足を取られ、ぼふり、尻をついて倒れ込んだ隣には、似たような体勢で呆然と座り込み、戸口を見上げる名字の姿。
その視線を追うようにして見上げた先、体育館の照明を背に、逆光に浮かんだ半眼は、実にどうでもよさげに、しかし有無を言わせぬ威圧感を放ってこちらを睨み下している。

「十分だけ待ってやる」

降ってくる不遜かつ不穏な宣告。不愛想を極めた声が「ただし、」と付け加えた。


「―――あたしの可愛い後輩だ。傷モンにでもしたら二度とお日サン拝めないようにしてやっから覚悟しとけよ」


轟音を立てて閉まるドア、がちゃん、噛み合う鍵の音。

完膚なき一瞬の沈黙を経て、ドアの向こうが小爆発した。


「ちょっ待っ、…はあ!?篠崎お前、…っはあああ!?」
「おま、何しちゃってんのォ!?」
「監禁。」
「当然ヅラで言うことか!!」
「どんな荒療治だよ!10分てどこのムスカだよ!!」
「しかも傷モンって何、お日さま拝めないっていつの時代の脅し文句…?」
「つーかそんな言うなら思春期の少年少女を真っ暗なヒトトコロに押し込むなよ!!」
「そうよー赤葦だって猛禽なんだからねー、実はムッツリなんだからねー」
「誰がムッツリですか!!」
「あ、生きてた」
「名字ー!!大丈夫かー!!生きて帰れよー!!」
「この場における命の危機とは一体!?」

条件反射で叫び返した俺に劣らず勢いだけで名字が叫ぶ。身を起こして扉に手をかければ、はっとした名字もばたばたと立ち上がり戸の反対側に回った。目があった一瞬、頷き合う間も省いて左右反対へ扉を引っ張る。案の定開かぬ扉とがちゃがちゃ騒ぐ錠に舌打ちが漏れた。
倉庫の扉は中からじゃ開けられない。出口はこの一つきり。

「っ…ちょっと木兎さん、自主練するんじゃなかったんですか!?このままだと俺アンタにトス上げられませんけど!」
「エエッ!?それは困る!」
「ちょっと、トスで釣るなんて汚いわよ赤葦ー!」
「白福さんは黙っててください!」

よしこれだ。利かせた機転に微かな手ごたえを感じれば、すぐさま名字が援護射撃に出る。

「わ、私も木兎先輩のスパイク練久しぶりに見たいなー、残念だなー!」
「おおっ、そんなにか!」
「はいすっごく!」
「何あの子たち、二年副将コンビの息が合いすぎててヤバイ」
「赤葦はとにかく名字ちゃんまで木兎のツボを押さえてるとか何事」
「じゃあお前ら仲直り出来たんだな?」
「「は?」」

がちゃん。扉を揺らす手が止まる。ドア向こうの喧騒も一瞬鳴りを潜めた。その間隙を縫うというより割るように、木兎さんは何でもないような声で尋ねた。

「?あかーしも名字もちゃんと話し合ったんだろ?」
「…話すって、何の」
「なんかおかしかったろ、お前ら。まだ解決してねーの?」

返す言葉が続かない。背後の小窓から差し込む斜陽が足元の影を長く伸ばしている。沈黙は無言の肯定だ。
鉄の扉を一枚隔てた先、木兎さんがどんな顔をしているのかが、何故だか手に取るように想像できた。

「なら駄目だ。ちゃんと話してから見に来い」

あ、あかーしはトスな!

篠崎さんほど威圧的でないのに、彼女のそれよりずっと反論の余地を与えない要求に言葉を失う。反駁を思いつく間もなく響く、何の含みもない「じゃー自主練すんぞー!」という掛け声。
まるで何事もなかったかのようにコートへと遠ざかる明るい声を、ドア前の複数の気配が躊躇いがちながらも追いかけてゆく。

しんと舞い降りる沈黙が、本当に取り残されてしまったことを物語る。
敷き詰めるような静寂を破ってくれる人はもう誰もいない。

「……」
「…、」

扉から放した手がだらりと垂れ下がる。応じるように名字もまた、両手を扉の取っ手から放した。剥がし取るようなぎこちなさから目を逸らし、さきほど投げ出された古いマットに歩み寄る。突っ立っていても仕方ない、思って腰掛けるかと思うも、名字が動く気配はない。


振り向き見やった彼女に、がつん、頭を殴られた気がした。

戸口に立ち尽くしたままの彼女は、酷く途方に暮れた顔をして俺を見ていた。


見覚えがある顔だ。一年の夏の終わり、白福さんの背中に隠れるようにしてやってきた時と同じ顔。

酷く恐縮した様子でこちらを伺い見た彼女を、俺は右も左もわからぬ土地に放り出された子どものように思った。吹けば飛びそうに頼りないその女の子を、孤独の真ん中に放り出した彼女の先輩らに眉根を潜めることすらした。


愕然とする。

今彼女にその顔をさせているのが、他でもない俺本人であることに。


「―――ごめん」

絞り出すような声が出た。強張る声帯はちっとも話せそうにないのに、心が唇をこじ開けたみたいだった。
揺れる瞳がこちらを見詰める。困惑と不安を押し固めた双眸はそれでも身を切るほど澄んでいて、握り潰すほど胸が軋んだ。

知っていたはずなのに。
引いた手の小ささを、震える肩の薄さを、そこに圧し掛かる重圧を、前だけをひたむきに見詰めていることの息苦しさと難しさを。平気なふりが上手くなっただけの彼女の痛いほどの脆さは、ぞんざいに扱っていいものなんかじゃなかったのに。

これまでの自分なら思い上がりも甚だしいと一笑に付すような考えが、自惚れでもなんでもなく切実な事実であったことを思い知る。
名字にとって俺は、少なくとも同じ立場にいる者として、文字通りの唯一無二だったのだ。

預けられたのは透き通るほど無垢な絶対的信頼だった。迎え入れたのは気高くも脆いガラスの様な心だった。
彼女が俺に許した心は、俺の気まぐれなんかで、決して軽々しく投げ出していいものなんかじゃなかったのに。

「名字、ごめん」

引き寄せた腕の細さに心臓が咽ぶ。一声一声出す度に喉が裂かれる思いがした。いきなりキスしたことじゃない。そういう感情を彼女に対して抱いたことじゃない。謝りたいのは、謝るべきはそこじゃない。


「ひとりにして、ごめん」


押し固まった瞳が揺れた。溶け出した透明は雫となって、斜陽の届かぬ薄闇の中、散逸する光を集めて見る間に小さな宇宙となる。

彼女が預けた信頼を、俺の勝手で放り出してしまったことを。いつかの名字の先輩たちが名字にそうしたように、頼れる人の誰もいない孤独の縁に突き落としてしまったことを、心の底から謝りたい。

回した腕が余るほどの背中の薄さに息が詰まった。軋む手を伸ばして抱きしめた小さな体は、拒絶じゃない何かのために震えていた。

「わたしも、ごめん」

小さな子どもが必死で耐えるように、嗚咽を噛み殺した涙声が絞り出すように音にする。途端、堰を切ったように泣きだした小さな手が、俺の練習着の裾を縋るように握りしめた。

謝られて気が付いた。彼女が謝りたいと思った理由はきっと、俺が抱いたのと同じ理由だ。

「…うん、」

ひとりは寂しかった。
誰のものとも重ね合えない孤独に似た何か分け合える唯一無二。その喪失に胸を軋ませたのは、きっと俺も同じだった。

へへ、と名字が小さく笑う。腕の中で震える涙声が、けれどもう胸を刺すような寂寥と苦しさにゆがんではいないことがちゃんと伝わってくる。
痛いほど締め付けられていた心臓がゆっくりほどけるのを感じながら、俺はその小さな頭を手のひらでそっと撫でた。

170107