HRの終了を告げるチャイムが鳴る。すぐさま席を立ち、机の上に最低限残していた筆箱とスケジュール帳、机の横に掛けた弁当鞄をエナメルの端っこに押し込んだ。そうしてさっと顔を上げれば斜め前、すでに背負ったエナメルの肩越しに、振り向きざまにこちらを確認する彼と目が合う。

切れ長の瞳の落ち着いた眼差しがいつもと同じ温度で合図をよこす。応じて短く肯けば、彼は先立って教室の出入り口へ向かい始めた。ジッパーを閉め、一足先で廊下へ出る彼を追おうと鞄を背負う。すると不意に、横で同じく帰り支度をしていた友人が、私をじっと見つめて言った。

「仲直り出来たんだ?」
「へ?」
「名前と赤葦」

思わぬ問いかけに瞬き二つ、言葉なく彼女を見返す私に、友人は可笑しそうに笑った。見てりゃわかるわよ、赤葦はともかくアンタはわかりやすいんだから。少々聞き捨てならない失礼さに返事より先に苦笑が漏れた。でも気分は悪くない。

「うん、もう平気」

晴れやかに頷けば友人はまたもじっと私を見詰め、それからなぜか少しだけ呆れたように笑う。きっと心配をかけたんだろう。ちゃんとお礼を言いたいが、部会まではあと10分、廊下には彼が待っている。また明日の一言を残し、クラスメートの波をすり抜け教室を出れば、スマホを確認していたらしい赤葦くんが顔を上げる。

「ごめん、お待たせ」
「いや。行こうか」
「うん」

並んだ距離が歩幅を合わせる。自然と伸びた背筋が視線を前へ持ち上げた。会話は無い。気まずいとは思わなかった。
ただこうして、無条件で肩を並べて歩けること、その途方もない尊さを今一度じっと噛み締める。

頭上でふっと吐息だけで笑う声がする。見上げて確認するまでもなく、自分の何がしかを笑われたことはすぐにわかって、並べた肘で隣を突いた。

「ごめんって」

落とされた声のあまりの優しさに口を噤む。黙り込んでしまうのは、そういう笑いじゃないよ、なんて諭された気がして反省したからだ。かと思えば今度こそ可笑しくて堪らないといった様子で喉を鳴らして笑うから、この人も大概イイ性格をしていると思う。







「花火の時」
「、…」
「驚かせて、…嫌な思いもさせたなら、ごめん」

閉ざされた倉庫のわずかな光源となっていた夕陽が、ゆっくりと力を失ってゆく。明度を落とした視界の中、言葉を喉に詰めたまま、私は頷くも首を振ることも出来なかった。

驚いたのは間違いない。では「嫌な思い」にはなっただろうか。そうじゃない。あれはきっと、上手く言葉にはならないけれど、そういう類のものじゃなかった。
言葉が気持ちに追いつかない。沈黙が誤解を招くのを恐れて開いた唇は、けれど音を出す前に遮られた。

「けど、その場のノリとか、そういうのでやったんじゃないから」
「!」

身じろいだ身体の衣擦れが鼓膜を静寂に爪を立てる。わずかな間が空いた。見上げた顔はきっと呆けた間抜け顔に違いなかった。けれど包むような薄闇の中、視界に収めた薄墨色の涼やかな瞳に張り詰めた何かを見て取った時、息を呑むより早く心臓が震えるのを感じた。

同じくらい顔を引き締める。言葉に出来なかったすべてを込めてしっかりと頷いた。それでもそれが会話を締めくくる結論でないことは、互いに痛いほど理解していた。

言葉の形をとることを躊躇う切迫はまだ解けない。そこに少女漫画の様な甘酸っぱさはない。それよりずっと、ずっと切実で真剣な何かのために私たちはじっと身構えていた。

赤葦くんが息を吸う。私は息を止めて次を待った。切り断つほどの躊躇が肌を刺す。思うことはきっと同じだ。ただそれを、どんな言葉にかたどればいいのか、きっと互いに迷っている。

「…ただ、」
「…いまは」

引き継ぐように、重ねるように、確かめるように音にする。彼が息を呑むのが聞こえた。次はこちらが息を吸う。

「まだ…」
「…うん」

このままで。


「このままで、いようか」


留め置き、そっと仕舞い、優しく蓋をするように。

静かに彼が口にした結びの言葉が心で溶ける。その美しい瞳に歓喜と安堵の淡い煌めきが散るのが見えて。

その瞬間、ゆっくりと温度を上げて膨張していた緊張は、心臓を突き破るように熱い飛沫となって弾け飛んだ。


持て余していた感情の答えをほどけるように理解する。あれは「嫌な思い」でもショックでも、ましてや照れですらなかった。そんな感情にとらわれる余裕すらなく、塗り潰すほどに駆られたのはどうにもしがたい恐れだった。

この何物にも代えがたい距離が、築き上げてきた無二の関係が、瞬く間に突き崩されることが、彼と二度と同じ歩幅で渡り合えなくなることが、何よりそれがただひたすらに、私にとっては不安だった。

変化するすべてを拒みたいわけじゃない。けれど今この瞬間、いまこの手のひらいっぱいに握りしめた尊さを手放せるほど、私は大人になっていないし、なりたいとも思えない。
芽吹いたばかりの未完成な感情がいたずらに揺さぶる激震と、二の足を踏む本心にもおかまいなしな急速な変化に、きっと私はまだついてゆけない。

目指すものも果たすべき責任も見つめる目標も山ほどある。いつだって持てる限り腕一杯抱えたくて、一度抱えたものは一つ残らず抱えていたい。誰かと手と手を取り合って歩むためにその片腕を空けるような余裕はどこにもない。

――――それでも隣にいて欲しい。

散らかった心を逆さまにして音が鳴るほどぶちまけて、ようやく残ったのはそんな酷い我儘だった。
叶うわけがないと愕然とした。向き合う意気地も応える度胸もないくせに、このまま隣を歩いてくれと、今まで通りの無二でいてくれと望む自分のあまりの幼さと、その見込みの薄さにいっそ絶望した。


けれど彼は、それでいいと言ってくれる。
このままでいいと、言葉を尽くして伝えてくれる。


これを奇跡と呼ばないならば、私が奇跡と呼べるものはどこを探してもきっと無いだろう。


「いつになるかまだわからないけど」
「うん」
「お互いいろいろ落ち着いて、余裕が出来たら」
「…うん」
「そのとき、ちゃんと話そう」
「…それで、」
「ん?」
「それで、いい?」

情けなくよれた声で聞く。望むがままに与えられたものに半分頭が追いつかず、息継ぎの仕方もわからない。感情の波に呑まれそうになりながら、彼の優しさにすぐ甘えようとする甘ったれの自分を叱咤した。
それで彼は、赤葦くんは構わないのか。私の我儘に付き合わせてばかりではないのか。赤葦くんが望むところが私と本当に同じなのか、その瞳が湛えた喜びと安堵が本物かどうか、何一つ確証など存在しないのに。

鼻を啜り、嗚咽を千切って、そんなごたごたを何とか単語にして並べる。
触れた胸から心地いい振動と、短い笑い声が降ってきた。

「俺だって、名字が思ってるほど、器用でも余裕があるわけでもないよ」

だからあの時、早まったなって。きっと名字のことだから、ものすごく悩むだろうなって。

「これでも反省したんだよ」
「…うん、ごめん」
「なんで名字が謝るの」
「避けた、」
「ああ…でも元はと言えば俺が悪いし」
「嫌じゃ」
「ん?」
「嫌じゃ、なかったんだけど」

ただびっくりして、受け止めきれなかった。このままでいられなくなるのが、君の隣に居るのが好きで、だから余計に怖かったんだ。

そんな臆病な本音で良ければ、笑って許して聞いてほしい。

「いいよ」

でも、ただ。
優しい肯定が落ちた後、彼の声がふと小さくなる。続かない言葉を怪訝に思って顔を上げた。きっとこんなに近くで見たことなんて一度もない、その彼の整った顔にふと影が落ちる。

それが彼がその長身を私の方へ屈めたからで、もっと言えば私の前髪をかき分ける手のひらのせいだと気づいた時には、露わにされた額に落ちた柔らかな感触が、微かな音を残して去っていくところだった。

「結構我慢してたのはホントだから、たまにはこんな風に触りたい」

背中に回った腕が強まる。額から流れた大きな手が、髪を掬って耳元に触れた。

追いつかない理解、真っ白に飛ぶ思考。もうずいぶんさっきから感じていたはずの彼の温度と匂いが突如波となって押し寄せてくる錯覚。

いつもと変わらぬ涼しい表情を斜めに背け、合わない眼差しを向こうに投げる彼の目元の紅、鼓膜を揺らしてリフレインする言葉の意味に息が詰まる。
そうして何が起きたか理解した瞬間、言葉にならない悲鳴が漏れた。


卒倒する。それかこのまま絶命する。
是も否もなく確信したその瞬間、しかし真っ白に吹っ飛んだ思考に冷水を浴びせたのは唐突に鳴り響く重厚な金属音だった。

ガチャン。ガチャガチャガチャ。

ぎょっとしてぐるり、首を捻じり、二人そろって見詰めたのは施錠されていたはずの両開きの鉄製の扉。
ガタガタ揺れるその錠が外されようとしていることを理解するのにコンマ01秒。

突然の事態に凍り付く私の耳に届いたのは、聞き慣れた声のかつてない凶悪な声だった。

「―――おい男バレ、傷モンにしたらお日サン拝ませないっつたよな?」
「「エッまじか」」

もはや空気もロマンもない。思わずシンクロしたのも仕方ないと言いたい。

「ちょおお!?篠崎お前今度は何してんの!?」
「煩い木葉、アンタ等ンとこの副将の手が早いのが悪い。さっさと鍵寄越しな!」
「自分で閉めておきながらまさかの横暴…!」
「エッてことは赤葦手ェ出したの!?マジで!!?」
「キャーかおりー!今日はおにぎり赤飯にしないとー!」
「出してませんよ!!そろって馬鹿言わないで下さい!!」
「そうですよ光琉センパイ無傷です!!私無傷ですから!!」
「いや名字ちゃん多分キズってそういう意味じゃない、バトル的な意味じゃない」

ガラァン、開け放たれたドアから差し込む光量に目が眩む。思わず二人で手をかざすも、戸口で騒ぎ立てる個性豊かなな先輩方は呆れるほどいつもと同じで、私たちを引き摺り出す腕は押し込んだ時と同じくらい横暴だった。

先輩方に絡まれる赤葦くんに思い切りメンチを切る篠崎先輩に呆然とし、しかし徐々にそれを通り越して笑いが込み上げてくる。おい名字何された、泣かされたんじゃないだろうね、なんて不機嫌全開で詰め寄る先輩に噴き出した。この人、この人なんていうか、意外と私、アレなんだなあ。


きっと騒ぎを聞きつけたのだろう、体育館入口の方から闇路先生の声がする。自主練そっちのけで騒ぎ立つバレー部員が監督からのお小言を貰うまでに残された時間を、私は赤葦くんと共にもみくちゃにされながらただ笑っていた。真っ赤になったままだった頬が、笑い過ぎのせいだと誤魔化せていたらいいと思う。









「アッいたいたストップ名字ちゃん!!」
「ふぁい?」

とっさに飛び出した我ながら間抜けな返答に一年生たちがこっちをふり向くのを感じ、一瞬赤面しそうになった。
ラストメニュー・50メートルダッシュ8本セットに根こそぎ奪われた体力を回復すべく咥えたばかりだったのは、帰りのおやつにと購買で調達していた二本満足バー(ちなみにぐんぐんヨーグルとのコラボテイスト)。噛み砕くシリアルバーをもごもごしながら振り向けば、聞き慣れた中学からの先輩が勢いよく突進してくる。あ、コレ早いとこ呑み込まないとタックルされて喉詰めるヤツ、

「ちょっとどういうことなのよ!正直に言ってご覧なさい!」
「ごふっ」

寸でのところで間に合わなかった。なんてこった。むんずと掴まれた肩を高速がくがくされ、呑み込みかけたチョコ掛けシリアルがリバースの危機を迎える。エッ待って私まだ社会的に死にたくない。
思った途端、雪絵先輩の片腕を掴んで止める大きな手。

「ちょっと白福さん、名字を殺す気ですか」

主に社会的に。
付け加えつつ同じ手のひらが私を雪絵先輩からやんわりと引き離す。げっそりする間もなく噎せていれば、横からペットボトルのお茶を差し出された。有難く頂戴してシリアルを流し込む。大きく息をついてボトル返せば、やや疲れた表情の赤葦くんが同情の眼差しを送ってきた。

なるほどこれは彼自身ここに来るまでにさんざん質問攻めに遭ったと見える。それもそのはず、ひと悶着を乗り越えたのは金曜日の放課後で、体育館倉庫から出たあの後は結局、闇路監督の登場でバレー部の自主練は統率された追加練習と化した(木兎さんは嬉しそうだった)。
翌日の土曜は各々部活の時間帯が違うし、日曜に関しては水泳部はオフ。つまり私に対する事情聴取は本日月曜を待たねば出来ないという計算になるが、対して赤葦くんはこの金曜の帰りからこの土日、今日の部活終了まで質問攻めにされたに違いない。

「なんか、いろいろごめんね…」
「いや、名字のせいじゃないから」
「ほらそういう!それで付き合ってないとか絶対嘘でしょ!!」
「「は?」」

異議あり!なんてテロップが見えそうな勢いで指を差され、これは何事かと目を瞬かせる。横で赤葦くんが「人に向かって指差さないで下さいよ」と冷静に突っ込んでいるのが私でもわかるほどシュールだった。欲しい説明はそこじゃない。
しかし何故か木葉さんや小見さんたちまで「あー今の茶は確かになあ…」なんて頷いている横で、雪絵先輩をどうどうと宥めた雀田先輩と目が合った。へらり、人の良い笑みに困惑を乗せた先輩は、言葉を選ぶように私に聞いた。

「ごめんねぇ煩くて。みんなホラ…あーうんつまり、」
「名字、あかーしと付き合ってんのか?」

唐突に割り込んできたのは木兎さんだった。ぐるり、大きなふたつの眸が皆を押しのけるようにして真っ直ぐに私を捕まえる。隣に佇む赤葦くんに向けられることなく、私だけを凝視する澄んだ瞳に、私はほぼ反射の短さで応じていた。

「いいえ」

ぱちぱち。木兎さんの色素の薄い睫が二度ばかり上下する。同時にぴしり、バレー部一同が凍り付く音がした。予想は出来ていた反応ながら内心ちょっと気後れする。やっぱり普通じゃないらしい。

だが木兎さんは何も言わず、深い琥珀の瞳でじっと私を見詰めていた。底まで透き通るほど淡い色合いとアンバランスに釣り合った、引き込まれるほど強い眼差しが、物言わぬまま私を測り出している。

視線を切れない一瞬。数拍の沈黙を経て、ふっと瞳の強さを緩めた木兎さんの顔に、いつもと同じまっさらな笑顔が浮かぶ。そのまま降ってきた大きな手に、生乾きの頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜられた。

「そうか!」
「っおわ…!」
「わかんねーけどまあ良かったな!」
「はあ!?どこが良いってのよ!」
「エエ?だってなんか、」

そっちのがコイツ等らしいじゃん!

「!」

私の頭程度なら鷲掴みにしてしまえるほど大きく厚い手のひらが離れてゆく。明度を取り戻す視界に垂れる前髪の下、雪絵先輩たちとやいやい言い合う木兎さんの背中を思わずぽかんと見詰めてしまった。

代わりに落ちてきた別の手のひらの、木兎さんと同じくらい大きくて、けれどそれよりずっと繊細な指先が、乱れた髪を撫でるようにして軽く整えてくれる。

「野生の勘ってすごいよね」
「……うん」

呆れたように笑う目元が、けれど仄かに嬉しそうなのがわかってしまう。大きな背中だ。皆につつかれ同意を得られず、ふくれっ面になっている木兎さんのああいうところを、私もすごく好きだと思う。

結局最後まで納得はしてもらえなかったが、そもそも誰かの承認や理解が必要な話でもない。当事者同士で解決したならそれでいいだろうと、騒ぎの沈静化を図ってくれたのは意外や意外にも篠崎先輩だった。

とは言えその理由は、校門前を占拠して騒いでいたバレー部一同にA級首謀者として捕捉され帰宅妨害を受けたため、そしてその口上は「奇形リア充に首突っ込んでる暇があんならオベンキョーしな受験生ども」という全方位へ失礼を極めた相変わらずの篠崎節だったが。アレはもはや沈静化というより急速冷凍からの粉砕に近かった(的確に図星を抉られた受験生たる三年生はこぞって顔を引きつらせていた)。
ちなみに奇形は認めるがリア充ではないと異議を唱えれば無表情で顔面をプレスされた。握力フルのアイアンクローだった。解せない。

校門を出発し歩き出してからもなんやかんやで騒がしい面々の背中を眺めながらしんがりをつとめて歩いていれば、ふとちらり、赤葦くんが私の手元に目を落とす。そういえば食べかけだったと思い出したぐんぐんバーを、もしよければと彼にも差し出した。

何を言うもなく長い指が摘まんだそれは私が持つよりずっと小さく見えて、けれど大きく齧って咀嚼する彼の頬袋は存外に大きい。あ、美味い。全くの無表情のまま呟いた彼にそうだろうそうだろうと頷いた。そうして私もまた食べかけだった自分のそれを頬張れば、ふとこちらを見ていた雀田先輩がきゅっと細めた眼で意味ありげに言う。

「ふぅーん?」
「何ですか」
「べっつにィ?ただ付き合ってないって言う割には随分お似合いだなぁと思って?」
「まあ、そうじゃないと困りますから」
「……。!?」

さらり。言われた言葉の意味を呑むのに約二秒、ぎょっとして見上げた彼はちょうどシリアルバーを食べきったところ。

骨ばった親指が薄く開いた唇をなぞり、溶けたチョコを拭い取る。その無造作でいてやたらと艶のある仕草と共にちらり、降ってきた涼し気な視線が滲ませるは、してやったりの悪戯さ。

見開いた瞳で私と赤葦くんを凝視した雀田さんが声を取り戻すまで、果たしてあと何秒残っているだろう。思うも束の間、案の定起こった再爆発に天を仰いだ私に対し、実にしれっとした様子の彼は「美味いけどちょっと甘いな」なんて平然とペットボトルに口をつけている。

そうだ、この人には存外こういうところがあるのだ。そして私も、彼のそういうところが存外とても好きだと思うから仕様がない。
やいのやいのと再び突っつかれるのを二人して躱していれば、並んだ手の甲が軽く触れた。きっと互いに気づいていて、けれど敢えて離れることはしなかった。


私は見ての通り不器用で、彼は器用に見えて万能ではなくて、きっとどちらも心の底から、出来るなら限りなく前だけを向いていたい。
そもそも私たちは初めから、手を取り合って進むような、転んだ相手に駆け寄って助け起こすような関係になったことは一度だってないのだ。

でも声は聞こえる。足掻いてもがいて座り込み、誰の共感も届かない閉塞にあっても、言葉を、温度を確かめ合える唯一無二。手探りでゆく道の数歩隣、確かにそこに彼が居ることを知っている。


それでいい。今はそのままでいいとふたりで頷き合えたそれは、幼くて拙くて、それでも今の私たちに出せるベストの答えだ。

この人が隣に居てくれる、それだけでどこまでだって歩いてゆけると信じて疑わず、こんなにも幸福でいられるのなら、私たちにはそれ以上きっと何も必要ないのだ。



170302

「天狼星のアルペジオ」これにて完結と相成ります。
およそ二年となります本当に長い間お付き合い頂き、心より御礼申し上げます。