※二年五月頃



「…これさ、なんかお膳立てされた感じがしなくもないよね」
「…まあでも、純粋に50メートル走の結果で選抜だったし」

ざわざわり、初夏の気配を背負った太陽がさんさんと照る校庭を揺らすざわめき。本日ラストの大一番、チーム対抗リレーの開始まで、残り十分を切ったところか。

梟谷に秋にやるような体育大会は存在しない。その代わりに毎年初夏、球技大会という名目で総合運動会とも言うべきイベントが開催される。
バレー、バスケ、ドッジボールに始まり、何故か玉入れをしてみたり綱引きをやってみたりと意外となんでもありなこの大会で順位が決められるのは、種目ごと、そしてそれを総合した学年ごとのクラス順位には留まらない。各学年の1組から3組をAチーム、4組から6組をBチームといったように学年混合でのチーム順位も発表されるため、その盛り上がりは一般的な運動会にも劣らないのである。

そして今年の大一番と言うべきメインイベントが、これから始まるクラス対抗リレーであり、

「おー副将コンビ頑張れよ!」
「名前ー、赤葦くんファイト―!」

そして我らが6組のアンカー男女に選ばれたのが、何の運命の悪戯か、私と赤葦くんの二人だったのである。

待機場所へ届くクラスメートの応援に手を振る。隣の私が対応すれば聞こえないふりをするわけにもいかないのだろう、ひらり、手を挙げるだけで応じた赤葦くんに、隣の一年生の女の子たちも巻き込んで控えめながら黄色い歓声が湧く。

ひょいと見やった涼やかな横顔、日焼けしていない白い額に滲む汗が意外とよく似合っている。だが傍から見ればただの無表情でしかないそこにでかでかと書いてある面倒臭いの四文字に、私は思わず苦笑した。

彼は周りの人が思っているよりいろいろと面倒くさがりだ。世話焼きで面倒見が良いのは嘘じゃないが、彼に言わせればそれは元来細かいことが気になりやすい性格なのと、後々面倒の芽を摘み取っておくための事前対応に過ぎないのだという。だから必要ないと思っているものに対してはびっくりするほど無関心だったりして、その振れ幅マックスの無頓着にはたまに仰天させられるのだ。男子と女子という根本的な違いからして関心のベクトルがそもそも違うのだろうが、つくづく面白いというか、底が見えない人だよなあと思う。

「名字、50メートル何秒?」
「なんだろ、7.4くらいだったかな」
「へえ、すごいな。陸上でもいけるんじゃない」
「…それ部活でも言われるよ、冬練のが成績いいねって」

なんならシャトルランは毎年学年10位から落ちたことないよ。
あ、しかも長距離向きなんだ。

いつかの外周後のイザコザを思い出しげんなりして言えば、幾ばくの沈黙が落ちる。ふっと落ちた影に顔を上げれば、無表情を薄めた彼が僅かに首を落とし、下げた目線からこちらをじっと見ていた。

「…気を悪くしたならごめん」
「え?ああ、いや全然。悪気がないのはわかってるよ。赤葦くんは何秒?」
「…、7秒切るか切らないくらいかな」
「うわ、それこそ陸上でも行けたレベルだな。アンカーなの納得した」
「それ言ったら名字も女子じゃ最後だろ」

ぐっと伸びをする彼は相変わらず背が高い。アンニュイな瞳がすっと前を向く。相も変わらず造形の整った横顔だと思う。でもそれ以上に、彼がこうして遠くを見据えるときの、透明の眼差しが空を駆けるその瞬間が好きだ。

引率の教師に促され、各々順に列に並ぶ。不意に少し前に並んだ女の子たちの会話が耳に引っかかった。

「うわ、第一走荒れそうじゃない?」
「え、なんで?…ああ、藤川さん?」
「そう、ほら、佐竹の」
「小林さんキッツいもんね…」

聞き覚えのある名前に耳が反応する。藤川さんとは我らが6組の第一走者ではなかろうか。
怪訝に思うも位置に着くようとの教師の指令で会話は途切れてしまった。潜めた声のやり取りの意味はわからず仕舞いとなるも、何やら不穏な空気だけは感じ取れた。その真相を理解したのは、ピストルが鳴った後だった。

じわじわと距離が開くもどのチームも互角の混戦、しかしそんな第一走の均衡は、レース終盤最後のカーブで突如として崩された。トラックの内側から無理やり割り込むように走ってきた三組の走者が、第二位で走っていた藤川さんを転ばせたのだ。

「あっ…!」

観衆がどよめき、控えていた六組のメンバーが思わず立ち上がる。傍から見れば不慮の接触にしか見えないであろう疾走中からの思わぬ転倒、受け身を取る間もなく派手に転んだ藤川さんをみるみる後ろの走者が追い抜かしてゆく。

素知らぬ顔で駆け抜けバトンパスを決めた三組の女子が、転んだ藤川さんを振り向いた。見られていないと思ったのだろう、隠されもしない冷たい表情と隠された嘲り。
頭がすっと冷える。思い出した、上の名前は確か小林。

「六組の藤川だっけ、確か佐竹の彼女だよな?」
「そ、佐竹が小林フッた後の」
「あーそういう因縁?今カノと元カノ的な」
「うわえげつねー、女こえー…」

体操服を砂で汚し、膝を擦りむいた藤川さんが、バトンを握りしめ立ち上がる。顔をゆがめて最後の数メートルを走り出した彼女の、片足を庇うような仕草は膝の擦り傷のせいじゃない。ピンときたのは私だけではなかった。隣にいた赤葦くんが呟く。

「…足首を、」

私は彼女を見詰めたまま頷いた。苦痛に顔をゆがめ、それでもバトンを渡しきった彼女は崩れ落ちるように座り込んだ。保健委員が駆け寄り藤川さんを脇へ連れ出す。すでに色を変えつつある足首を庇う彼女が、歯を食いしばるようにしてチームのメンバーへ頭を下げた。

「ごめん、順位が…っ」

気にしないで、そうだぞ大丈夫だ。声をかける皆から少し離れていた赤葦くんが、すっと顔を上げて背後を見据える。その視線を追いかければ、目の合った数名の女子がそそくさと目を逸らした。

私も赤葦くんも互いに目を合わせることはしなかった。ただ揃って念入りにアキレス腱を伸ばし、足首を柔らかくする。注視するレースは終盤、第二走者は最下位から一人抜かしたところ。第三走者は私だ。
沸々と湧き上がる感情のまま呟いた。

「絶対抜かす」
「突き放す」

間髪入れず返されたドライながらマジな声に、この人もなかなか熱い人だと唇を吊り上げる。なに、伊達に走れる水泳部と呼ばれる身ではない。一矢報いてみせようじゃないか。

順位を四位まで上げてくれた二走の男子からバトンを受け、私は力いっぱい地面を蹴る。前の走者の背中を捉える。じりじり縮まる距離。競り勝てる。確信のままスピードを上げ、トラックぎりぎりを走る三組走者を外側から抜かし去った。わっと盛り上がるクラスの声。抜かした女子からちらりと受けた悔し気な視線は眼中から締め出し、脇目も振らず駆け抜ける。

開けられた差はそれほどない。前にはまだ二人いる。さっき彼女が転んだ場所を通り過ぎ、助走を始めた赤葦くんの手の中へ握りしめたバトンを叩き入れた。

最終決戦の結末ごと託したバトンの先、しっかり握られる感覚が伝わってきた次の瞬間には、彼は前だけ向いて走り出していた。一位を走る四組のアンカーはサッカー部だが、こちらも陸上並みに足が速いと有名だ。これは分が悪いのではないか―――そんな全体の何となくの予感はしかし、見る間に縮まる距離感にすがすがしいまでに裏切られる。

再びどよめく観衆、歓呼の声を上げる六組。速い。予想以上のその速度にタイムを聞いていた私も目を見張った。涼しい顔して走る彼の長いストライドは、あっと言う間に二走を抜き、先頭走者を追い詰める。
確実に削れる距離、並び、そしてついに追い抜かす。そうして切られるゴールテープと鳴り響くピストルの発射音。

「うおおおすげえ!!」
「赤葦がやりよった!!」
「まじかよアイツ無双かよ…!?」

聞こえた驚愕の声にもうなずける圧巻の逆転劇。やや息を乱した彼の元に歓喜するチームメイトが集まった。しかし彼はその出迎えを遮って、手当てを受けていた藤川さんと、彼女についていた私の元へ真っ直ぐやってくる。呼吸を整えながら出された一言は藤川さんへ向けられていた。

「立てる?」

開口一番唐突な問いに戸惑う彼女へ、私はとりあえず手を差し出し、体重を預かって共に立ち上がる。赤葦くんが私を見た。物言わぬ視線に首をかしげるも、その彼が藤川さんの手首をとったところで、その意図するところを息するように理解する。そうして彼女の反対側の手を取れば、彼はついっと唇を吊り上げた。私は彼女をしっかり支え、そのまませーので彼女の両手を振り上げる。

皆へと見せた万歳のポーズに、会場が拍手に包まれた。正直言えばヒーローは赤葦くんだけで、私は一人抜かした程度なのだが、一際熱い歓声をくれるクラスメイトたちに悪い気はしない。

思わぬ拍手の嵐に真っ赤になった顔でお礼を言う藤川さんを今度こそ保健委員に託し、順位票を受け取って得点係へ渡しに行く。

「名字」

興奮冷めやらぬ仲間の声を縫って慌ただしく呼ばれ、次の種目へ向かおうとしていた赤葦くんがすれ違いざま握った拳を持ち上げた。流れるように拳を作り、ごちん、勢い任せにぶつけあう。
予想以上の痛みで拳を抱えれば、ついっと唇端を吊り上げた彼がしてやったりのイイ顔をして言った。

「ナイスラン」
「そっちこそ」

アンカー様のおかげです。茶化して言えば「まあね」なんてさらっと肯定の返事が返ってくる。これがただのクラスメート相手なら、たまたまだとかなんとかと適当に流すところ、聞きようによっては不遜にもなるあっさりした返事に笑ってしまった。

何をしてもソツなくこなす彼が下す自己評価は、基本的に冷静かつ適正だ。自分に対し自信過剰とは程遠いが、過度に低く見積もることもない。だがそれを事実そのまま生来のテンションで淡々と口にする時、それを調子に乗ってるだのと嫌味にとらえる僻み屋が一定数存在することを彼は知っている。

だから安い褒め言葉に対して彼は頷かない。例え自分の功績が賞賛されるものであると至極客観的に理解していたとしても、それに同意することなく当たり障りない言葉で躱すだけだ。

赤葦くんは多分、自分を真っ直ぐ、良い点も悪い点も包み隠さず評価してくれる人がどんな人たちか、どこにいるかを知っている。
その評価に妬みはなく、同時に余計な贔屓もない。徹底した実力主義、チームに必要な戦力を見極めるいっそ冷徹な客観性と、絶妙なバランスをもって共存する同志への尊敬と信頼の絆。

その人たちの前ではきっと、彼は自分の強みに惜しみなく自信を持ち、自分の落ち度を憚りなく認め、混じりっ気なしの賞賛を素直に送り、また受け取ることが出来る。

それがわかるから、こうしてしてやったりの笑みを向けられる時、私もその枠の隅っこに加えてもらえているのかもしれないなんて勝手に思ってしまう。
必ず思い出すのはその枠の中心、赤葦くんの絶大な信頼を、きっと何の打算なく生来の真っ直ぐさで勝ち取ったに違いない偉大なる代表格。


「ヘイヘイヘーイそこの二人ィ!!お前らイケメンか!!」

「「うわっ」」

がばり、思ったそのタイミングで突如背後から思い切りかけられた体重につんのめった。首に回された逞しい腕と組まれる肩の厚みに仰天する。なんとか持ちこたえた私が言葉を取り戻すより早く、向こう側から赤葦くんの非難が飛んだ。

「ちょっ…と、木兎さん!俺はいいとして名字にまで体重かけないで下さいよ!足でも痛めたらどうすんスか!」
「アッ!スマン名字!ダイジョブか!」
「っす…心臓以外ヘイキっす…」

いやビビった、ナチュラルに心臓一瞬止まった。眉間に皺を入れて怒る赤葦くんに木兎さんがしょんぼりと肩を落としている。うーん、やっぱ訂正する。絶大な信頼に嘘は無いにしろ、多分それは基本コート上に限った話かもしれない。
ともあれ私全然大丈夫なんで心配しないでくださいと急いで声をかければ、底辺まで落ちる前に持ち直してくれた。赤葦くんが真顔で頷きGJのアイコンタクトを送ってくれる。しょぼくれモード回避、大事。

「ていうか三年がここ来てていいんすか」
「まだ始まってねーんだからいいだろ!」
「いやもう点呼始まるんで」
「あかーしがつれない!」
「おいそこのうるせえ猛禽!!ハウス!!」
「ごめんねフクシュショーくーん、すぐ捕獲するからー」
「森にお帰り!いい子だから!」
「ドーブツ扱いしないで下さい!!」
「こんなテンションの高いオームは嫌です」
「赤葦ヒドイ!!」

約一名風の谷の人がいた気がしなくもないが、それにがっつりノリにいける赤葦くんの方に私は吹いた。あかーしたまにはノッて来て!と日々ご不満な木兎さんだが、多分木兎さんが気づいてないだけで、赤葦くんは結構な頻度でさらっと悪ノリしてるんじゃないかと思う。

けどまあ、やっぱこの人には勝てないよなあ。
しみじみ思って呟けば、「名字が勝つ必要のある分野なんかないだろ」と理解できない様子の赤葦くんが間を置かずして返してくる。いやね、別に筋力とかスタミナじゃなくてだね、いやもう黙っておくけれど。


170322