※インターハイ後(このあたりと同時系列)



「あっ…名字先輩!」

咄嗟に上げた声はしかし、打ち上げの四文字に盛り上がる部員のざわめきに呑み込まれる。それと同じくしてドアの向こうに消える背中に、一ノ瀬由香は言葉なく肩を落とした。

また出遅れた。皆の輪から存在感を消しひっそり抜け出るのが異常に上手い副将を、一年の彼女が完全に引き止めに成功したことは未だない。
それに続くように、しかし追いかける様子ではなく出てゆくのは三年の篠崎光琉。名前以上に近づき難い一匹狼然とした上級生は、しかし基本的に落ち着いた副将が唯一砕けた様子で慕う人物だ。

一ノ瀬は一度、名前にそのわけを尋ねたことがある。昔なじみか何かなのか。遠回しに入れた探りはしかし、「いや、高校からだよ」の一言でやんわり弾かれた。以来聞いたことはない。

「由香?由香も行くでしょ?」
「え、あ…うん」

嫌われている、とは思わない。名前は多分そういうタイプじゃない。ただあの透明の壁――頭を過ぎる無関心の三文字を振り払った――が、一ノ瀬を無性に寂しくさせる。
それは出来たばかりのショッピングモールに皆で行ったその日にも、一ノ瀬が終始感じずにはいられなかった疎外感だ。

ぞろぞろと部室を後にする。あ、ねえ名前は?え、もう帰ったんじゃない?
そうとも、誰にも気づかれないまま、先輩は出て行ったんだ。何でもないように話す二年の会話に、一ノ瀬は唇をひん曲げる。その時気づいた。先に出て行ったはずの傷んだ茶髪が、体育館から出てくる。―――あれは確か男バレの。

「…ごめん、先行ってて!すぐ追いかける!」
「えっ、ちょ、由香?」

ほとんど本能的にあそこだと思った。転がるように駆けてゆく一ノ瀬を、皆が驚いた様子で見送る。大会後で乳酸が溜まった重いふくらはぎを叱咤しながら、一ノ瀬は体育館前に辿り着く。そこで彼女と鉢合わせたのは、丁度出てきたところの篠崎だった。
思わず立ち止まる二つ下の後輩に一瞬驚いた顔をした篠崎は、しかしすぐに何かを察知して薄く笑う。

「名字?」
「えっ、…はい」
「ふうん」

品定めするような視線に遠慮は無い。その人を食ったような笑みに一ノ瀬はじりっと後退る。しかし篠崎は思いの外あっさり道を譲った。

「行きたきゃ行けば?長居は出来ないだろうけどね」

さっさと興味を失ったように言われ、一ノ瀬は少し面食らった。長居は出来ない。否、そもそも自分はそんなつもりはなく、ただ―――…。

しかし彼女は篠崎の意味深な台詞の意味を、すぐに目の当たりにすることとなる。

「赤葦ー、先カバン持ってくから名字ちゃんよろしくねー!」
「落とすなよあかーし!」
「落としませんよ、木兎さんじゃあるまいし…」

ぱたぱたとエナメルを肩に走り出てゆく可愛らしい先輩に次いで、すらりと背の高い男子生徒がゆっくりと体育館から出てくる。背中へ飛んできた明るい声に呆れたように返す落ち着いた声と佇まいに、一ノ瀬は先ほどとは違う緊張で身を固くした。

ややクセのある黒髪と同じ色をした切れ長の瞳、日に焼けていない白晢の肌。均整の取れた体躯と同時に凛然とした佇まいは、造形の整った顔立ちを理知的に引き立てている。
普段であればあるいは、その涼しげに整った容姿に見惚れていたかもしれない。しかし一ノ瀬の目はその青年の長い腕、そこに収まる見慣れたジャージの塊に釘づけとなっていた。

「えっ…」

同じ白地でも差し色の違う青年のジャージに身を預け、うずもれるようにして抱えられているのは、見紛えようなく名字名前その人。
ぶらりと垂れた細い脚、脱力した身体に意志は感じられず、青年の肩口にもたげた髪の下、閉ざされた睫はぴくりとも動かない。

まさか具合が。さっと顔色を変えて一歩踏み出した一ノ瀬の考えと彼女の所属に、すぐに察するものがあったのだろう、青年―――彼女は知らないが、その名を赤葦京治は、軽く見開いていた瞳から驚きを消すと、一ノ瀬を制するように言った。

「大丈夫、疲れて寝てるだけだと思うから」
「!」

淡々とした声に先手を打たれ、一ノ瀬ははっとして赤葦を見上げる。促されるまますぐし下にある名前の顔を覗き込めば、静かに寝息を立てる様には疲れこそ滲んでいるものの、確かに辛苦の色は伺えなかった。
ほ、と安堵が胸を掠める。同時に込み上げてきたのは形容しがたい感情だった。

抱きかかえられてもそのまま運ばれても、すぐそばで会話がなされても、名前は目覚める様子を見せない。代わりに色濃くにじませる疲労の色は、帰りのバスの車内やミーティングの席ではほとんど見えていなかったものだ。

その副将が、なぜか水泳部とは無関係の第二体育館で、水泳部員ではない男子生徒の腕にうずもれるようにして眠っている。

「…あの、」
「?」
「私、誰か…先輩呼んできます。家まで送れる人、」
「いや、いいよ。このまま少し寝かせてやりたいし」
「それなら、」
「女子マネもいるし、俺一人じゃないから心配しないで」

淀みなく重ねられた付け加えが食い下がろうとした一ノ瀬の言葉を封じる。咄嗟に言葉を詰まらせた彼女が交渉を拒まれたと理解したのは、赤葦が踵を返し彼女の前を横切って行った後だった。




「もしかして水泳部?」
「!」

引き止める言葉もなく棒立ちになる一ノ瀬の肩を揺らした声は、赤葦が現れたのと同じ方向から飛んできた。はたと振り向く彼女を見ていたのは、これまた長身の、そしてやはり先輩に違いない糸目の青年。

切れ長の瞳と色素の薄い髪色に一ノ瀬が思い出したのは、つい先ほど鉢合わせた冷めた眼差しの上級生。だが篠崎よりは間違いなく愛想も面倒見も良い彼、木葉秋紀は、ちらり、部室に消えようとしていた後輩の背中を捉え、おおよその事態を把握したようだった。そうして取り残された一年女子へ、同情を含んだ苦笑を向ける。

「こっぴどくフられたってところか」
「フらっ…!?ちが、私は名字先輩を…!」
「うん、だからその名字ちゃんに」
「、」

至極当然のように言われた意味を一ノ瀬は一瞬掴み損ねた。混乱を隠せぬ一ノ瀬に、木葉は少々意地悪だったかと肩をすくめる。

水泳部内での内部分裂にまるで関与していない木葉には、水泳部員を敵視するべき個人的理由は無い。加えて見たところ相手は一年、ひっそり場を抜けてきたに違いない二年副将をたった一人で追いかけたらしいあたり、純粋に名前を心配してやってきたのは間違いないのだろう。

「まあ、取って食うわけでもねぇし、うちの副将に任しておけば?」
「!」

うちの副将。一ノ瀬が顔を跳ね上げたのはその言葉だった。そして稲妻のように思い至る。強豪揃いの梟谷にあって異例の二年副将は名前一人ではない。その片割れがどこに所属しているか、男バレの尾長を友人にもつ一ノ瀬は知っている。

じゃあ、さっきの人が。
目を丸くして自分を見つめ、それからガバッと部室棟の方を見た一年女子に、「なんだ知らなかったのか」と木葉は噴き出した。赤葦は見目の良さもあって外部でも結構有名なのだが、この少女にとってはアウトオブ眼中だったらしい。

「あそこはなァ、なんつーの。運命共同体っていうかね」

一緒に帰るときは自然と並び、それぞれ別の相手と話していても隣どうしで道を行く。部会に現れるときは大抵ワンセットで、ファミレスに寄るときも何を言うでもなく隣に座る。
言葉もない、照れもない、揶揄おうものなら二人して何のことだと首を傾げる。はっきり指摘されたところで、そういえばそうですね、なんて一言で片づけて、めいめい食事や会話に戻ってゆく。あのふたりにとって「横に並ぶ」ことは、もはや呼吸と等しい決定事項なのだ。

名前の隣は赤葦が占めており、赤葦の隣は名前が占めている。それ以外に席はないし、共に必要ともしていない。その場所は互いのためだけのものだ。
それがどれだけ特異で、実のところ酷く目を引くものであるか、当人たちに自覚があるかは別として。

木葉も他の三年もそれを、すなわち赤葦の隣を男バレ以外の存在が占めることを寂しいとは思わない。赤葦が名前には晒すことのできる本音を自分たちが聞くことはないかもしれないが、逆に自分達が支えてやれる赤葦の何かを名前が代わりに支えることもできない。ゆだねられる荷は各々違う。それが普通だ。

「それでいいんじゃねぇの?」

棒立ちになったまま木葉の言葉を聞いていた一ノ瀬の視線が、すでに誰もいない道の先を見詰めた。残像を追いかけるように黙り込む彼女の横顔は、今しがた受けた言葉と心に積もるもろもろを、懸命に擦り合わせているようだった。

名前とそれ以外の部員における、目に見える断絶と見事なまで一方通行。そうさせたのは彼女の先輩と同輩らで、彼女に直接の責任はない。けれど内部問題以後に入部したこの一つ下のいたいけな後輩にも、咎めるべき罪はないのだ。

チームメイトからはひょろいだの華奢だのと言われる、しかし一年女子にとっては十分の大きさをした手が、一ノ瀬の頭をぽすりと撫でた。

「名字はアレでニブチンだからな」

冷静有能な副将の仮面が出来過ぎているのも考えものだ。きっと名前は部員の前じゃ実質以上に無関心かつ薄情に映っているのだろう。
実のところ素直で無邪気で結構に抜けたところのあるたった一つ上の少女であることが、しかるべき人間相手にはそろそろ露見しても良い頃だと思う。

「突っついてでも振り向かせてやれよ」

大きな手の下、驚いたような瞳が振り返り、まじまじと木葉を見上げる。何をされたか理解してさっと朱を昇らせた頬はしかし、背中を押された瞳に決意新たな光を浮かべた。そうして引き締まった素直な面持ちが、至極真面目に「頑張ります」と頷く。

ああこの顔。それを見た木葉は思わず噴き出した。そして思う。この健気な一年の想いが一方通行でなくなる日は、心配するほどそう遠いものではないかもしれない。

なんせそっくりなのだ。こちらを見上げて馬鹿正直に頷く様も、笑いを堪えられない自分にきょとり、心底不思議そうにする顔も、気も利き察しも良い割りに、時折底抜けに鈍感なあの女子水泳部副部長に。


170413
オールラウンダー木葉さんはみんなのお兄さんと信じて疑いません。