「でもさ、正直未だにわかんないよね。確かに名前ちゃんって真面目だけど…それ以外にコレっていう理由が見えてこないっていうか」
「ですよねー。柊さんほど実力あればまあわからなくもないって感じだけど、特別タイムが良いわけでもないですし」

いつもと同じように練習をこなし、いつもと同じように片づけを済ませて、いつもならもう少し残って自主練するところを、山のように出された数学の課題を片づけるために今日は帰ることにした。プールのカギを返して、荷物を持ち、さあ帰ろうと校門につま先を向けた時、弁当箱と肝心の数学のワークが入った手提げをロッカーに置き忘れてきたことに気がついた。
思えばそれがフラグだったんだろう。

「香織も水城を副部長にして欲しいって美波さんに頼んだっていうし」
「聞いた聞いた。でも美波さん、副部長は名前にするって一点張りだったんだよね。前部長が言うとやっぱひっくり返せないっていうか」
「でも理由も言わないんでしょ?あーもう意味わかんない」
「ホントですよねー。確かに名字さんも副部長なってから練習かなり頑張ってるけど、それくらいじゃないですか?」
「美波さんたちもちゃんと説明してほしいよね。うちら二年のメンツ丸潰れっていうか」
「あーこの前男子に言われたそれ。お前ら一年に負けてんの?って。ちっげーし!」
「ほんとソレ!仕事だってほとんど香織がしてるしさあ、実質何の役にも立ってないじゃん」

心臓は私に愛想を尽かしたらしい。以前には内側から突き破り鼓膜を殴るような音を立てて脈打っていた心臓は、今は薄っぺらの胸の下で死んだような沈黙を守っている。ただ頭からすっと引いてゆく血の気が頭蓋骨の内側の気圧を下げ、脳みそを静かに締め付けていた。

同じ部活動に所属しているのだ。いずれこういう場面に出くわす時は必ず来ると出来る限りの覚悟はしていた。けれど実際そんなことになったらきっと、私は見る間に落ち着きを失い、心臓は勝手に走り出して、手も足も感覚を遠のかせて震えだすんじゃないかとずっと思っていた。
だからそれに遭遇した現状、私はむしろ予想を裏切る自分の反応に頭の隅っこで驚いていた。存外普通だ。部室のドア一枚越しに届く声に、そりゃそうだと頷く自分がいた。

「香織先輩もよく我慢してますよねー。あたしだったら絶対耐えらんない!」
「部の空気も悪くなったよね。もうずっとギクシャクしてて疲れるってゆーか」
「名前もなんか近づきにくいしさ…あんなんじゃ先輩たち余計やりづらいですよね?だって全然歩み寄りがないっていうか」
「そーそれめっちゃ思ってた!」

汚れたローファーのつま先を見つめて、私は静かに呼吸を繰り返した。数学の課題は、明日朝早く来てやればいい。もう帰ろう。そう思うのに、どういうわけか足は動かない。市原先輩の教室に行った時に似ている。でも今はなぜか逃げ出す気にならなかった。むしろ吐き出される全部を聞いてしまわなければいけないような、そんな気さえして、
その直後、死んでいたはずの心臓が息を吹き返した。

「名字」

聞き覚えのある声だった。落ち着いた、耳によく馴染む凪いだ低音。感情を読み取るのが難しい淡々としたその声は、さして大きいわけではないのに凛としてよく響き、私の思考のみならず、ドア一枚越しに溢れていた談笑をぴたりと止めた。
はっとして右を見る。朽葉と黒がよく映える白いジャージ、柔らかそうな黒髪。漆黒というには少し淡い黒の瞳は、読めない光を秘めて私を見据えていた。

「何してるの」

急に、感情すべてを呑み尽すような、恐ろしいほどの現実感に襲われた。

さっきまでの無気力が脚を生やして逃げ出したようだ。時間を巻き戻せたらどんなによかっただろう。否、どうしてもっと早くに立ち去ってしまわなかったんだ。
ドアの向こうの空気が凍り付いているのが嫌でもわかる。それよりなにより、静かに注がれる彼の視線にどうしようもなく逃げたくなった。
親しいわけじゃない、よく話すわけでもない、けれど踏み出す勇気をくれた人だ。背中を追いかけたいと思い、肩を並べたいとも思った人だった。その赤葦くんに、一番見られたくない惨めな姿を、一番聞かれたくない評判を聞かれた。

ドアの向こうで衣擦れの音がする。言葉としての輪郭が朧げな囁きが今になって心を串刺しにした。「…名前?」恐る恐るといったようすでドア越しに名前を呼ばれた瞬間、数歩先に立っていた赤葦くんが動いた。

「行こう」

手首を取られる。足がついて行かなかった。慣性の法則でつんのめった私を、しかし赤葦くんは躊躇いなく引いてゆく。今どっちの足を出して歩いているかもわからないまま、私は振り返ることのない猫っ毛の後頭部をただ呆然と見上げていた。
手首が温かい。突然帰ってきた感覚神経が、ようやく心臓の痛みを叫び始める。降って沸いたように視界が滲んだ。

「…っ、」

なんで。どうして。私はただ。
形にならない感情の蓋が外れて一気に溢れだす。もう一歩だって歩くのが辛いほど、心臓は泣き喚いている。目の奥が熱い。滲む涙を力任せに拭った。

声にならない声が漏れて、赤葦くんが足を止めた。くるり、直角に回ったシューズのつま先が、彼がこちらをふり向いたことを告げる。成す術もないままみっともなく泣く私を見下ろす彼の視線から逃げて、私は制服の腕を目元に押し付けた。

「――――わたし、は」

私だって先輩に話をしに行った。私じゃなくて水城先輩を副部長にするよう頼んだ。二年生の顔に泥を塗るつもりも塗りたくもなかった。歩み寄ろうとだってした。でもそれが一層先輩たちの気分を悪くするなら、認めてもらえるまで黙って頑張るしかないと思った。だから練習も部誌もメニューを組むのも必死でこなして考えて、それで、だけど。
向けられる目の白さに、耳が拾う囁きに傷ついてこなかったわけじゃない。

「好きで、っ」

喉の奥で暴れる言葉が喉を塞いで息が出来ない。ずっと封をして無いものとしてきた本音が、それを言ってはお終いだと思っていた言葉が、喉を裂き口をこじ開け溢れだした。


「好きで、副部長になんか、っなったんじゃない…!」


言ってしまった。それでも胸は一杯のままで、少しも軽くならなかった。

不意に腕を掴まれ、やんわりとした力で目元から離された。抵抗しようとした私に、ようやく彼が言う。さしてよく知らないはずの彼の、人より感情の色が薄い声が、その時だけは鮮やかに色づいて鼓膜を撫でた。


「知ってる」


息を呑む。顔を上げた。薄墨色の瞳は、静かに私を見つめていた。

押し殺すようでいて、傷口をそっと塞ぐような声だ。無感動に見えて、痛みを抱えた瞳だ。そこにあるのは憐れみでも同情でもない。そんなものじゃない。

このひとは理解している。理解しているのだ。

思ったら視界が熱く滲んでゆがんで、もう何も見えなくなった。


「…赤くなるから、擦らない方がいい」

私の頭のてっぺんに言葉を落とし、彼は私の腕を解放する。中途半端に浮いたままの腕をどうしていいかわからないうちに、赤葦くんは再び歩き出した。

どうしようもなく何かに縋りたい自分に突き動かされて、彼のジャージの袖に指をかけた。一瞬歩みを鈍らせた赤葦くんは、けれど今度は立ち止まることなく、ただ少しだけ手をずらして、私の手により近い手首の部分を握り直した。

私が握りやすいようにしてくれたのだ。少し近くなった袖口が苦しくて苦しくて、涙腺が壊れたように涙が止まらなくて、殺し損ねた嗚咽は情けない泣き声に変わった。
精一杯歯を食いしばって、指いっぱいに彼のジャージを握る以外に、私にできることはなかった。






皺になるほどジャージを握って歩きながら、それでも言いつけを守ることが出来ず、私は彼が校門を出て帰り道を尋ねるその時まで、てのひらも指も全部使って涙を拭い続けた。横断歩道の信号待ちで、見かねて私の手を再び拘束した彼は、今度はためらいなく私を覗きこみ、はっきりわかる表情で言った。

「だからやめろって言ったのに」
「…」
「真っ赤になってる」
「…もうしないよ」
「本当に?」
「うん、しない」

とがめるような表情と声音を前に、私は小さな子どもがするように項垂れた。信号が青に変わる。きっと酷い顔をしているに違いない私を見つめたまま、赤葦くんは暫く動かずにいた。
引かれていた右手首と違い、左手は指を束にするように包まれている。もうしないよ、と言い訳するように加えると、彼はようやく左手を解放し、右手首は握ったまま歩き出した。

泣くだけ泣いて晴れた視界で、彼の背中を見つめて思った。大きな背中だ。木兎先輩の方が厚みも上背もあったが、彼だって十二分に背が高く、女の私に比べれば言うまでもなくずっと逞しい。
家に着くころには心が凪いでいた。明日からのことを思うと重くなる気持ちも、それでも沈み込むとまではいかなかった。むしろ何の根拠もない勇気が芽吹き、日の目を見るのを待っているような気さえする。

「うち、ここなんだ」
「、そう」

小さく呟き足を止めたら、手と手首が離れる。滑り込んできた秋風が冷たくて、今の今まで確かに彼の手がそこにあったことをまざまざと思い知らされた。
ジャージ、ごめん。呟くように言うと、どうもなってないよと静かに返された。違う、本当に言いたいことはこれじゃない。無防備になった手首が、導いてくれる人のいない足元が覚束なくて、言葉が上手く出てこない。

「…こんなとこまでごめん」
「いいよ」
「それと、…ありがとう」
「うん」
「あと、それと、私」

先走る感情を躊躇が阻み、形にするにも言葉が追いつかない。彼を待たせてしまうと思うと気持ちが逸った。けれど見上げた赤葦くんは急かすことも踵を返すこともしなかった。ただ私が全部言い終わるのを待ってくれている。それが分かった時、ちゃんと言えた。

「明日からもちゃんと、副部長するよ」

だから大丈夫、とは言えなかった。それが私に言える精一杯だった。
薄墨色の瞳がほんの少し大きく見開かれる。初めて見る、赤葦くんの驚いた顔だ。けれどそれはほんの数秒もたたないうちにいつもの読めない無表情に変わって、それから彼は少し笑った。

それは口元だけ見ていても目元だけ見ていてもきっと気づけない、纏う空気で、表情全体で綻ぶような、そんな淡い微笑み。

「――――うん、俺も」

精一杯綺麗に見えるよう笑い返したら、擦りすぎた目元がひりひりと痛んだ。ああやっぱり彼の言うことを聞いておけばよかったと思った。


150710
一歩前進。