短い髪の端をスイムキャップの端に押し込み、ブルーのゴーグルのレンズの内側に曇り止めを塗り広げる。水着の紐を日焼けの跡に合わせて、爪先までしっかり日焼け止めを塗る。大きく伸びをして、屈伸、腕をほぐし、頭から冷たいシャワーを被る。
9月の半ばも超えた今、猛暑の名残は少しずつ力を失いつつある。本当はもう泳げるような季節じゃない。来週にはプールじまいだと顧問は話していた。なら来週までずっと泳ごう。

ほとんどの部員がダウンに入っている横で、タイムクロックを準備する。どうせ最後に片づけるのは私の役目だし、着替えのタイミングも皆からは少しずらしたいのでちょうどいい。
赤い長針がゆっくりとゼロを目指すのを待つ。飛び込み台に脚をかけ、体を引いて構えをとった。指先が張り、ふくらはぎが伸びる。もう少し、もう少し。

ゼロを割る針の先、全身をばねにして飛び出す一瞬。低い水温、氷の様な水面を叩き割り、萎縮する心筋を奮い立たせて水を蹴る。爪先まで伸ばして水中を滑り、揺らぐ天井を割って息を吸う。いつも通り、いつだって今までで一番良い泳ぎをすることを胸に、腕を伸ばし、足をしならせ、指一本分でも速く先を求める。

殴るように壁に手をついて顔を上げる。追いつかない呼吸に肩を上下させながら、タイムクロックの方を振り仰いだ。だが刹那、動く赤い長針を遮り、目の前に降ってきたのはデジタル表記の数値。ストップウォッチ、

「37.28」
「っ…!?」
「自己べスト?」

デジタル数値のさらに上、ストップウォッチの紐を握って垂らした先輩の一人が、読めない表情で私を見ていた。二年の篠崎先輩。無造作な茶髪と気だるげな振る舞いで、先輩たちの中では少し浮いた人だ。
同輩とも後輩ともあまり関わりがなく、当然私もまた話したことはほとんどなかったのだが――…なぜかここ最近、なんでもない接触が増えた人である。

「違うの?」
「あ……」

毛先の痛んだ茶髪が風に舞い、先輩の気だるげな瞳を隠す。この人一体何を。ていうかタイム、

「、」

37.28。前に測ったベストは確か、大会での39.6。最速、出た。

「…ベスト、です」
「やっぱそうじゃん」

ふ、と笑んだ先輩がしゃがみこんでいた姿勢から立ち上がる。ストップウォッチの紐を指にひっかけぐるぐる回しながら、彼女はビーチサンダルをぺたぺた鳴らして監視室の方へ歩いてゆく。市原先輩が何か言うのに二言三言応じ、引き出しからノートを出した篠崎先輩は、何かを書き込むとそれを机に残したままふらりとプールサイドに戻ってきた。
一拍遅れて市原先輩が驚いたようにこちらを見る。目が合うとハッとしたように視線を逸らした先輩から、私もまた静かに視線を外した。篠崎先輩はちらり、ガラス張りの監視室の向こうを見やり、興味なさげに顔を戻すと、大きく伸びをした。

「あたしさあ」

間延びした話し方、割といい加減に放置されたタオルや日焼け止め。たまに練習を無断欠席したり遅刻したりするルーズさが、他の先輩たちの不興を買うことがあるこの人は、けれど泳ぐときは少し空気が違うと思ったことがある。

シャツを脱ぎ捨て、競泳用水着に包まれたすらりとした体を惜しげもなくあらわにした先輩は、染めたのではないかと顧問に問われ、部員にさえ時折疑念の眼を向けられるその茶髪に黒いスイムキャップをかぶって、ゴーグルを拾い上げる。

「名字の泳ぎ、結構好きだよ」

篠崎先輩は飛び込み台にも立たず、縁から蹴った跳躍だけで軽やかにプールへ飛び込んだ。繰り出される力強いバタフライ。やる気があるのかないのかわからないと言われるこの人は、けれどどの大会でもメドレーリレーの先陣を切り、圧倒的な速度で後続を突き放す。

この人が私に話しかけるようになったのは、あの部活終わり、部室前で皆の話を聞いてしまった日を境にしているように思う。今思えばあの日、先輩も更衣室にいたのかもしれない。
それに気づいた時から私は篠崎先輩について何となく考えていた。ベクトルは全然違うけれど、纏う空気が少しだけ。

(赤葦くんに似てる気がする)

「……、」

先輩の髪はきっと染めたんじゃない。塩素で色素が抜けたんだ。
そう思ったら体が軽くなって、私はプールサイドに上がる。吹き付ける風で全身が凍えるかと思ったけれど、そこから冷たい水中に思い切り飛び込んで、先輩をマネして息が切れるまでバタフライで泳いだ。

篠崎先輩はいつの間にか向こう側で私を待っていた。水面から顔を出して足をついた私を見るなり、「ヘタクソ」と言ってにやりと笑う。その遠慮のない言い草に私は眉を下げて苦笑した。仕方ない、私の専門はバッタじゃなくフリーなのだ。






あの日を境に、私の日常は少しだけ変わった。それが良い方向なのかそうでないのかはわからないけれど。

部活は相変わらず気まずいままだ。むしろ空気に関しては多分悪化している。多分というのは、私自身にあまり確証がないという意味だ。何となく周りを気にすることが減って、雰囲気の変化に鈍くなった気がする。

あの時部室にいた面々は赤葦くんが私を呼んだ瞬間、私が自分たちの話を聞いていたと気づいてしまっただろう。今も私との接触を極力避ける同輩や、私の出方を伺うような接し方をする先輩、まるで何もなかったかのように接する部員。態度は人それぞれだが、なぜだかそれをどこか他人事のように眺め、あまり気にかけていない自分がいる。

泳いでいるときのようだ。不意に思う。
誰の手も借りれない、借りない、水面が割れ気泡が踊る音が時に応援の声さえ掻き消す、不完全に隔離された水中世界。
今の状況はなんだかそれに似ている気がする。自分だけ半分ズレた次元に片足を突っ込んでしまっているような、…こういうと中二病じみて聞こえるが、なんせ上手く表現できないので仕方ない。

「…やっぱ泣いたのが原因かな」
「なに名前、なんか言った?」
「え、…いや、何もないよ」

しまった、わざわざ自分で思い出してしまった。なんて失態だ、今思えば子供かという勢いでみっともなく泣きじゃくり、家まで送らせさえしてしまったのだ。人生の汚点…と言ったら赤葦くんに失礼に聞こえるかもしれないが、これは彼には何ら恥はない。ひたすら私だけが醜態を晒したという話である。思い出したら廊下疾走したくなってきた、そのまま踊り場に穴掘って埋まりたい、いっそそこを墓にしたい…!

「…名前ホントに平気?百面相してるけど」
「うんヘイキ、すっごいヘイキだよ」
「いや全然平気じゃないけど、目ぇ死んでるんだけど。…まあでも、」
「うん?」
「最近ちょっと元気になったよね」

びっくりして友人を見る。移動教室の準備を済ませた彼女は私を振り向き、遅れるよと声をかけた。慌てて教科書を出す私を見下ろして、机に腰掛けた彼女は続けた。

「副部長になってからさあ、ずっとおかしかったじゃん。すっごい思い詰めてるっていうか」
「…、」
「でも今はなんか吹っ切ったって感じ。なんかあったの?」

廊下に出た彼女に尋ねられ、少し言葉に詰まった。自分の中で何かが変わったのは間違いない。でもそれがいいことなのかはやはりわからない。私は少しずつ、孤独を孤独と思わなくなっている、そんな気がする。

水泳は個人競技だ。でもそれが個人主義を許すかと聞かれれば疑問に思う。
泳ぐなら一人でだって出来る。それでもこの競技を『部活動』ですることには、無論学校にいる限り当たり前のことかもしれないが、それなりの意味があるんじゃないだろうか。

その意味を捨てた先で、私の水泳はどうなるんだろう。

「…あのさ、」

友人も運動部に所属している。上手く説明できるかわからないが、聞いてみようか。そう思って顔を上げ、そして気づいた。彼女の肩越し、廊下の向こうから歩いてくる長身の黒髪。
いつにもまして眠たげな瞳をした彼は、廊下の片隅で彼を見て囁き合う女の子たちを気にした様子もなく、真っ直ぐこちらに向かってきた。

「!」

ぱちん、視線が噛み合う。彼の重たそうに見えるのに涼しげな瞼が少しだけ持ち上がって、温度の低い瞳が私を捉えて大きくなった。

一瞬フラッシュバックした醜態のせいで全力で逃亡したくなったが、泳ぎそうになる目を何とか引き戻す。
会釈か、声をかけるか。固まった頭じゃそのどちらもできず、逸る心は焦りにせっつかれ、一か八かで唇の端を僅かに持ち上げた。多分引きつっていたと思う。気づかれないとしてもおかしくない、曖昧で出来そこないの笑み。

でも彼は気づいた。こちらを通り過ぎる寸前、ふっと落ちてくる眼差し。微かに弧を描いた唇が、見落としてしまいそうなほど淡い笑みを語った。

「…!」
「…え、今のって…なに、名前、赤葦と知り合いなの?」

友人が驚いたように彼の背中と私を見比べる。私はしばらく答えられずにいた。
じわり、じわり、心臓にしみこんでゆく温度の一滴一滴に凝縮された感情に、なんと名前を付ければいいのだろう。感激だろうか、安堵だろうか、よくわからないそれは、けれど漠然とした実感を私に与える。

「…知り合いっていうか、なんだろ」
「?」

部活も性別も置かれた立場も違う、お互いの状況は多分ほとんど知らない。出身中学もクラスも委員会も違うし、もっと言えばプロフィールさえ説明できるほどのことを把握していない。
でも私にとって彼は、数歩分離れた場所で、同じ方向を向いて進むほとんど唯一の存在だ。

それを同志と言ったら格好つけすぎていて、味方と言うと首を傾げてしまい、仲間と言えばそれほど近しい間柄じゃないと思う。結局定義できないそれをなんと呼べばいいのか、私にはよくわからない。

そのうち名前がつくかもしれないし、つかないかもしれない。それでいいと思っている。ただ一つ言えるとするならば。

「赤葦くんはさ、副主将なんだよ」

口にしたら、あの日の帰り心臓の奥に芽吹いた根拠不明の勇気の芽が、ぐんと膨らんだような気がした。
思わず胸を張って言った私に友人は少し驚いた顔をして、「いや、知ってるし。ていうかなんで名前がドヤ顔なの」とおかしそうに笑った。







何かを吹っ切ったのかもしれない。
友人と笑う彼女の顔を見て、拳を握りしめて泣く彼女の姿を思い出し、少し安心して―――そして、微かな焦燥を感じた。

水泳部における名字の立場がどういうものなのか、俺はあの日までほとんど何も知らなかった。廊下なんかで時折見かける彼女の表情はどこか暗いように見えることもあったが、もしかすると俺がよく言われるように、彼女もあれで通常運転なのかもしれない。
正直彼女に関しほとんど知らない俺にとってその心境を推測するのは難しく、友人と呼べるような間柄でもない。少し気になることはあっても、話しかけに行くほどの行動を起こそうとは思わなかった。

状況の断片を理解したのはあの日、部活帰りにたまたまプール近くの部室棟を通りかかった時だ。
あの時、ドアノブに手をかけることもなく鞄を肩に立ち尽くしていた名字の表情は、いっそゼロに等しい無表情だった。その時初めてそれが、名字の通常運転なんかじゃないことに気がついた。

ドア一枚越しから遠慮容赦なく紡がれる言葉の端には、無責任な悪意が滲んでいた。その好き勝手な言い分に沸々と怒りがわいてきて、半ば衝動だけで名字を引っ張ってその場を去った。
今思えば名字の名前を聞こえるように呼んだのは多分、ドアの向こうの彼女のチームメイトたちへのあてつけだろう。さりげない自分の性格の悪さには少し閉口するが、それより名字の立場を余計に悪くしたのではないかと心配になった。


俺が副主将に選ばれたのは彼女より少し早い、三年の引退と引き継ぎがなされた夏休みの半ばだ。
驚かなかったと言えば嘘になる。名字には先輩ぶったことを言ったけれど、就任当初は結構混乱した。

確かにそのころすでに俺は木兎さんに気に入られ、さんざん練習にも付き合わされていて、早くも「木兎係」(発案は小見さん)と命名さえされていた。その木兎さんがすでに次期エースおよび主将となることが確定していたので、もしかすると控えのセッターくらいにはなるかもしれないと思っていたところに、ぶっこまれたのがまさかの副主将である。本気でどんな暴挙だと思った。

だが名字と違うのは、俺の場合二年の中心メンバーがその決定を全面的に支持していたというところだ。「まーアレだ、細かい事務作業は面倒だし、木兎の面倒を見るのはもっと面倒、そこにちょうどいい一年が入ってきたからとりあえず任せるか。そんな感じだな」と笑った木葉さんには、この部活本当に大丈夫かと深刻に心配したが。

『あんま気張んなよ、『一年』を育てんのが俺らの役目なんだからな』
『木葉の言うとおりだ。おい一年坊主、イッチョマエに一人前気取ってんなよ!』
『まあそもそも木兎係だからな。いっそ犠牲に近いぞ、気張れ赤葦』
『おい小見だからそれどーいうイミだよ!!』
『そのままの意味です』
『お前が答えんな赤葦!!』

隙あらばしょっちゅう悪ノリするし、騒がしいし、キャラも濃いし面倒くさい。けれど俺が一部の上級生に嫌味混じりのからかいを受ければ茶化して割り込み、片づけを押し付けられれば当然のように自分たちの分を自分たちで片づける。準レギュラーの上級生が俺の負う責任が少ないことを突いた時には、レギュラー陣で結託してしょぼくれモードに入った木兎さんを押し付けたこともあった(あれは本当に奇策だった)。

『ようようフクシュショー、気にしてんじゃねえぞ!』

―――俺の『先輩』達はそうやって、当然のように背中を見せ、背中を貸し、背中で庇ってくれる。無言で「お前が副主将だ」と語ってくれる。
その無言の声を聴くたびに、焦る心も苛立つ気持ちも、振り捨て呑み込み踏み越えることが出来た。

あの人たちは何も言わないし、俺も今更何も言わない。改めて礼を言うのは照れくさくて、でも本当に感謝しているし尊敬してもいる。同時に、いつまでも甘えているわけにはいかないというのも、俺の心からの本音だった。

でもあの一件、名字の一件を通じて、俺は自分の認識が如何に甘えきっていたかを理解した。そしてその本音には、焦燥という苦い感情が入り混じるようになったのだ。

実力が無いから、結果を出していないから、一年だから受け入れない。本人が望んでなったわけでもないそれに、資格がないと烙印を押す。

無責任な、こっちの苦労も知らないで、――――なりたくてなったわけじゃない。
あの時確かに燃え立ったのは、彼女の立場にシンクロした俺の、紛れもない俺自身の本音の一つだった。

だがそこでようやく理解した。それが当然なのだ。たかだか高校生、俺たちの程度の年齢で、実力も人格も未熟な年下の一年を副主将として立て、後輩として指導し導くことがどれだけ難しいか。大人だって容易く出来る話じゃない。

名字の先輩たちが幼すぎるんじゃない。アレが普通だ。むしろ普段バカばかりしている俺の先輩たちの方が、名字の先輩たちの何倍も大人なのだ。
その時初めて理解した事実に俺は衝撃を受け、自分の甘えっぷりに愕然とした。自分が実は爪先から頭のてっぺんまで「お飾り」の副主将でしかないのだと宣告された気がした。

どうしてもっと早く気づかなかったんだ。どうしてもっと。
受けた衝撃が不満を生み、不満の矛先はどんどんズレて、何も言わずに甘えさせてくれていた先輩たちに責任転嫁しようとする。それがどれだけ筋違いで恩知らずな話か頭ではわかっているのに、その言葉なき親切を素直に受け取れなくなり始めている自分がいる。

恵まれているはずなのに、このままではいけないと思う自分がいる。
感謝すべきなのに、放っておいてくれと思う自分がいる。

焦りだ。わかっている、そう呼ぶ他ない感情だ。先輩たちには何の責任も非もない、未熟な俺が自分で頭打ちして勝手に拗らせた幼さの塊。
それが心に巣食っている自覚はあるのに、徐々に心臓を食い破ろうとするそれを押しとどめることが出来ない。

(…名字は、)

名字ならどうするのだろう。味方らしい味方もいるのかわからない彼女は、俺のこの贅沢で不甲斐ない葛藤をどう見るのだろう。

『速くなりたいんだ』

たった一人、夏の終わりの近づく斜陽の中で、静かな覇気を纏って佇む横顔を思い出す。あの時の名字が孤独だったとすれば、多分今の彼女はそうじゃない。
吹っ切ったように笑う顔はもう、後ろ指を刺されて立ち尽くす独りぼっちの一年生が見せるそれではなかった。

(この先彼女はきっと、孤高になる)

自信なさげに、困ったように笑う気弱な面影を残したまま、しかし選手としての彼女はきっと誰の目にも声にも見切りをつけて、誰の手も届かない高みに上ってゆく。同輩も先輩も、そしていつかは同じ一年の副主将として助言を求めにやってきた、俺のことも残して。

彼女はたった一人で閉塞を打開し、前を向き進み続けている。
俺は自分が自分以外の人の存在により歩かせてもらっていただけであることに今更気づいて、独り善がりに葛藤している。

そんな感覚、劣等感にも似たそれが、途方もなく高く越えがたい隔絶のように、俺の前にそびえたっていた。

150721