「なんか最近さあ」
「あん?」
「赤葦調子悪くね?」
「…、そうかあ?」

ごつい体を半分に折り曲げて長座体前屈をする木兎の言葉に、猿杙はコートを見やって首を傾げた。その視線の先には彼らが一年副主将の黙々とアップに取り組む姿。学業も部活も優秀な一つ下の後輩は、猿杙の目にはいつも通り表情が乏しいという以外に見受けられることはなさそうだった。

「別に普通じゃね」
「いやなんか変なんだって。こうさあ、ピリピリしてるっていうか」
「え、基本お前のせいじゃねーの」
「シツレーだな!最近は絡む前から不機嫌なんだよ!」
「じゃあ普段から絡むなよ…」

と言いつつ、ほとんど脊髄反射と野生の勘で生きているのが木兎である。練習時間という点でも赤葦と最も関わることの多い彼が言うその発言は軽視できない。
猿杙はしばし最近の赤葦について黙考してみた。コートに入った赤葦がオーバーハンドを開始する。三色のボールが宙を上下するのをぼんやり眺めていて、不意に気づいた。高さが微妙に合わない。

「猿杙?おーい、どうしたんだよ」
「…なあ木葉」
「あ?なんだよ」
「昨日の部誌て誰が書いたっけ?」
「部誌ィ?誰だっけ…最近回ってこねーからわかんねーけど、赤葦じゃねえの?」

呼び止めた木葉はそのままコートに入る。木兎が無視するなと騒いだが、猿杙は傾げていた首の角度をますます深めて考えた。変だな、ついこの間も赤葦が書いてなかったか。
考えてみればごろごろ転がり出てくる。そういえば最近彼がメニューの組み方について尋ねに来ることが減った。片付けも一人でしていることが多い気がする。そして何より、

「なんかこう…スパッてくるトスも減ったんだよ。紅白戦とかでも、別に負けてるわけでもねーのに焦ってるっつーか」

木兎の発言が決定的だった。すぐには気づかない、違和感が出ない程度の誤差。オーバーハンドパスの高さに出る微妙なズレ、打点から逸れるトス。赤葦が不調だというのは気のせいではないかもしれない。
だが猿杙はそれを深刻には考えなかった。誰だってスランプや不調の時期はある。それに、こうして普通にしている分に周りが気づかない程度のスランプなら、そのうち持ち直すだろう。そう木兎に告げれば、彼はしばし唇を尖らせ「でもよー」「なんかさあ」と食い下がった。だが結局上手く言葉になる前に鳴ったホイッスルが、二人の会話に幕を引く。

踏み入れたコート、赤葦がトスを上げる。木兎が踏み切り、鮮やかに宙を舞って―――けれどその球の中心は、彼の掌より少し上、指の付け根の少し上に当たった。
ブロックに伸びてきた指先を掠め、ボールは相手コートに突き刺さる。点が入り、仲間はナイスと声をかけたが、木兎はいつになく煮えきらない態度でそれに応じただけだった。その曇った顔が同じコートに立つ後輩の方を向く。普段であればその視線に気づく筈の赤葦は、今は前を向いたまま次のボールに備えて立っていた。

トスが上がる。木兎は打つ。傍目に見て問題のないその連携に、けれど木兎は得も言われぬ違和感と異変を感じていた。

(…赤葦が見えない)

物理的な話ではない。もっと、コート上で何も言わずとも次に出す手がなんとなくわかるとか、相手に合わせてもらったり合わせたりする時とか、そんなときに見える、つかめる、赤葦の意図や策が、霧に包まれたように見えてこないのだ。

こんなこと今までなかったのに。木兎は上手く言えないもどかしさと、満足のいくプレーを出来ない欲求不満の両方を、しかしぎゅっと握った両拳の中に押し込んだ。いつもの彼なら我慢など滅多にしない。だが今はなんとなく、それを口に出して駄々をこねてはいけないような気がしたのだ。

木枯らしが吹く季節、何かが少しずつおかしくなり始めていた。







「ねえ篠崎」
「んー?」
「名字ちゃんが副主将になったのって、なんで?」

痛んだ茶色の頭が一瞬動きを止めた。毛先の痛んだ前髪の下から、気だるげな双眸が微かに色味を変えてマネの彼女を一瞥する。けれど目があった時には、篠崎はすでにいつもと同じやる気のない、いっそ生気も乏しい瞳をしていた。

「…市原の差し金、ってわけじゃなさそうだね。なんか仲悪そうだし」
「まあ仲良くはないかなー。あの子、名字ちゃん、私の中学の後輩なの」
「あーね、コーハイが心配と」

緩いネクタイ、可も不可もないスカート丈と、履き潰した上履き。ルーズな印象を強めるのは艶の少ない痛んだ茶髪だろう。やや長い前髪が隠す目元で根暗に見えるかと思えばそうでもなく、掴みどころも協調性もないマイペースな振る舞いは彼女を周囲からどことなく切り取ってしまう。

クラスでこれだ、部活でも多分浮いている方だろう。けれど基本的に市原香織を擁護し、名前に対し良い感情を持たない他の多くの二年に聞くより、一線画したところにいそうなこの篠崎光琉に聞くのが得策だと考えたのだ。

「なんであたし?」
「そりゃまあ、篠崎なら聞いてるかと思って」
「元部長に聞けば一発でしょ」
「後続の部長にも話してないのに部外者に話すの?」
「部外者なら話すんじゃない?」
「…どういうこと?」
「そんなん、"後続だから"言わないんじゃん」

吹き込んでくるやや冷たい風に目を細める篠崎の言葉の意味を考える。つまり、元部長は部外ではなく、部内の人間に人選の理由を明かしたくないということだろうか。
呑み込んだ解釈が消化不良を起こしたのはマネの顔からわかったんだろう、篠崎がふっと口端を上げて笑う。他人によってはバカにされたと捉えかねない表情に、マネは一瞬口元が引きつりそうになるが、一年の時クラスが同じだったこの同級生に悪気がないことはなんとなくわかっている。

「ま、あたしは聞いたけどね」
「は?」
「あ、信頼とかじゃないよ。あたしがそういうのどーでもいいって思ってるのミエミエだったから」
「…そういうのって、誰が部長になるかとか?」
「そ」

彼女は呆気にとられて目を剥いた。なんてことだ、誰に聞いても憶測と尾ひれのついた噂しかなかった事の核心を知る人物が、こうも簡単に見つかるとは。

「それ…それ、私が聞いても大丈夫?」
「知ったところでどうすんの。名字に言うの?」
「…言って何か解決するならそうする」
「…正直だねえ、」

そこは嘘でも「絶対言わない」っていうとこじゃね?
へらっと笑って視線を流してきた篠崎に、マネは苦々しく顔をしかめて見せた。この人を食ったような態度があるから要らぬ誤解されるのだ。本人がそれを気にしていないなら構わないかもしれないが、マネの彼女はそれもそれで問題だと思う。

「名字ってさあ、多分無意識だと思うけど。……結構一匹狼なんだよ」
「…一匹狼?」

間をおいて返ってきた返答は拍子抜けするものだった。一匹狼。考えて選んだであろう言葉だが、それは彼女の知る後輩を描写するにはあまりに違和感があった。
あの子は、名前は一匹狼と呼べるような独り好きでも人嫌いでもない。むしろ他人の感情に敏感で、場の調和を重んじて自分の意見を譲ることだってしばしばの気配り屋で、中学では後輩の面倒もよく見ていた。役職に就くような子ではなかったが、部長も副部長も名前を頼って下級生を統率することは多かったはず。

「部長はさあ、最初、あたしを後継者候補にしたんだよ」
「は!?…あ、ごめ、」
「いーよ、それが普通の反応。で、あたしは断った」
「…一応理由聞いていい?」
「面倒くさいから」
「…」

ですよね。
予想を裏切らないやる気のなさには脱力する。しかしこの篠崎を部長に推薦するとは、ますます水泳部における人選基準がわからなくなってきた。どう考えたって篠崎は部を率いる役には収まらない(まあ、ウチのも木兎だし、よそのこと言えないけど)。

「だから市原が部長になった。二年に人気があったから。でも出来るなら名字を部長にしたって良いって、美波サンは言ってた」

淡々と語った篠崎の言葉にますます困惑し、けれどふいに何かが引っかかる。マネは一瞬巻き戻し、そして気づいた。人気。「人望」ではなく、人気。その言葉が意図されて選ばれたのか、そうでないのか。

「…篠崎が候補になった理由は、何?」

篠崎が部長に推薦され、名前が副部長になった理由。市原香織が二年の中心人物でありながら、第一候補に挙がらなかった理由。むしろ、篠崎が断るなら、一年の名前を部長に据えても構わないと前部長たる瀬戸美波が言った理由。

篠崎は痛んだ茶髪をかきあげる。差し込む斜陽に眩しげに眼を細めた瞳の色は、陽光では説明しきれない色素の薄さを持って透けて見えた。

「水泳はさあ、個人競技なんだよ」
「…?」
「けど部活は団体なの。個人主義じゃないわけ」
「…」
「あたしは個人主義が行き過ぎてて、他の二年は個人競技が出来てない。名字は多分、自覚ゼロでその真ん中を行くことが出来んの」

だから副部長になった。

篠崎は言うと、ゆっくりと席を立つ。その手にはプールバックではなく体操着を入れたカバンがあった。
秋になって、水泳部が他の部活に混じって外周する姿をよく見かけるようになった。体育館裏から見えた名前は、友人と話しながらだらだら走るでもなく、体育館裏で顧問の目の届かないところで歩くでもなく、黙々と走り続けていた。

「あ、さっきのさあ、訂正するわ」
「さっきのって?」
「この話、名字にはしないでよ」
「…理由は?」
「美波サンが言わなかったから。各自が自分で気づくべきだっていうのが、ウチの元部長の意向なの」

篠崎は鞄を肩にひっかけ、廊下の向こうに消える。マネの彼女もそろそろ部活に行かねばならない頃合いだ。だが彼女は立ち去ってゆく同級生のやや猫背気味の背中を見送りながら、彼女の言葉を反芻していた。

篠崎は自分が個人主義の過ぎた人間だと称した。それは理解できる。彼女は自分で言う通り、団体行動に向いたタイプでも、それを必要とするタイプでもない。
けれど他の二年が個人競技が出来ていないというのは、どういう意味なのだろう。名前がその真ん中を行くというのは、どういう。

バレーはチームプレーを必要とする団体競技だ。仲間との絆、もっと現実的に言えば信頼関係や普段の関わり方、距離感は少なからずプレーに影響する。
水泳が個人競技だというのは言葉だけなら理解できる。もちろん部内の空気が良いことに越したことはないし、仲間との励まし合い、応援、競争はどこの部活動にだって存在しており必要だろう。だが究極的な言い方をすれば、時と場合によっては一番を獲るために他人の力が必要ないこともある。

マネの彼女は名前の直属の先輩ではなかった。水泳部の友人を通じて名前と知り合い、その後委員会だ何だの繋がりで親しくなったため、部活動という場における彼女のことはよく知らない。
黙々と外周に励む名前を思い出す。あの様子ではきっと孤独を深めているに違いない。けれどその凛とした横顔に、以前は色濃く滲んでいた彼女自身には何の負い目もないのに抱えられた後ろめたさや、自分に対する自身のなさはあっただろうか。

もしかすると、名前はすでに自分で何かを見つけたのかもしれない。篠崎の言う通り、それが本人にとっては無自覚であるとしても。

150720
周辺事情ばかりですみません。