「…ねえ」
「うん?」
「この前、バレー部のマネージャーと話してたの、どういうこと」
「、…」

脱いだままの体操服を鞄に詰め込んでいた篠崎光琉の手が止まった。帰宅準備に追われる部員でがやがやと騒がしいロッカールームの一角に、彼女らの周りだけに、不穏な空気が忍び寄る。篠崎は自分の隣で着替えを続ける市原香織の手元を見、それからゆっくりと片づけを再開した。
あーあ、聞かれてたか。スンマセン美波サン、結構早くにバレちった。
だが篠崎にとっては"後継者"争いなどどうでもいいことだ。彼女の選択肢に取り繕うだの誤魔化すだのの言葉は初めから存在しない。

「市原が聞いた通りでしょ」
「…私らが個人競技が出来てないって、どういう意味」
「美波サンに聞けば?」
「っ…そもそも、あんただけが理由を教えてもらったってのも疑わしいし、」
「あーね、証明できるものとかないし。別に信じてもらう必要もないけど」

バン!

ロッカールームから雑音が消えた。市原が体操着入れを床に叩きつけたのだ。苛立ちに満ちた瞳がのらりくらりと躱し続ける篠崎を睨みつける。普段の彼女なら我慢できる程度のはずだった。今はどうにも気持ちがおさまらない。
一瞬で静まり返った部室に、篠崎だけが体操着を脱ぐ衣擦れの音が嫌に大きく響いた。

「…あんたのそういうとこ、大っ嫌い。全部知ってますみたいな顔してさ。何様のつもり?」
「篠崎のつもりだけど。ていうか論点ズレてるし。聞きたいのってそれじゃないんでしょ」

緊迫した空気に部員たちが身を固くする。とくに二年連中は息をひそめて二人のやり取りを伺っていた。市原と篠崎の馬が合わないというのは部内における暗黙の了解だ。
篠崎はちらりとロッカールームを見回し、名前の姿がないのを確認する。大方プールサイドの監視室で一人で部誌を書いているのだろう。彼女はいつもほかの部員より30分遅れて帰宅する。

「…香織、どうかしたの?篠崎がなんか言った?」
「…昨日、篠崎がバレー部のマネと、引き継ぎの人選について話してたから」
「バレー部のマネが…うちの引き継ぎの?」
「…うそ、光琉聞いてたの?美波さんから、」
「聞いてたっていうか、一回部長やれって言われたし」

まあ本気じゃなかったろうけど。

ざわり。付け加えられた補足の甲斐なく、今度こそ完全に部室が揺れた。市原を庇うように進み出た女子は山瀬水城、市原と最も仲が良く、市原の部長就任と同時に副部長になるに違いないと見られていた人物だ。その彼女も思わぬ篠崎の暴露に、市原同様身を凍らせた。

驚愕、非難、疑惑。注がれる様々な視線に、篠崎はため息を吐きたくなる。あの気弱そうな一年生副部長はずっとこんな視線にさらされてきたのか。大した精神力だ。まあたまに目を見張るような強烈な存在感を放つときがあるから、存外図太い神経を持っているのかもしれないが。

「…嘘だ、そんなの聞いてない、」
「そりゃまあ言ってないしね」
「嘘言わないで!あんたみたいなやつが部長になんかっ…!」
「だから市原がなったんじゃん。正解だろ」

あくまで態度を崩さない篠崎に市原の怒りが募る。しかし同時に尊敬していた元部長への信頼、疑問を孕みつつも確かに存在したその信頼が、思わぬ形で瓦解したのは明白だった。
副部長に一年の名前を選んだ時点で感じたのは、自分たち二年に対する信用の無さへの疑問だった。だが何のことではない、自分も、部長であるはずの自分すら、第一候補ではなかったというのか。よりによって問題児として知られる篠崎に劣ると見られていたのか!

「それに、あたし"みたいな"ヤツが候補に挙がったのは、あたしが部長に向いてたからじゃない。個人競技に向いてたからだ」
「…どういう意味よ、」

篠崎は履こうとしていた靴下を置いて、右足だけ裸足で部室の隅の机に歩み寄った。一年の後輩たちが後退るように道を開けるのも無視して、記録用紙や備品の注文書などがきちんと並んだそこからノートを二冊取り出す。ぱらぱらめくって、あるところで手を止めると、篠崎はそれをロッカー前の椅子に広げたまま投げ置いた。それから靴下のもう片方を履く。

「リレーメンバーのエントリー表。こっちがあんたらの考えた方で、こっちが名字の書いたやつ」

なんのことかわからない二年の数名が、それでもノートを見比べるためにそろそろと集まってくる。一方市原は、名前がリレーメンバーまで組もうとしていたことを知り、更なる苛立ちに襲われた。自分を差し置いて、しかも何の断りもなく大会のスタメン構成までするとは図々しいにもほどがある。
だが篠崎はそんな市原の内心を見透かしていた。

「言っとくけど、名字に作ってみろって言ったの、あたしだから」
「!」

篠崎は言うだけ言って着替えを再開する。噛みついてやるにも言葉は追いつかない。怒りに震える市原に、しかし山瀬水城は気づいた。名前のエントリー表は、二年が構成したオーダーとはかなり違っている。そしてその端からはみ出た付箋を追って一ページ裏を見れば、そこにはページを埋め尽くすような計算式と付箋メモ、数々の没案が所狭しと記されていた。

「…香織、これ……」

そこからは声が出なかった。各人の成績、ベストタイム、得意分野、飛び込みの速さはもちろん、各大会で同じレースに出場する相手校の総合タイム、各選手のベストタイム。そこから導き出されるのは、タイムの良い者順に並べただけの単純なリレーメンバー表ではない。

大会をトータルで考えた先で、各々のレースごとにおいて、最も効率よく点を稼いで優勝するにはどうすればいいか。速度は点数にはならない。なるのは順位だ。ならば明らかに勝てない強いチームがいるところで精鋭を使って体力を消耗させるより、勝てそうなところに戦力を割り振った方がいい。無論狙うなら一位だが、それに拘り過ぎて僅かなレースでぶっちぎりの一位をとり、他のほとんどのレースで下位をとるよりは、まんべんなく上位を狙う方がいい。

無論エントリーシートは各学校が事前に提出し、後日日程表が送られてくるため、名前のオーダーはそれまでの記録からの予測に基づいたものでしかない。だが一目見てもそのエントリーは梟谷の持つ強みと弱みの戦力的バランスを重んじたもので、数年分のデータに基づき他校を分析したものであるとわかった。

そのオーダーには部員同士の仲の良さだの、学年だのの上下を気にした跡は一切ない。
「団体」での勝ちのために、使える「個人」を使う。そこに伺えるのは部を重んじた全体主義と絶妙なバランスで共存する、純粋故に容赦のない実力主義だ。

「個人競技の団体戦はさあ、個人主義じゃ上手くいかないんだと」

水泳は個人競技だ。でも今の自分たちの水泳の基盤には部活動という基盤がある。それは個人の選手としてだけでなく、チームとして歩む必要があるということだと、元部長たる瀬戸美波は語った。

それが一般論だとは言わない。学校によって、人によって、場所によってチームによって、語ることは大きく変わってくるだろう。
ただ梟谷は各地方から精鋭が集まる学校だ。なまじ実力があるだけに、協力などなくともある程度の成績は出せてしまう。しかし当然部員誰しもが一人で戦えるだけの力を持つわけではない。三年間努力してそれなりの結果を出せるようになったにもかかわらず、横行する個人主義のエントリー表で、何の活躍もできずに卒業してゆく先輩らの背中を見てきた。

それでいいのか。競技としては正解かもしれない。
でも部活動としては、どうなんだ。

『あんたらの代で変えて見せな』

不敵に笑んだ元部長の瞳がどこか寂しそうに見えたのは、篠崎の気のせいだったのだろうか。彼女にはわからない。
けれど気ままでふらふらした彼女のことを、ほどほどに窘めながらも理解してくれた瀬戸の言葉は、何事に関してもやる気の乏しい篠崎の心の突き刺さったままだ。

名字名前は入部当初から、とりたてて速度もないごく普通の平部員だった。けれど瀬戸美波は日々の何でもない場面から見ていたという。名前は水泳という競技に対して誰に揺るがされることなく個人を貫き、部活という団体空間においては惜しみなく他者のために自分を譲ることが出来る。

それはこの梟谷水泳部において、稀有な才能だと瀬戸は語った。彼女なら皆が『部活動』に参加できる部にすることが可能ではないかと見込んだのだ。

加えて今期の二年はそんな個人主義の風潮に乗っているだけでなく、厄介なオトモダチ主義の色まで持っている。つまり仲の良い仲間内に対し保守的で、都合のよい決定を下しがちなのだ。
それは名前を孤立するがままにさせている点にも、本来ならタイムの点で最善ではないにも関わらず、仲の良いと知られるグループでリレーメンバーが組まれている点にも顕著に表れている。

そんな勘違い連中に部は任せられない。
瀬戸は言い切った。人数的には少なかった三年も全員それに同意した。
そして後輩たちに気づかせるため―――たとえ気づかせられなかったとしても、二年の退部後に部長として新しいスタートを切るまでに基盤を築くことが出来るよう、名前を副部長に任じた。それが真相だ。

「あんたらが名字を副部長として認めないなんて、あの人は最初っからお見通しだったよ。そうやっていつまでも子供っぽいこと言ってるから、先輩方は二年に部を任せらんないって判断したんじゃないの」
「……なに、それ」

呟いたのは誰だったのか。今や部室は完全に静まり返っていた。篠崎も完全に着替え終わっていた。そのまま彼女は自分の荷物を担ぐと、一年が固まる反対側のロッカーに向かい、なんの躊躇もなく名前の鞄とジャージを手に取る。
几帳面な名前らしく、手荷物は綺麗に整頓されていた。篠崎は少しの時間のロスもなくそれを持って出入り口に向かう。その背中に向かい、山瀬水城が感情を露わに食い掛かった。

「っ…ふざけないでよ!」
「残念ながらあたしは至って真面目だね」
「香織が今までどれだけ我慢して、何も言わずに頑張ってきたか知らない癖に…!あんたみたいに何もしないいい加減なヤツが、勝手なこと言って馬鹿にしないで!」
「ほお、じゃあ名字は頑張りも我慢もしてないって?あんだけ散々叩かれて干されて、泣き言一つ言わずに今も上で部誌書いてる名字が?」
「ッ!」
「寝言は寝てから、馬鹿は休み休み言えよ」

はっきりと挙げられた名前の名に、幾人かの部員が目を逸らし、山瀬もまた顔を強張らせた。だが篠崎は冷淡だった。正義のヒーローを気取りたいわけではない。自分は市原たちと同族ではないが同レベルだ。
彼女は知っている。自分のこの他人に対する冷たさもまた、瀬戸が自分に部長にならないかと持ちかけながらも、本気で打診しなかった理由の一つなのだ。

篠崎にとって水泳部は泳ぐためのものでしかない。『部活動』をするためではなく、『水泳』をするために入った。絆も仲間も青春も好きにやればいい、しかし自分は関係ない。それが彼女の一貫したスタンスであり、瀬戸をもってしてもその徹底的な個人主義は変わらなかった。

だから名前が副部長になった。その結果として村八分に遭い、孤立を深め、同輩らしき男子に手を引かれて部室前から立ち去っていったあの時、嗚咽に肩を揺らした彼女は言ったのだ。

「名字は」

好きで、副部長になんか、なったんじゃない。

「あたしらが不甲斐ないから犠牲になったんだ」

「っ…!」

市原が目を見開いて篠崎を凝視する。篠崎はそれを冷然とした、しかし言葉にされない強い感情を込めた眼差しで迎え撃つ。
名前の孤独な奮闘を一番間近で見ていたであろう数名の一年が、堪え切れずに俯くのが見えた。篠崎は今度こそ背中を向け、部室を後にする。しかしそのすぐ直後、

「あ、篠崎先輩」
「、…名字」

お疲れ様です。そう言って頭を下げた渦中の後輩の姿に、篠崎は足を止めた。今しがた部誌を書き終え監視室から出てきたところらしい。その彼女の横には見慣れない男子生徒の姿があった。整った顔立ちをした背の高い少年だが、まだ体つきに幼さが残っている。出くわしたのか会っていたのかは知らないが、彼と立ち話をしていたために戻て来るのが遅かったらしいのは僥倖だろう。今度は余計な話を聞かずに済んだのだから。

思いつつ篠崎が名前の方へ歩み寄ろうとしたその時、不意に同級生らしきその男子、赤葦京治が動き、名前の前へ一歩踏み出した。驚いた様子で彼を見上げる名前には見えていないであろうそこで、短い黒髪の下の涼しげな瞳が、微かな鋭さを帯びて篠崎を見据えて牽制する。

これはまた。篠崎は思わず足を止め、しげしげと赤葦を見やって目を丸めた。その白地に朽葉と黒のジャージには見覚えがある。確か、いつだったか男バレのマネが同じジャージを着ているのを見たはずだ。

「男バレの子?」
「…そうです。お邪魔しています」
「もしかしてアレ?副部長の」
「はい」
「マネいるじゃん、ほら、胃袋ブラックホールの」
「、ああ」
「え、それで通じていいの…?」
「アイツあたしのダチ」

一瞬突っ込んだ名前に気にした様子もなく、篠崎は名前の荷物をベンチに置く。名前はさきほど偶然顔を合わせた赤葦を、ついでに篠崎に紹介しようとしたが、彼女が自分の荷物をもって出てきていたことに気づいて驚いて篠崎を見た。

「これ私の…なんで、」
「今さあ、部室まじブリザードなんだよね」
「エッ」
「まあ巻き起こしたのあたしなんだけど」
「ええええ」

容疑を認めるにしてもあまりに反省の色がない。だが普段あっけらかんとした篠崎が荷物まで持ち出し、部室に戻らず済むよう計らったのだ。今戻るのは自殺行為と見える。
困ったように部室の方を見た名前に何か勘違いしたらしく、赤葦がすっと目を細めて名前を見下ろした。

「また何かあったなら、行かない方がいい」
「いや、あれ以来特には何も…ただ、ノートだけ取りに」
「じゃあ、」
「あーごめん名字、あのノート今あたしんちにあるわ」
「そうなんですか。じゃあ大丈夫ですね」

ほっとしたように笑う名前を見て、篠崎は素直なヤツ、と内心呆れ笑いを浮かべる。そのノートが火に油を注いだなどよもや夢にも思うまい。
がたがた、部室の方で話し声と物音がした。不穏な気配はないが、そろそろ皆が出てくる頃合いらしい。

「名字、今日そのまま帰んな。部室はあたしが閉めて帰る」
「え、そんな、悪いですよ!」
「いーよ、あんたいたらまたなんか巻き起こるかもだし」
「…それは本当にすみません…」

歯にもの着せぬ物言いに名前は肩を落として苦笑いする。自分が何かと問題の火種になるのはよく分かっている。ここは篠崎に従うのがよさそうだ。
だがその率直な言葉に眉をひそめたのは本人ではなく隣にいた赤葦だった。そのもの言いたげな眼光鋭い目線に、篠崎は思わず噴き出した。

「ちょっと男バレ睨まないでくんない、名字のこと責めてるわけじゃないよ」
「え」
「ていうかちょうどいいよね、名字のこと送ってやってよ。もう暗いし、万が一絡まれたら面倒だしさ」

名前が驚きに満ちた顔で赤葦を見上げるが、図星をつかれた彼は軽く目を見開き、気まずげに篠崎から視線を逸らした。名前は何か言わんと口を開いたが、しかし部室のドア越しに届く話し声が徐々に大きくなるのが分かり、篠崎は二人を急かして校門へ向かわせる。残された時間は少ない。

「でも先輩は、」
「何、心配してくれんの」
「だってさっき巻き起こしてきたって」
「くどい。黙って甘えな、後輩」

にやり、人が悪そうに笑った篠崎の言葉に、名前は大きく目を見開いた。横にいた赤葦まで同じように目を見開くものだから、篠崎はちょっと驚き、それから遠慮なくけたけた笑う。青春だねえ。言ってやったらまた睨まれそうだったので、ここは黙っておくとする。

名前から部室のカギを奪い、シッシッと手で払って二人を追い払う篠崎の背中の向こうで、部室のドアが開く。棒立ちになってその背を見つめていた名前の腕を引き、部員たちの視界から遠ざけたのは赤葦だった。それを確認したらしい篠崎がふっと笑んでいたことに、彼らは気づいていなかった。

赤葦は名前の腕を放し、その小さな頭を見下ろす。名前は呆然と赤葦のブレザーを見つめて凍り付いていたが、胸を目一杯膨らませて息を吸い、吐いて、それから何かを求めるように赤葦を見上げた。赤葦はしっかり目を合わせ、頷いてみせる。
瞬間、名前は唇を噛み締め、再び大きく息を吸った。今度は吐き出さないまま俯いて、両手の拳を握りしめる。

「…もう少ししてから帰ろう」
「…」

赤葦の静かな声に、名前は頷く。言葉少なに校門へ向かう水泳部の部員たちから名前が見えないよう、赤葦は立ち位置を少し変えた。

「しのざき先輩っていうんだ」
「…さっきの先輩?」
「うん。しのざきひかる先輩」
「今度そう呼んであげたら?」
「…下の名前で?」
「そう」
「…先輩きっと変な顔するよ」
「かもね」

名前が声を上げて笑う。ほんの少し震えた声だったのは聞かないふりをしてやって、赤葦は暮れゆく空を見上げて黙した。
名前はすでに進みだしている。その足跡は彼にだって見える。
でも自分の足跡が見えるかと聞かれると、彼は答えに窮してしまうだろうと思った。


150806
赤葦さんもやもや。