私がその場に居合わせたのは、いっそ運命の悪戯と呼ぶ方がしっくり来ると思うほど、よく出来た偶然の結果だった。

「じゃあいいです」

身体の内側の酸素が冷えて凝縮し、気圧を下げて肋骨を圧迫する感覚。充満する空気が軋んだ。その瞬間、見知らぬ人の家に上がり込んでいる感覚を棄てられなかった体育館の片隅で、私は半ば本能的に当事者たちと同じ空気を共有していた。それさえも良く出来た演出のように思えるほど重なったタイミングで。

体育館の真ん中、正確に言えばネットを挟んだ白線の内側で、急速に密度を増して緊迫してゆく空気の中心に、彼は立っていた。充満した熱気と裏腹に底冷えしてゆくその背の温度が、膨張する不穏な空気をびりびりと伝染させる。
前後のやり取りも何もわからない。ただ私は自分でも知らない何かが命じるままに従って息を殺し、待ち受ける彼の静かな決壊に身構えていた。

「所詮未熟な一年坊主より、二年のセッターを使う方がいい」

恐ろしく冷え切っていて、けれどその奥深くに消し止められない燻りを押し殺した声に、何かが音を立ててひび割れた。

駄目だ。心臓が嫌な拍動を始める。その鼓動に既視感が沸いた。顧問が私の名前を読んだあの時、帰りの部室の前で立ち尽くしたあの時と同じ拍動。

手の中で束になったままのプリントがぐしゃりと音を立てる。いつだって涼やかで、他人の眼も言葉もいなすように払って迷いなく歩んでゆく大きな背中が、どうしようもない軋みを孕んでいる。
駄目だ。二度目の思いは吐息だけの声になった。


「俺のトスなんかなくても、アンタならいくらでも点を獲れるでしょう」


ぱきん。何かが割れた。否、もしかすると折れたのかもしれなかった。
渋い山吹色と薄墨色が綺麗なジャージの背中が翻る。長い脚が迷いなく白線を跨ぎ、あっと言う間にコートを遠ざかる。

その背中の向こうに現れた銀髪の先輩―――木兎先輩は根が生えたように立ち尽くしていた。呆然と見開かれた大きな瞳が、困惑と動揺、何より酷く傷ついた色に凍り付いているのを見た瞬間、足裏から凄まじい衝動が駆け上ってくるのが分かった。

行かなければ。
跳ね上がるつま先を力ずくで抑え込んだのは理性だった。部外者が余計なお世話を。何も知らない癖に顔を突っ込むなんて。理解者ぶってそんな自分に自己陶酔したいだけなんじゃないのか。

自分を戒め、疑い、非難する考えが怒涛のように吹き荒れた。
お前に何がしてやれる。その糾弾が最も突き刺さる。その瞬間蘇る声があった。

『知ってる』

凪いだ声だった。肯定とも否定とも取り難く、慰めと呼ぶには素っ気ない、彼を深く知らない私には酷く淡々として聞こえる声だった。

けれどそこに込められたものが、無関心でも突き放した響きでもないことは十分にわかった。あれは赤葦くんにしか言うことのできない、彼にしか意味を持たせることのできない言葉だった。

だから私は救われたのだ。

「―――ッ、」

行くんだ。

プリントを投げ捨てるように床に置いた。入口に揃えて置いたシューズを鷲掴み、身を翻して、彼が出て行った反対側の出口を目に焼き付ける。光の洩れるそこだけを見つめて、靴下のまま体育館の隅を一直線に駆け出した。
私に何が出来るかなんてわからない。多分何もできないだろう。でもそれを立ち止まる理由にすることはもっとできない。

「え、あれって水泳部の…」
「名字ちゃん…っ!?」

困惑の声が耳を掠めた気がした。振り返らずに走り抜けた。動け、一歩でも早くだ。どうしようもなく足が重い。まるで水の中にいるようだ。
息を切らしてたどり着いた入口で、数段の階段をひとっ跳びで飛び降りた。柔らかく弾ませた膝がそれでも砕けそうになるのを無視し、突っ込むようにつま先をシューズに押し込む。

背中に刺さる視線もざわざわと伝播する動揺のささやきも全て背中の後ろに投げ捨てて、私はすでに姿のないすらりした背の高い猫っ毛の後ろ姿を思い出し、足の赴くままに走り出した。






力任せに捻った蛇口から勢いよく噴き出した水道水は氷水の様に冷たかった。
ただでさえ冬の練習で悴んだ指先の皮が悲鳴を上げる。無視して手荒く指を洗い、気泡に白く霞んだ凍るような水を手のひら一杯に掬って乱暴に顔を洗う。

「っ…くそ、」

ついに。ついに、癇癪を起こしてしまった。
俺をずっと庇い、後輩として支えてくれていた先輩たちを相手に。

沸々と胸で燻る苛立ちが渦を巻く。その根元に隠したのは自己嫌悪と後悔の苦々しさだ。半ば衝動的に吐き出した不満は言葉になった途端、正当性をくすませた独り善がりな八つ当たりと化した。それも元凶に向かってならまだいいものを、よりによって。



好きで、副部長なんか、なったんじゃない。

言ってはいけない、言うわけにはいかない。きっと俺と同じで呑み込み続けてきたそれを吐いた時、名字の泣き顔に走ったのはささやかな絶望だった。


好き好んで副部長になんてなったわけじゃない。でもそのために積んできた努力がある。
名字はあの言葉で、そんな努力のすべてを、自らの言葉で一度は否定した。それはどれほど悔しくて、苦しくて、悲しく遣る瀬無いことだっただろう。

身の丈に合わない肩書きは重い。理性では焦っても無駄だと十分承知していても、負った役目に見合う働きが出来ないことにもどかしさが沸く。
余裕のなさが自分の幼さを知らしめる。勝手に拗らせた感情で木葉さんたちの助けを素直に受け取れす、気づかぬフリをして許されるたびに自己嫌悪で閉口することが増えた。

気持ちの不調はプレーに表れる。そうすれば徐々に風当たりは強さを増してゆく。あからさまに陰口を叩かれて、少しずつ冷静を保てなくなっていた。

『所詮一年は一年だな』
『アレのどこが副主将だよ』

後ろ指を指されるのはしばしばだった。それでもまだ冷静でいられたはずだった。現状から見て言われている内容は至極真っ当だと分析する冷静な自分さえいたのだ。
それなのに。

『全然気持ちよく打てねーし』

いつもだったらすみませんの一言で流してしまえる台詞だった。なんなら普段もっと無茶な要求に付き合ってきた、そしてそれと同じくらい助けられてきたはずの木兎さんの、なんでもない些細な不平だった。
なのにそれが、切ってはいけないものを切ってしまった。

ざくり、背後の砂利が鳴る。

「…、」

誰が来たんだろうか。バレー部か、はたまた全くの部外者か。誰でもいい、振り返ることはしない。誰であっても今は顔を合わせて会話したいとは思えなかった。

もうほとんど感覚のない手で白く迸る水を掬い、顔を洗う。感情も一緒に空っぽにするように何度も繰り返したが、鬱屈する後悔と自己嫌悪は質量を増して沈殿してゆく。
いっそ地面にうずまって消えてしまいたい衝動。奥歯を噛み締め水道の蛇口を力任せに捻る。水音がやんで、冷たい風が濡れた顔に容赦なく吹き付けた。腕を持ち上げ、ジャージの肩口で頬をぬぐおうとしたその時、視界の右端に見覚えのないタオルが差し出された。横を見る。

「!」

上下黒のウィンドブレーカー、風に踊る短い髪。首元までしっかりジッパーを上げた大きめの襟から、細く白い首が頼りなく伸びている。
緊張と心配を足して割ったような顔は形容しがたい無表情をかたどっていた。どうしてここに、名字が。

「……」

何も言わない名字のまっすぐ伸ばされた腕からタオルを受け取る。黙って顔をぬぐえば、微かな柔軟剤の香りが鼻を掠めた。寒さで悴んだ指先も一緒に拭いて、水色のそれを彼女に返す。彼女はやはり何も言わずにそれを受け取り、やはりサイズの大きく見えるウィンドブレーカーのポケットにそれをしまった。そして何も言わず立ち尽くす。

少しずつ冷静を取り戻してきた思考が告げる。訪れたタイミング、挨拶もなく黙する姿、緊張を孕んだ表情から推測できるのは、名字が先ほどのやり取り、俺の失態を目にしていたということだ。

放っておいてくれればいいのに。それは苛立ちのというより居心地の悪さからくる感情だった。痛いほどの真剣さには余計な詮索も同情もない。それでも彼女の瞳は言葉よりずっと必死に訴えかけてくる。

不意に名字が再びウィンドブレーカーのポケットに手を突っ込んだ。何を出したのかを目視する間もなく、彼女が俺の方に一歩踏み出す。詰まる距離、一瞬身を引こうとした足より早く、名字の右手が俺の右手を、そして左手が俺の左手を捉えた。

「っ、…!?」

寒さで真っ赤に悴んだ両手の指が、束にされてぎゅっと握られる。片側からは仄かな温もりを保ったてのひらの柔さが、もう片側からは体温とは違う人工的な熱が伝わってきて、指先がじんじんと痺れた。小さな手の端から除く白い布に目が留まる。そうか、カイロ。

「ゆび、大事にしないと」
「、」

彼女の手には余る俺のそれを見つめたまま、名字がぽつりと言った。まるで視線からも熱を注げると言わんばかりに握り込んだ手を見つめ、彼女は俯いたままこちらを見ない。
伏せられた長い睫、夏より白くなった肌、引き結ばれた唇の淡い色。一回りも二回りも小さくて柔らかな手のひらから伝わってくる温度が、じわじわと感覚を呼び戻して血流を騒がせる。

ゆっくりとせりあがってくる温度の理由には気づかないふりをする。こんなところを誰かに見られたら。そんな場違いなことを思うのに、目の前の名字はあまりに真剣で、その繊細な手を振り払うのは忍びなく、結局されるがままになるしかない。
それでも声をかけようと口を開いた、その時だった。

「がんばろう」

祈るように、願うように、握った手に一層の力を込めて、名字が言った。
固く閉ざした瞼を長い睫が飾っている。心臓が音を立てて止まった。追いかけるように彼女は言った。

「一緒にがんばろう」

痛いほどの、痛いほどの真摯さ。彼女はいつもこうだ。
夏の日のプールの真ん中でも、冬の日に走る外周の途中でも、彼女の瞳はその脆さを振り払うように、触れるのも躊躇うほどの切望と決意を秘めて、常に研ぎ澄まされている。

頑張れでも、頑張らなくてもいいでもない。
一緒に頑張ろう。
そんな台詞は、これまで言われたことがなかった。

最後に一瞬だけきゅっと力を込め、俺の目を真っ直ぐ見つめて、名字の手が離れる。やや熱を失ったカイロは俺の手に残したまま、彼女はくるりと背を向けると体育館の方へ走ってゆく。

俺がそうしたことがないように、彼女が俺の領域に踏み込んでくることはない。俺たちは片方がもう片方の手を引いて進むような関係じゃない。
ただ手を伸ばして腕一本分足りないような距離で肩を並べ、同じ方向を向いて進むことが出来る唯一の存在。そこに同じ道を行く人間がいる、一緒に進もうと言える相手がいる。それがどれほど幸運で、心強いことか。

「…、」

カイロを握りしめる。柔いてのひらと伏せられた瞳の真剣さを思い出した。心臓がじりじりと熱を持つ。

「…がんばろう」

もういない彼女に返事をして、カイロをジャージのポケットに突っ込んだ。深呼吸をする。手はまだ温かい。彼女はきっと今からまた黙々と外周に励むのだ。

戻らなければ。そして頭を下げるのだ。俺の未熟さで落とした点を全部取り戻すために、あの元気すぎる主将に、食えない先輩たちに謝りに行こう。
それから帰りに、それが無理なら月曜にでも、名字に何か礼をするのだ。何でもいい、彼女があの痛々しいほどの真剣さを潜めて、柔らかく笑うことが出来ることなんでも。

150820