孟子はこう語る

何か奇妙しい。

初めに違和感を感じたのは数日前だった。廊下から見えた隣の教室の中、目に留まった普段と変わらず笑う名字に、どういうわけか言いようのない引っ掛かりを覚えた。
一度察知した形にならない違和は日を追うごとに膨らんで、何ら変わりなく見える名字の様子と俺が受け取る印象の差違はどんどん広がっていった。

それなのに周りの人間はそんな違和感など微塵も感じているようには見えない。俺の勘違いか何かなのかと及川に尋ねてみると、「俺も普段の名字さんをそんなに知らないから何とも言えないけど、岩ちゃんが言うならそうなんじゃない?」といういい加減な、しかし割と真剣なトーンの返事が返ってきた。

「俺が言うならって何でだよ」
「だって、岩ちゃん最初から名字さんの表情の微妙な違いを見抜いてたし」
「…」
「あだっ、ちょっなんで肩パン!?」

言い当てられた気がして腹が立ったので、とりあえず一発シバいておいた。

俺は及川みたく饒舌な方じゃないし、バレー以外で(まあバレーでもそんな頭脳派じゃないが)ごちゃごちゃ分析したり考察するのは性に合わない。論より証拠、直感重視。グダグダ考えてる暇があったら、思うように動いた方が形になるのが早いタチだ。

案の定今回もそんな通例どおり、考えてもわからないことをぐずぐず考えるのはさっさとやめた。土日を跨いで月曜、部活がオフのこの日を狙い、俺は足で動いて名字を捕まえ少し話をしてみることにした。
杞憂なら別にそれでいい。少し気になったから聞いてみただけだと言えば名字は気にせず笑ってくれるだろう。…何事もない、という可能性は正直な感想かなり低いと見ているが。

確か名字は放課後6時まで自習し、それから莉子の迎えにゆくと言っていたはずだ。それを踏まえ、放課後の少し後に隣のクラスに向かうとしかし、人の疎らな教室に名字の姿は見当たらなかった。
トイレかどこかだろうか、と思いつつ近くにいた女子に聞くと、「ちょうどさっき帰ったよ」と言われて驚いた。今日は帰ったのか?礼を言うのもそこそこに急いで昇降口に向かう。今出たならまだ間に合うはずだ。

「名字!」
「、え」

いた。案の定下駄箱で靴を履き替える名字に追い付くことが出来た。俺を振り向いた名字は驚いたようにローファーを持つ手を止め身体を起こす。こちらを見上げる顔はどこか青白くて、やはりあの違和感は杞憂でないとますます強く感じた。

「今日は自習しねーで帰るのか」
「あ…うん、まあ。岩泉くんは…」
「月曜は部活オフなんだよ」
「そっか、そうだったね」
「莉子の迎えか?」
「、……うん」

やっぱりと言うべきか、妹絡みか。視線が泳ぎ、さっと強張った顔が俯き加減に背けられる。一歩距離を詰めて少し屈むと、彼女は驚いたようにこちらを見て、多分反射的にだろう、身を引いた。
だが後ずさったりはしないことに少し安心し、努めていつも通りを装い、萎縮させないよう探りを入れてみる。

「なんかあったのか。元気ねーぞ」
「…、……」

大きく見開かれた瞳に蛍光灯の白が踊る。さざ波立って揺れる澄んだ黒の瞳をじっと見詰めた。
長い睫が二、三度素早く上下して、名字は一瞬躊躇うように唇を開き、…そして再び引き結んだ。

「…ううん、何も」
「…」

首を振って紡がれる言葉。覚えのあるトーンと変わらない声音。
けれど違う。

「ちょっと寝不足なだけだよ」

持ち上げられた顔の、そこに浮かんだ笑みが、違う。

「…幼稚園行くんだろ?送る。つーかついてく」
「、え?」

名字の腕を掴み歩き始める。目に見える以上に細く頼りない腕だ。この腕で妹を抱き、買い物袋を持って、鞄を背負うのはどんな負担だろう。

無性にむしゃくしゃする。それがどうしてだか上手くは説明出来ない。ただここ数日ずっと、名字の笑みに何か違和感を感じる度に、彼女が妹の件の礼だと言って焼き菓子を持ってきたあの時に感じたのと同じモヤモヤが胸を掠めた。そして今、その笑みが自分に向けられた時、それははっきりとした苛立ちへ姿を変えた。

躱された。そうだ、その言葉がしっくりくる。
あの出来損なった笑みであしらわれたことが、気に食わない。

「ちょ、ちょっと待って岩泉くん、何?ごめん、ついて行けないんだけど、」
「…」

酷く戸惑った声が後ろから懸命に呼びかけてくる。校門を過ぎても道に出ても、決して強引に腕を振り解こうとせず、まず話を聞こうとする姿勢。健気という言葉がよく似合うそれが心を波立たせて、一旦足を止めた。

「岩泉くん、私何かした?」

目一杯繕われた平静を見下ろす。人にさせて気持ちのいい表情じゃないのは確かだ。けど、自分の前でされて気持ちのいい表情でもない。


「お前、その顔。姉貴の顔すんの、やめろ」


やっぱり考えるよりも口を開いた方が形になるのは早かった。
そうだ、姉の顔だ。物わかりよく頷き、優しく笑って、全て受け入れ全て許す。大げさに言えばどこか聖母のような空気を纏ったその笑みが、俺は別に嫌いなわけじゃない。名字が莉子に向ける笑みはいつも慈愛と呼ぶべき愛情に満ちていた。本当に妹を大切にしていることが言わずとも伝わってきて、…それがふとした時にこちらに向けられる度に、照れたガキみたいに落ち着かなくなるほどに。

けれど時おり、多分名字自身も無意識に、それは仮面の代わりに被られることがあるのだ。疲れている時も苦しい時も、自分の心がすり減っている時も、まるで「そうしていなければならない」ように名字は笑う。穏やかな笑みを盾にして相手に踏み入られることを拒絶する。

「俺はお前の兄貴じゃねぇっつったが、弟だっつった覚えもねぇよ」

誰だって関わって欲しくないことの一つや二つあったって不思議じゃない。けれどここ最近の不自然さは余りに長引き過ぎていた。
百歩譲って友達や教師に向けるのはまだ良い。だがそれを、綺麗に繕うばかりの見え透いた虚勢を、俺相手に向けるのが気に入らない。
ああだから、

「大丈夫じゃねぇときに、」

大丈夫だと言うな。
そう言ってやるつもりで、出掛かった言葉が喉に詰まった。

見下ろした名字の顔から、表情が消し飛んでいた。


「…やっぱり、“お姉ちゃん”にはなれなかったか」
「…名字?」


歯車が一つ外れたような、不自然な明るさを残した声音だった。
震えている。手の中に掴んだままの、心配になるほど細い腕が、華奢な肩が慄くように。

「そりゃそうだよね、あの子にわがまま一つ言わせてやれなくて、お姉ちゃんになんてなれるわけがないよね」

色の無い顔に、出来損なった笑みが無理やり貼り付けられる。最早それは虚勢じゃなかった。名字が自分を護るための、最後の砦だった。
薄く膨らんだ吹きガラスに、細かい亀裂が走ったような錯覚。そして電撃が走るように理解する。

地雷を踏んだ。

どの言葉がなぜそうだったのかわからない。
だが間違いなく俺が言った何かが、名字の心の脆い部分を叩き割ったのだ。

「あのね、私、あの子のこと何にもわかってなかったんだ」

名字は笑う。その身体の震えに呼応するように、唇が、声が震える。何とか形を留めようとしていた笑みがくずれて、一点を見詰めて凍りついていた瞳から、ぼろり、大粒の涙が零れ落ちた。

「おい名字、」
「あの子があんなになるまで、私何も気付けなくてさ、それでお姉ちゃんだなんて、どの口で言えるんだろうね、」
「名字!」

砕ける。紡がれる言葉の意味を理解するより早く、ただその三文字が頭を過ぎった。
気のせいでも考えすぎでもない。酷い不安に襲われた。

崩してやりたかった。無理に繕われた笑みを引き剥がして、名字の思う通りの顔をさせてやりたいだけだった。
泣きたいなら泣いて、笑いたい時に笑えばいい。彼女に望んだことも言いたいこともたったそれだけで、砕いてしまいたいなんて微塵も思っていなかったのに。

「悪かった、違う、そういう意味じゃねぇ」
「わたし、」
「名字、聞け。俺の言葉が足りねぇのが悪かった。聞いてくれ」

一歩を詰めて腕を伸ばして、今にもばらばらになってしまいそうな名字のあちこちをかき集めるように抱き締める。小さい。引き寄せた体は腕が余るほど華奢で、少し力加減を間違えれば潰れてしまいそうに柔らかくて、小さな額は俺の鎖骨にくっつくほどにしか届かない。

こんなに頼りなかっただろうか。こんなに脆かっただろうか。
背筋を伸ばし、大人たちに頭を下げ、小さな妹の手を引く名字の姿は、あんなに頼もしく見えたのに。

「俺はお前に、無理して笑うなって言いたかっただけだ。笑いたくねぇなら笑わねぇでいいし、泣きたいなら泣いていい。学校でまで姉貴になることねーだろ、なあ」

名字と莉子はいつ見ても似合いの姉妹だった。――――いっそ、どこか出来過ぎているほどに。
だからこそ二人が“普通”の姉妹じゃないことは何となくわかっていた。莉子はあの年にしちゃあまりに表情が希薄で言葉も拙かったし、名字はいっそ過保護なほどいつ見ても妹を大切にしていた。
その顔はいつだって優しい姉のそれをしていて、そこにはひとかけらの嘘もなくて、けれどいつも一抹の違和感があった。

理想の姉でいたい。
名字の横顔はいつもそんな願いをひしひしと伝えてきた。それは妹の前だけで仮面を被るような偽善じゃなく、質実ともに内面からそうなりたいという誠実な願いだったはずだ。

そんな健全で善良で、けれど世間一般の兄姉が抱くにしては些か強すぎる願いと、そのための一生懸命さ。それがどこかで、知らぬ間に空回っていたんじゃないか。

名字と莉子の間に何があったのかは知らない。だから、今こうして俺が勝手に吐く言葉の一つ一つが名字の中でどんな意味を持つのか、俺にはやっぱりわからない。

だから結局帰ってくるのだ。
一生懸命に繕われた傷だらけの笑顔を見るたび、理想の姿でいたいと必死に頑張る横顔を見るたび、口を開けば一番に出てくる率直なこの言葉へと。

「笑えねぇ時にまで笑うな。お前は普通にしてたって申し分ない姉貴だってことは、俺だけじゃなくてみんな知ってる。
…莉子の前で弱いとこ見せらんねぇってんなら仕方ねぇけど、お前だってまだ子供なんだよ。もっと肩の力抜いて周りに甘えろ」

返事はなく、震えも止まらない。薄い薄い肩を掴んで覗き込む。名字が立っていられるよう支えるのに十分な、けれど痛い思いをさせない程度の力に加減するのに酷く苦労する。そうしてぼろぼろと涙をこぼしながら大きく見開かれたガラス玉のような瞳に、噛んで含めるように言い聞かせた。

「それとも、お前の周りにゃ頼れるヤツは一人もいねーってか」

濡れた頬をぎゅっと拭って尋ねてやる。名字は濡れたまつげを二、三度上下させて、それから小さな子供のように首を振った。

「わかってんじゃねーか」
「…じゃあ」
「ん?」
「いわ、岩泉くん、も?…頼っても、」

言い終わるより早く、じわり、俺を見上げる潤んだ瞳の縁に、再びなみなみと涙が満ちる。
一度は収まったはずの心臓をかきむしられるような気持ちが沸々と舞い戻ってきた。畜生泣くなよ、どうすりゃいいかわからねーだろ。

指通りの良い黒髪に触れて、でもこんな時の撫で方なんてやっぱりよくわからない。結局、多分血迷って、もう一度距離を詰めて抱き締めた。さっきよりずっと鮮明に感じる柔らかな身体から香る、甘い匂いが鼻を掠める。シャツの端がきゅっと握られるのがわかって、心臓がどうしようもなく締め付けられた。
一拍置いて聞こえたくぐもった嗚咽と震える肩に、酷く庇護欲を掻き立てられる。

「…ここでダメだっつったら、俺ァなんのためにここにいるんだよ、阿呆」

泣きたきゃ泣けと言っておいてなんだが、あんまり泣いてくれるな。俺は別にお前が泣くのが好きなわけじゃない。
ただ、勝手を承知で言うなら、どうせ泣くなら安心して泣きつかせてやりたいと思うのだ。他の誰でもなく、俺自身に。

To be.
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