銀幕の彼方の夜
たっぷり30分はリミッターが外れたように泣き止めず、馬鹿みたいに「ごめんね」を繰り返すしかなかった私に、岩泉くんは文句一つ言わず胸を貸していてくれた。
謝る度に降ってくる「いいから」「謝んな」「わかったから」はどれも短くて、けれど体を離そうとする度に、逞しい腕は私をぎゅっと抱き寄せ放してくれなかった。
『まだ泣き終わってねぇだろ』
泣き止む、と言わない彼の優しさに、私は何度も涙と嗚咽を堪え損ねた。慣れない様子で背中を叩いてあやしてくれる分厚い手のひらは、私にただ突っ立って泣きじゃくるだけでいることを許さなかった。
『黙って甘えてろ。全部一人で何とか出来るなんて自惚れんな』
少し屈んだ彼に諭される。厳しい言葉の筈なのに染み入るほど優しく心に馴染んで、ひび割れた心臓がぎりりと痛んだ。
彼の腕の中にずっと留まっていたいと願う思いと、その恐ろしく心地良い安寧からすぐにでも逃れたいと思う衝動。胃の腑を焦がすような二律背反に掻き乱されて、言葉も想いも形にならない。
救ってほしい。掬いだしてほしい。
揺さぶるような衝動に耐えかねて彼のシャツを握りしめれば、岩泉くんが一瞬息を飲むのがわかった。それから耳元に落ちてきた小さな吐息が、囁くように私を呼ぶ。
『名前』
ああ―――落ちてゆく。
彼の存在の温度が、私の心臓の奥深くに。
神経の一本一本を絡め捕られる錯覚。絆されるなんて言葉じゃ済まない甘い懐柔が、心の脆い部分をどろどろに溶かしてゆく。
髪を梳かれ、背を叩かれ、呼べば何度だって応えてくれる。本当に泣き止むその時までぐずぐずに甘やかされて、彼の真っ白な優しさを享受しながら、私は確信に似た予感に戦慄を感じずにはいられなかった。
「…莉子と私はね、血の繋がりがないんだ」
「、」
かたんかたん。夕暮れ時の列車の車内に人は疎らで、心地よく揺れる車体の音が鼓膜を震わす。
長い沈黙を破るのは存外簡単なことだった。ふっと何かが降りてきて、ころり、言葉は転がり出ていった。
隣から注ぐ真っ直ぐな視線に貫かれる。わかっていても目を合わせるのは何だか違う気がして、ただ向かいの窓の向こうで流れ去ってゆく景色を見つめ続けた。
莉子の見舞いに向かうと言った私に、彼は同伴すると言って譲ってくれなかった。結局その言葉に甘えて二人乗り込んだ列車の一車両は閑散として、私と彼以外に乗客はいなかった。
「あの子は、離婚した私の父親の、同棲相手の連れ子だったんだ。莉子が今6つだから…学年で言えば11違いになるかな」
「…そらちっせぇな」
彼に指折り数えてみせる。次の春でやっと7つになる妹と来年には18になる私。小さ過ぎる妹と似てない姉。
ちっちゃいね、と松川くんが口にするのも当然の違和感と、時折岩泉くんが投げかけてきた無意識の疑問を、私はいつも無言でかわしてきた。足元はいつだって丈夫に見えて、本当は不安定な薄氷のようだった。
紐解くように一つ一つを話した。莉子の出自、私の家庭、養子縁組みと家族の再スタート。全て洗いざらい話して、それから少しだけ沈黙に浸った。
「ごめん、隠すつもりはなかったんだけど…どのタイミングで何から話せばいいかわかんなくて」
黙っていた裏側に後ろめたさがあったわけじゃない。ただ本当に、どんなタイミングでいつ話せばいいか、そもそも聞かせていいものかどうかもわからなかったのだ。
血の繋がりがどれだけ軽くて重いものか、20年にも足りない人生ながら実感して生きてきた。それでも私はあの子の姉になると決めたその時から、自分に甘える隙を与えたくなかった。
実の姉妹じゃないから。それを理由にしたどんな言い訳も逃げ道もしたくない。人からの慰めも同情も「なら仕方ないよね」なんて理解も欲しくない。だから口にしなかった。
けれどもう理解しなければならない。それは傲慢と紙一重の、私のエゴだった。
「…名字は」
「うん」
「出来た姉貴だと思うぞ、俺は」
「……そうかな」
「おう。だから、」
かさかさして硬い、けれど温かい指が酷く気遣わしげに目元をなぞる。もう泣いてないよって少し笑ったら、唐突に視界がゆがんだ。
「あんまり頑張り過ぎんな」
おかしい、不思議だ。視界がゆがむ。あんなに泣いたのに、まだ泣けるのか。
「無意識なんだろうけどな、お前は普通にしてても莉子の前じゃ姉貴の顔になってんだよ。だから安心してもうちょっと肩の力抜いてろ。莉子の前じゃ泣けねぇってんなら俺の前で泣けばいい」
意思を無視して流れる涙をなぞるように優しく拭われる。やめてほしい。やめないでほしい。伸びる指に、その先の腕に縋りたがる弱さが独り歩きする。
唇を開いた。言葉より先に出て来たのは殺し損ねた嗚咽だった。
「なあ、名字」
「いいから」
「…」
「だいじょぶだよ、私」
「アホ、どこが大丈夫なんだよ」
「…っ」
情けなくよれた涙声を両断される。戻れなくなることがわかっていながら傾くばかりの心臓は、感情を繋ぎ止めておくには余りに頼りない。
私の涙で濡れてゆく、彼の骨ばった長い指へと目が吸い寄せられる。滴が転がり伝ってゆく指先を捕らえたのは無意識だった。
戯れるように触れ合って、指が絡んで微かに濡れる。喉元から抉り出すようにしてやっと言った。
「あんまり優しく、しないで」
彼の優しさは痛い。真綿のように真っ白で柔らかくて、だからこそ包まれれば包まれるほどに息苦しくなるのだ。
頼っていいかと尋ねたのは間違いなく私の本音で、頼るわけには行かないというのは理性の主張だった。
委ねてしまえば楽になる。溺れてしまえば簡単だ。けれど私は恐ろしかった。頼るための温もりを、甘えることの安らぎを知った自分が、一人で立てなくなるのが怖かった。
「頼っていいかって聞いといて、ほんと勝手でごめん。でも、いわいずみくんがいないと、私、ダメになりそうで」
母さんはずっと精一杯頑張ってる。莉子はもうこれ以上頑張れないほど頑張ってる。
私は母さんの背負う分を少しでも代わりに背負って、莉子が抱える分を少しでも軽くしてやらなければいけない。
そのためには真っ直ぐ立ってなければならなくて、それは酷く骨の折れることだった。本当はずっと寄りかかることの出来る何かが欲しかった。
けれどだからこそ、その支えの基を、こんな不確かで脆い感情にするわけにはいかないのだ。
このいびつな心酔と依存でもって、彼に寄りかかることは許されない。
ずっとそうだった。このひとの優しさに触れた時から、その温もりにたまらなく焦がれて、同時にたまらなく恐ろしかった。
私の無意識はずっと警鐘を鳴らし続けていたのだ。これ以上好きになるわけにはいかないと。
そう思っていた時点で、もうとっくに遅かったのに。
「ごめん、でも、」
ひとりで立たせて。
「―――……」
吐いたそばから自己嫌悪が首を絞める。わかっている。私の言葉の全てが酷い矛盾まみれだ。彼の指に、優しさに縋りながら、頼りたくないなんてどの口で言えるだろう。
「……悪ィな」
そっと頬へ伸びてきたもう片方の大きな手が、顔を上げるよう私を促す。拒んで深く俯けば、彼は無理強いするでもなく自ら屈み込んできた。
見えたのはただ、息を呑むほど美しい極彩色。静謐を湛えた、真っ直ぐな眼差し。
「そいつは聞いてやれねぇわ」
―――この人はなんて優しい眼で、なんて残酷なことを言うんだろう。
岩泉くんがそっと目を伏せる。長い睫が綺麗な瞳に翳りを落とすのが見えた。
動けない。彼の温度が、強くなる香りが、無防備に晒した心臓を拘束する。
傾いだ首、落ちる影、それから。
「―――…ずりィタイミングなのはわかってる」
瞬く視界がクリアになる。掠れた囁き声が流れ落ちる涙をかすめた。
こわごわと瞳を持ち上げれば、まるでそれを拒むかのように後頭部を掬われて、逞しい首もとに誘われる。
「けどな、お前、ちったァ俺を信用しろ」
一度限り、柔らかく触れあったくちびるが、熱い。
「今回きりだなんて無責任なこと言わねーよ。これからだってなんかあったら聞いてやるし、泣きたいなら存分に泣かせてやる。名字が何考えてるかなんて言わねー限り俺にはわからねぇけどな、生憎俺はお前に頼られたぐらいで共倒れするほどヤワな造りァしてねぇよ。
それに、お前はつまずいたって立ち上がるし、泣いたって絶対諦めねぇだろ。もっと自分に自信持て。ついでに俺を信用しろ。
心配すんな、いざって時は背中シバいてでも立たせてやる」
心臓が震えている。もうずっとだ。彼が始めに私の眼を見た時から、どうしようもないほど揺れている。
踏み出せない弱さを盾にして、そのくせずっと焦がれていた。このひとの眼差しが、言葉が、優しさが欲しくてたまらなかった。
熟れた心臓が綻んで、あの熱くどろりとした何かが溢れ出す。堪え損ねた嗚咽が漏れる。指先で縋りついた私を、岩泉くんは一層強く抱き締めてくれた。
「……コレの分もまとめて責任取ってやっから」
彼が濡れた指先で私の唇に優しく触れる。黄昏時の陽光が彼の瞳を美しく染め上げるのが見えた。まばゆい黄金を抱いた虹彩から目を離せない。
薄い唇が開かれる。そこからこぼれた囁きが鼓膜を震わせ、私の意識を白く満たした。
「お前の傍にいる権利が欲しい」
どうしよう、心臓が泣き止まない。
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