虚像を結んだ絆
「、あれま、名前。まだ寝てなかったの」
「うん。…おかえり、母さん」
「はい、ただいま」

パンプスを脱いだ母さんはやや眠たげに笑ってみせる。その胸に抱かれた莉子は眠っていた。長い睫に縁取られた目蓋の向こうの瞳は当然伺えなくて、不安と安堵の入り混じる複雑な感情に唇を噛んだ。

「…親子丼あるよ。食べる?」

莉子、どうだったの。その一言が出せなくて、私はただそう聞いた。私の電話を受け飛んで帰ってきた母さんが、人形のような莉子を連れ病院に向かったのが8時。時刻はすでに11時を回り12時に近付いていた。

「!食べ〜る〜」
「手ぇ洗って座って待って」
「はいはーい」

いっそどっちが娘かわからなくなる会話だが、これが私の母親だから仕方ない。50も近い年で、これまで相当な修羅場を幾度も潜り抜けて来たのに、滲み出るべきラスボス感はこの茶目っ気で一切無にされている。
母さんは莉子をソファに寝かすとテーブルにつき、私はその前に温め直した親子丼を差し出した。

「…莉子ね、少しオーバーヒートしちゃったんだって」
「、」
「明日から一週間ほど、幼稚園をお休みして病院で様子を見ることになるわ」

母さんの唐突で何気ない口調による、事の次第の簡潔な要約と今後の予定に、私は一瞬何を言われたのか理解するのに手間取った。遅い夕食を頬張りながら、いつもと変わらない調子で母さんは続けた。

「お医者さんが言うには、莉子本人も自分が無理してたことに気づいてなかったみたい。考えてみれば当然よねー、楽しいと悲しいの区別さえやっと最近覚えた子だもの。
普通の子でさえ抱え込んでるものを見抜くのは難しいのに、あの子は特に自己主張が出来ないからね。そのあたりはひとしおだよ」

気づかなかったのは私の所為じゃない。そう釘をさすような言葉に黙り込むと、やっぱり、と言いたげな目で母さんは私を見た。納得がいかない。たまらず私は言い募った。

「でも、あんな…あんな、自傷行為に走るなんて。何の兆候もなかったのに」
「…何かなかった?」
「…」

確かめるような口調。母さんは何か感じ取っていたのだろうか。思って、不意に気付いた。
染まる頬、饒舌なはしゃぎっぷり。そうだ、順調だった―――むしろ、順調過ぎるほどに。

あの“順調さ”が、オーバーヒートだったとすれば。


「……、」
「…多分だけどさ、あんたが一生懸命お姉ちゃんをやろうとしてるように、莉子も一生懸命妹でいようとしてたのよ」
「…何、それ」
「うーんだから…名前、あんた頭ではきっと十分わかってると思うけどね、私たちはどうしたって“血の繋がった”家族にはなれないんだよ」
「…」


莉子は、離婚した私の父親の、同棲相手の連れ子だった。

母さんいわく、父親は酷く繊細な精神の持ち主だったそうだ。何がきっかけだったかは知らない。ただ私が物心ついたころには父はすでに精神を病ませてしまっていて、家族としてやってゆくことはほとんど不可能だった。

私に小学校の頃の記憶はあまりない。単に周りへの関心がなかったのかもしれないし、自分で都合の悪いことは忘れてしまったのかもしれない。
見かねて助けを差し伸べてくれた母の旧友を頼り、宮城に移ったのが中学入学前。中学半ばに離婚が成立し、ほとぼりが冷めた頃、連絡を断っていた友人や親戚に会うため地元を訪れたのは高一の夏の頃だった。

父親の新たな同棲相手に幼い連れ子がいるという噂を耳にしたのは、ちょうどその帰省中のことだ。


「私は莉子の実の母親にはなれないし、あんたも莉子の実の姉にはなれない。あんたはそれをよくわかってるから、わかり過ぎてて、逆に限りなく実の姉に近くなるために、“理想の姉”を演じてる節があるんじゃない」

ごつん。実に何でもなさげに言われた台詞に、刹那的な衝撃と回想が脳味噌を揺さぶった。

良い姉でいたい。血の繋がりなどに負けない本当の姉妹になりたい。そのために必要な努力なら何でもするつもりでいた。その気持ちに嘘はない。

けれどわかっていた。ただ気付かないフリをしていただけで、いつか何とかなると目を瞑っていただけで、私と莉子の関係は、いつも何処かでいびつだった。

まるでごっこ遊びをしているような、薄っぺらな理想像の再現。ちょうど姉妹ごっこのように、私たちは不自然な完璧さを被って、常にいびつにゆがんでいた。


「なんて顔してんの」
「……」
「あのね、名前。何も責めてるわけじゃない。あんたはあの子のために本当に真剣だから、思いが強過ぎて、少し空回りしただけよ。莉子もそれに一生懸命応えようとして、少し頑張り過ぎて、まだ整理出来ないいろんなものの蓋が開いちゃったんだよ。

家族なんてもん、血が繋がってようがなかろうが上手く行かないことしかないの。事実私らがそうだったでしょうが」


あの夏の日を思い出す。

連れ子という三文字に不安しか感じず、様子を見に行くか否か、母子でさんざん迷った。もしかすると父を支えられる女性が現れたのかもしれない。そんな一抹の希望を胸に意を決して訪れた昔の家はしかし、それはもう酷い有様だった。

大人は不在、足の踏み場も無く散らかった部屋、掃除も換気も怠られた空間。その中心で一人捨て置かれていた幼子の姿を見つけた時―――そう、ちょうど今日のような姿だった―――私は吐いてしまった。

小さな体は、至る所に凄惨な傷跡を負っていた。古い火傷も新しい痣も、何もかもが残忍な仕打ちを語っていた。


受けるべき関心と愛情を与えられず、泣くことも叫ぶことも諦めた赤ん坊を、サイレント・ベイビーと呼ぶと聞く。それを借りるならば、莉子は言わばサイレント・チャイルドだった。
五歳にも満たない年で、言葉も涙も感情も放棄し、諦めと絶望の深みに投げ込まれたがらんどうの目をして、ただ虚空を見詰めていた。


母さんは一言も言葉を発さず、ただ後にも先にもあれっきりの恐ろしい形相をして、傷だらけの幼子を抱きかかえて私を連れ、即刻病院に駆け込んだ。すぐに警察が動き、私の父親と莉子の母親は逮捕され、莉子は入院させられた。
二人の出会いや生活がどうだったかは知らない。ただ莉子の母親が私の父親と同様、心を壊してしまっていた人だったということは警察から聞いた。

名前、母さんね、この子を引き取ろうと思う。

莉子が保護され精神病棟に入院した一週間後、病室で眠るあの子の枕元で、ある夜母さんはそう言った。
私は何も返せなかった。ただ頷いて、決められる限りの覚悟をすべて決めた。

それから1ヶ月近く、母さんは有給の全てを使い、私も夏休みを丸ごと投じて、山のような手続きをこなし書類を書き上げた。母の友人である宮城の恩人は事情を聞くと飛んできてくれて、弁護士の手配から書類の扱いまで何くれとなく面倒をみてくれた。

恩人の方に助けられながら、様々な交渉と書類提出に追われる嵐のような夏が過ぎ、二学期が始まってしばらくした頃。
莉子は養子として名字の姓を与えられることが決まり、私たちは三人で宮城に帰ってきた。

「家族だけじゃない。人間が集まれば全部そう。間違ってたら直して、わかんなかったら聞いて、つまずいたらやり直して、…そうやって進んでくしかないんだよ」
「……うん」

上手くいかないのは当然だった。莉子は全てに対し無関心で、全てに対し無感動だった。それでいて突然フラッシュバックを引き起こしては可哀相なほどパニックに陥り、なすすべもなく病院に駆け込むこともしばしばだった。
言葉も反応も感情もなく、生きた屍という言葉がそのまま当てはまる有様で、私も母さんも時には一晩中泣いて苦しんだ。私たちの新しい“かぞく”のかたちは、恐ろしいほどいびつで複雑だった。

それでも私たちに落ち込む暇はなかった。カウンセリングに通い、尽くせる手は全て尽くし、そして必ずいつも笑った。母さんと私は毎日何でもないことで笑って、無表情な莉子を挟んでバカみたいなやり取りを続けた。
ご飯を食べて掃除をして散歩して星を見て横で眠って、そうして少しずつ、少しずつ、あの子が世界の感じ方を取り戻すのを待ち続けてきたのだ。

「まあ、仕事ばっかしてる母さんの台詞じゃないけど」
「…それはない。絶対ない」

へらりと笑う母が何でもない口調で紡ぐ理由が分かってしまう。どうにもならない感情が頭をいっぱいにして、喉が腫れ上がったように痛くなる。視界がぐにゃりとゆがんで、みっともないほど大粒の涙がこぼれた。
心臓が、心が痛い。溶けた鉄を注がれたように、白熱する痛みが心筋を食い破る。

あの子がようやく幼稚園に通えるまでになった時から、母さんは夜勤に復帰した。あの子を引き取ってから一年の間、ギリギリまで仕事を減らして過ごした分、貯金を切り崩していたからだ。
私はあの子の面倒と家事を自ら引き受け、母さんが仕事に少しでも集中出来るよう努めることに決めた。
仕事で母さんのいない間、莉子を護るのは私なのだと心に決めたのだ。


“姉”になるため、私は必死だった。けれどそれは私のための努力であって、あの子が“妹”になるのを手伝うような努力ではなかったのだ。


「…私が莉子を追い詰めたんだ」
「名前、」
「私のせいだ」


ぶるぶる震える手を拳に変え、喉を裂くように吐き出した。母さんは口を閉ざした。止まらない涙が情けなかった。
同情も弁明も赦しも必要ない。そんなものが一体何の役に立つ。

何が姉だ。言葉も表情も拙い、毎日を生きるだけで精一杯のあの子に無理を強いて、どの面下げてそれを名乗るんだ。

今まで積み上げてきたもの全てを振り上げる言葉の刃でズタズタに切り裂きながら、私はただ自分の拙さと未熟さを呪った。

To be.
150520
*prevnext#
ALICE+