群青にたゆたう

「ハイ莉子ちゃん、オムライスだよー」
「…」
「美味しい?」
「…」
「うんうんいい子だねぇ、たーんとお食べ」
「…」
「俺さ、及川ってやっぱイケメンとかじゃなくてただ残念なだけの気がすんだけど」
「あーうん、まあ絵的には誘拐未遂現行犯っていうか、ロリコン?」
「おい莉子、あんま近づくな。バカが感染る」
「ちょっお前ら酷くない?及川さん傷心!」
「っはは、ありがとう及川くん、ふふ、」

ほんの僅かにかじったスプーンの上の卵を見つめたまま、莉子は今日何度目になるかわからないフリーズに入る。そんな小さな妹を膝に乗せて、私はぎゃんぎゃん騒ぐ及川くんと彼をあしらう岩泉くん達を見て思わず笑った。

莉子がゆっくりオムライスを咀嚼する。光を反射する卵の黄色、ケチャップの酸味、タマネギの甘みを一つ一つなぞるように、少しずつ。

時刻は日曜日の昼、駅前のホテルのホール。驚いたことに、花巻くんのご両親が仕事の関係でもらったというランチバイキングの半額券で、バレー部さんの四人が私と莉子をお昼ご飯に招待してくれたのだ。

「莉子、美味しいね」
「…」
「にーにたち、優しいね」

一週間の入院生活を終えた小さな妹が家に帰ってきてから、もう二週間近くになる。先週から幼稚園にも休み休み復帰し、有給を使っていた母さんも完全に仕事に戻った。
そうして私の日常は、ゆっくり再生されようとしている。

見舞いに行ったあの日以来、岩泉くんは今まで以上に私たち姉妹を気遣ってくれるようになった。
完全に表情がゼロになっている莉子を見て、彼が何を思ったのかはわからない。いつも通りの様子で、けれどあの酷く綺麗な目を物思わしげに細めて、彼は前と変わらず不慣れな手つきであの子を抱き上げてくれた。

莉子が退院してから、岩泉くんは部活の無い月曜日、幼稚園へのあの子の迎えにまで一緒に来てくれる。あの子を真ん中に手をつないで三人並んで帰る間に、スーパーで買い物をすることもあれば、図書館に寄って一緒に勉強することもある。

いくら帰り道の延長とは言え遠回りには違いない。たかが週に一度、彼はそう言うが、強豪運動部の副主将を務める彼は帰宅部の私とは比べものにならない多忙ぶりのはずだ。
それでも「俺がしてぇようにしてんだよ」の一言で全て片付けてしまった岩泉くんに、私は返す言葉がなかった。


「莉子、食うか」

隣に座った岩泉くんが、及川くんのデザートから取ってきたらしい苺を莉子に差し出す。
小さな頭がゆっくり動き、岩泉くんの手の中のフォークとその先の苺を見つめた。それから徐に口を開け、綺麗な赤をしたそれをかじり取る。
ぱちぱち、瞬きを繰り返した莉子は苺を飲み込んで、それからまた彼の手ずからその残りを頬張った。

「ありがとう、気に入ったみたい」
「だな」

岩泉くんが笑う。その手は莉子の頭を優しく撫でると、ついでと言わんばかりに私の頭までかき混ぜた。
乱した髪をちゃんと戻した指先が、最後にするりと耳元を滑って戻ってゆく。びっくりして反応する間もなく、彼はもぐもぐする妹の口元を拭いにかかっていた。私は結局何も言えず、視線を彷徨わせた先でこちらを見ていた花巻くんに曖昧に笑ってみせる。

…これもあの一件以来だが、岩泉くんは思い出したように何気なく私に触れるようになった。決まっていつも、あのどうにも逃れがたい甘く優しい瞳をして。

「莉子ちゃん、おにーサンのタルトも食べる?」
「花巻がやるとなんか危ないヤツに見える」
「うっせー松川。アヒル口のくせに」
「それ関係ねぇし」

言い合う二人を余所に、莉子はすでにデザートに移っていた花巻くんがわけてくれたタルトを、差し出されるがまま頬一杯に頬張っていた。虫歯にならないようあとで歯磨きをしなくては。

「よかったねえ莉子、おいしい?」

さっき拭ってもらったばかりの頬にクリームをつけてむぐむぐする妹の小さな手を、戯れに握ったり揺らしたりする。優しく握ればほんの微かに握り返してくる小さな指と、真下の艶やかな黒髪を酷くいとおしく思う。

家に戻ってからのこの子は今までと変わらず、大人しいまま何を求めることもない。けれど時折、突然ふらふらいなくなろうとしたり、理由なく物を散らかしたりするようになった。

保護者の愛情を確かめようとするかもしれない。医師の言葉を思い返して、母さんと私は毎度この子を諭し、時に叱って、でも最後は必ずしっかり抱き締めることにしている。

反応は以前より希薄になり、表情の欠落は昔に戻ったようだ。全ては後退し、積み上げたものは一度崩れてしまった。
それでもいい。その目はずっと見詰めている。自分の世界に映るものを一生懸命に。
あのオーバーヒートはきっと、この子のリセットだった。
そうしてこの子は今、私の手ではなく自分の手で、目で、全ての感覚を使って、もう一度すべてを積み上げ直そうとしている。

私に必要なのは、その過程をじっと見守り、このつたない愛情を注ぎ続けることだけだ。






「花巻くん、今日はごちそうさまでした」
「いーよ、もともと俺っていうより親からの余りモノだしな」
「なあ、今度水族館とか動物園とか行かね?」
「まっつんナイス、それ絶対楽しい!ね、名字さん?」
「お前が楽しんでどうすんだよ」
「ホントに?ありがとう、じゃあ楽しみにしてる。今日は混ぜてくれて本当にありがとう」
「いいってそんな、またいつでも来てね」
「男四人じゃむさ苦しいしな」
「マッキーそれ言ったら終わりだから」

騒がしく(ほぼ及川の所為だが)小突き合う三人を交差点で見送る。眠る莉子を右腕に抱え、俺と名字はこの後ゲーセンに寄るという三人と別れて道を右に折れた。

せっかくのオフなのに、しかも寝た子は重いものなのに、と案の定言い募っていた名字も、ようやく諦めたらしく大人しくついてくる。
これまで生きてきた過程に関わる話だから当たり前かもしれないが、名字の遠慮癖は相当に根深いらしい。思うに、ほとんどは無意識なのだろうが。

「莉子、家でもこんな感じか?」
「、…うん。でも、及川くん達には少し緊張してたかな」
「あーやっぱな。なんか空気固かったろ」
「わかる?」
「名字ほどじゃねぇけど、なんとなくならな」

付き合いの短い俺ですら、退院後の莉子の変化には気付かざるを得なかった。完全な無表情。呼んで返ってくる反応は鈍く、言葉をかけても伝わっているのかわからない。まるで人形のような幼子を前に、ショックを受けなかったと言えば嘘になる。

それでも平然を保てたのは、以前と変わらぬ態度で妹を大切にする名字の姿があったからだ。
血の繋がりのない、わずか二年前にできたばかりの、手酷い傷を心に残す幼い妹。聞かされた話は確かに覚えている。それでも名字の横顔はどう見たところで、間違いなく愛情深い姉のものだ。

俺より敏いはずの及川達も確実に違和感を察知していたはずだが、最後まで名字に倣って莉子を単なる同級生の妹として可愛がっていた。何だかんだ、こういうところでも信頼出来る仲間がいるのは幸せなことだと思う。

黙する名字をちらりと見やる。アスファルトに落とされた視線の先にあるのは多分、先の見えない道筋なのかもしれない。
莉子が微かに身じろいだのをそっと抱え直す。名字がこちらに反応したその時だった。

「…あれ、名前?」
「、え?」

はた、と後ろからかかった女性の声に名字が驚いたように振り向いた。倣って踵を返した俺の目に入ったのは、買い物袋を積んだ自転車を押してくる中年の女性。
ふっと重なる面影に目をしばたかせる。だが既視感のわけを掴むより早く、名字がその答えを出した。

「母さん、なんで」
「今日早上がり、朝言わなかった?」
「うそ、聞いてないよ」
「えー言った、絶対言った。多分」
「いや、絶対と多分は両立しないから」

女子高生にも引けを取らないんじゃないかという茶目っ気で笑う女性、名字のお袋さんに、名字が呆れ顔をする。
突然の遭遇に驚いたのは当然だが、それに加えて、俺が抱いていたイメージより見た目も仕草も若々しいお袋さんの方にも驚いた。

長い髪とほっそりした立ち姿、シンプルな服装は飾り気がないがよく似合っている。纏う空気は名字よりやや茶目っ気があり、中身より見た目の方が似た親子なのかもしれない。
勝手な感想を抱きつつ、姉妹のようなやり取りをするお袋さんを眺めていると、その眼差しが不意にこちらを捉えた。

「ということは、キミが岩泉くん?」
「、え」
「あらま、名前から聞いてる通り男前さん。娘が二人してお世話になってます」
「ちょ、母さん!」

ぺこりと頭を下げるお袋さんに、名字がいつもより焦った声を出す。何が「ということは」なのかわからないが、俺は言われた内容より、気軽な口調で紡がれた「娘が二人して」という言葉の方が鼓膜を揺らして木霊するのを感じた。

細められた瞳は名字と同じ色をしていて、けれど帯びる光は彼女の其れよりしなやかな鋭さを秘めている。積んできた経験と年齢の差を感じさせる老成した声音が、物言わぬ貫禄を持って俺を試す。

当たり前であって当たり前じゃない。
この人にとって娘は二人いるのだ。

その実感が酷く胸を打って、腕の中の小さな温もりの重みを、初めて本当の意味で感じた気がした。

「…いえ、全然そんなことないです」
「、そう?いろいろ面倒な姉妹で申し訳ないけど、よかったらよくしてやって下さいな」
「俺で良ければいつでも」

しっかり目を合わせて言う。名字のお袋さんが少し眼を大きくし、それからふわりと笑った。あ、名字と同じ笑い方。途端、試合前にも似た緊張感がふっと解けるのがわかって、内心苦笑し納得した。
気圧されたな。かなりの場数を踏んできた人相手じゃ当たり前かもしれないが、やっぱり緊張するものはするらしい。

「母さんもういいからほら早く!」
「あっこらこら自転車倒れるじゃない!」
「なんでもいいから先帰ってて!ほらハウス!」
「我が家はペット禁制!!」

…芝居がかった調子で名字に返す姿を見ると、どっちが子供かわからないが。
いつもありがとう、これからもよろしくしてやって下さい、と俺に丁寧に頭を下げた名字のお袋さんは、手を振り歩み去ってゆく。それを見送った名字は額を手で覆い、盛大に溜め息をついた。

「ごめん…ホントにごめん…壮絶なウザさでしょ…」
「んなことねーよ、いいお袋さんでじゃねぇか」
「いやアレは完全に品定めの眼だった。ホントごめんね、気分悪かったでしょ」
「あーやっぱそうか。別に何ともねーけど、…娘から見て結果はどうなんだ?」
「…なんかわかんないけど、」
「おう」
「無駄にドヤ顔してたから気に入ったんだと思う」
「…」

ドヤ顔で合格なのか。つーかあれドヤ顔だったのか。
ふっと不敵な笑みを過ぎらせたお袋さんを思い出し、何とも言えず半笑いになる。そもそもなんでお袋さんがドヤ顔?
そんな俺の思いを読んだかのように、名字がため息を吐いた。

「ごめんね、基本がわけわかんない人だから」
「頼りがいのあるいいお袋さんじゃねーか」

心底疲れた顔で言った名字にとうとう吹き出した。しっかりし過ぎたところのあるヤツだから、多分あのお袋さんの茶目っ気がいい意味で効いているんだろう。

何気なく手を伸ばし、別段理由なく触りたくなる艶やかな黒髪をかき混ぜる。
指の間から零れ落ちるその滑らかさを楽しんでいると、肩を揺らして黙り込んでしまった名字の俯いた横顔がじわじわと朱に染まってゆくのがわかった。

(……あー…)

自惚れないよう、勘違いしないよう。それなりに慎重にしてるつもりなんだが、これはアレだ。予想以上に困る。
…これで勘違いだったら、結構キツイぞ、マジで。

「あの、うちここだから」
「、おう、そうだったな」

指し示されたアパートを見上げ、俺は名字の髪から手を放す。学校から送るときは大体部活終わりだったせいで暗くてよく見ていなかったが、比較的新しく小奇麗なアパートだった。

「ん」

抱きかかえていた莉子の背を名字の方へ向けた。名字は俺の意図をすぐ察すると、距離を一歩詰め手を伸ばす。
二人で並ぶように立てば、細く頼りない腕が俺の胸元から莉子を抱き寄せた。

小さな妹を挟んだ距離がほぼゼロになる。さらり、こぼれた彼女の髪から香ったシャンプーの匂いに、一瞬思考が止まったのは誤算だった。
妹をしっかり抱きかかえた名字がこちらを見るより早く、俺は思わずその薄い背に片手を回していた。

「っ、…!?」

びくり、跳ねる華奢な肩に、こっちも動きを止めてしまう。
名字は妹の肩あたりを凝視したまま凍り付いた。強くなる匂いに眩暈がする。
棒立ちになる彼女が今にも後退るんじゃないか、柄にもなく緊張したが、一度出てしまった行動に取り返しはつかない。

不意に、黄昏時の揺れる列車内、窓から溢れる陽光に照らされた名字の泣き顔が蘇った。抱き寄せた体の柔らかさ、重ねた唇の甘さが、今の状況と刹那的に重なる。
一瞬千切れる躊躇い、熱くなる身体。回した手に力が籠もり、名字が小さく息を飲んだ。

だらりと垂らしたもう片腕をもその背に回したい衝動が沸き上がる。だがその瞬間、間に挟まれていた莉子が身じろいだ。

「「!」」

我に返ったのは多分、俺も名字も一緒だ。
知らず知らずに強まっていた腕の力を慌てて抜く。酷くぎこちなく体を離した。彼女が伺うように視線を持ち上げる。その瞳の戸惑いを掬い、迷って、それから言った。

「…また明日、な」
「、…うん」

悪かったとか、嫌だったかとか、言うべきなのか言いたいのかもわからない台詞が喉元に詰まって凝固する。ただ触れたかっただけ、なんて言い訳にもならない言い訳が思うところの本音であって、ますます言葉に窮してしまう。

視線を外し黙していた名字が再び顔を上げた。揺れる瞳が俺を見つめ、桜色の唇が躊躇うように開かれる。
緊張を纏いやや上擦った声が、棄てきれない迷いを含んだ、それでいて酷く――自惚れだと言われても仕方ないが――焦がれるような、そんな笑みと共に言った。

「ありがとう、いわいずみくん」
「っ、」

またあした。

柔らかく紡がれた挨拶を残し、名字は背を向けアパートの階段に消えてゆく。
無意味に伸ばした手が不格好に落ちた。どうしようもないもどかしさが心を掻き乱す。

気のせいではないのだ、多分。向けられる感謝も好意もきっと本物だ。それが俺の望む好意であるかはわからないが、嫌われたりしてるわけじゃないと思う。
…そもそも嫌いな男にキスされた後で、こうして一緒に帰ったりする女子が果たしているのか怪しいのもあるけれど。

俺の好意は電車での一件で既に伝わっているに違いない。そしてその返答はきっと限りなくノーに近いものだった。
そうでありながら関係を断たない名字の躊躇いはきっと、自分の中でいろんなものの決着を付けようと奮闘していることの現れなのだろう。その躊躇の理由の全てがわからないわけじゃない。

ひとりで立たせて。

涙声で訴えた必死の懇願は誠実な願いであり、そして俺に対する事実上の拒絶だ。
それをわかっていながら気付かないフリをして今まで通り名字を構う俺の狡さが、彼女を酷く思い悩ませていることもわかっている。
けど。

「…ここで引いてやれるほど、大人じゃねぇんだわ」

嫌いだとか迷惑だとか、はっきり言われるなら潔く身も引ける。
けど、手を伸ばせば捕らえられそうなその位置で逡巡する以上、あんな瞳を俺に見せる以上、その優しさと弱さにつけ込まずにはいられないほどには、俺も余裕がないらしい。

150613
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