朝焼けに散る桜

「名字」

下校のチャイムが鳴って五分足らず、廊下から飛んできたよく通る声が教室のざわめきを貫いた。
はっと顔をあげた私の視線の先には、窓から顔を覗かせる岩泉くんの姿があった。真っ直ぐ眼が合い、一瞬心臓が飛び跳ねる。

「あ…ごめん、すぐ行く!」

慌ただしく帰り支度を済ませる私と窓際の彼を見比べ、傍にいた友人たちが不可解そうな顔をする。何か言いたげに口を開いた彼女たちには申し訳なかったけれど、如何せん岩泉くんを待たせるわけにはいかないので手早く挨拶を済ませて教室を出た。今日は月曜日、バレー部のオフの日だ。

「お待たせ」
「おう。…、」
「?」

彼の眼が私の肩口に留まる。その視線を追うより早く伸びてきた手が、私のリュックの肩紐を持ち上げた。そしてもう片手で、そこに挟まっていた一房の髪をするりと引き出す。私は思わず硬直した。…彼が、近い。

「挟まってた」
「…あ、ありがとう…」
「ん。行くか」

動揺が収まらないうちに、何とか見上げた岩泉くんがふっと眦を緩めるのを見てしまい、私はますますどぎまぎして足元へ視線を投げた。ああまた眼を逸らしてしまった。気を悪くさせていたらどうしよう。でもじゃあどんな反応を返すのが正解なんだろうか、笑い返すなんてとてもじゃないけど無理だ。

彼がこんな風に笑うようになったのは、間違いなく莉子の一件以来だ。普段から言動の端々に性根の優しさが見える人だったが、こんな―――まるで、何か大切なものを思うような、そんな仄甘い瞳で誰かを見る岩泉くんを、私は知らない。

「おー岩泉…って、あれ」

向こうから岩泉くんに気さくに声をかけてきた男の子が、きょとんとして彼と私を見比べる。あ、と思ってやってくる台詞を予想した時には、予感は現実に変わっていた。

「なに、お前カノジョ出来たの?」
「っ、」
「……」

ひゅ、と心臓が縮んで言葉が霧散した。場所は廊下の真ん中だ。自ずと集まる視線が痛くて、逃げ場もなく彼を見上げる。
岩泉くんは読めない表情でちらりと私を見やった。それから視線を戻し、わずかな揺れもない普段通りの声で、クラスメートであろうその男子に返した。

「アホ、ちげーよ。んなんじゃねぇ」

(…あ、)

聞く側に何の疑問の余地も与えない声音が、周りの好奇の眼差し容易く蹴散らした。
無粋な気配の一切をはねつける真っ直ぐな返答はしかし、誰の気分を害することもない清涼感を持って、一瞬変わりかけた空気の色を戻してみせる。

これだ。彼のすごさはここにも現れる。
彼の言葉には力がある。それは一本芯の通った気骨と、毅然として揺るがぬ姿勢に裏打ちされた言霊のように、聞く者の心を掴むのだ。

「だよなあ、俺達独り身同盟から抜け駆け脱退なんて許さねーかんな!」
「はあ?んな墓場みてぇな同盟に入った覚えァねぇよ」
「うっわおい山下聞いたか今の!岩泉が裏切った!」
「ふざけんなこの男前!お前実はモテてんの知ってんだぞ副主将コノヤロー!」
「貶してんのか誉めてんのかどっちだよ!」

男の子特有のテンポの良いやり取りが廊下越しに飛び交い始め、私はほっと一息ついた。騒がしくて気持ちの良い応酬が可笑しくて思わず吹き出したら、岩泉くんが呆れた、けれど決して嫌に思っているわけじゃないことがわかる顔をする。

「クラスの人?」
「おう。うるせぇったらありゃしねぇ」
「楽しくていいよ。好かれてるね、岩泉くん」
「あー…かもな」

ちょっと照れたように首裏をかいた岩泉くんと一緒に、男の子達に手を振って歩き出す。並んで階段を降りる間、肩が強張っていたことに気付いた。無意識に身構えていたようで、自分で自分に少し呆れてしまった。

昇降口まで降り、下駄箱で靴を履き替える。もたもたしてると、先に履き終えたらしい岩泉くんが歩み寄ってくるのがわかった。
早くしないと。思って顔を上げようとしたその時、さらり、慣れない感触に髪を掬われて、私は再びフリーズした。間違うはずがない。岩泉くんが指先だけで私の髪を弄んでいるのだ。

「っ…!」

本日二度目の予告なきスキンシップに顔が一気に熱くなる。ここは欧米か。いや欧米でもこんな形態のコミュニケーション知らないわ。このひと一体何がしたいんだ。

「い、いわ、」

羞恥に耐えかねて呼ぼうとした名前は、戯れに耳を撫で、首裏まで滑った骨ばった指に飲み込まれた。
背筋が泡立つ。髪を梳かれ、今度は頬にも触れられる。誘うような甘い指遣いに全身が火照って仕方ない。

ああもう、どうしたらいいんだ。半分泣きたい思いでいたら、再び耳に触れていた彼の手が止まり、一拍置いてくつくつと喉の奥で笑うのが聞こえてきた。


「可愛い」


……なんて声で、なんて瞳で、なんてこと言うんだ、このひとは。

「………岩泉くんって実は及川くんに似てるよね」
「ああ?あんなチャラいのと一緒にすんな、アホ」
「十分チャラいと思うんだけど…!」
「俺はアイツみたく誰かれ構わず触ったりしねぇよ」

…それはそれでどういう意味なの。
一矢報いたつもりが完全に返り討ちに遭う。ますます熱くなる顔を上げていられなくなって俯いた。
無意識で言ってるなら相当タチが悪い。わざとならそれ以上だ。そんなにわかりやすい特別扱いがあっていいだろうか。

最早返す言葉が見つからずに立ち尽くした私の手を取り、彼は何事もなかったかのように歩き出す。その背中に思わず投げた声は、思った以上に揺れていた。


「つきあってないんじゃなかったの」


可愛げの無い質問だとはわかっている。けれどずっと思っていたことだった。

彼と私は無償で何かを与え合う関係にはない。泣いてばかりの私を抱き締めた理由も、一度だけ落とされたキスの意味も、電車を降りた後ずっと繋がれていた手のわけも、結局はっきりさせることなくなし崩しのまま今に至ってしまった。
そしてその今になっても、どうやってはっきりさせればいいのか、そもそもはっきりさせるべきなのかすら自分でもわからないのだ。

向けられた感情の意味を疑っているわけじゃない。自分の抱く感情は言うまでもなく。

踏み出せない理由はきっと彼も察しているに違いないのに、思い出した頃に触れてくるその指が、落ちる眼差しが、足踏みしてまごつく私に追い打ちをかけるのだ。

電車の中でそうして以来ずっと、彼は私をぐずぐずに甘やかし、ぐらつく足元を揺さぶり続けてくる。
それこそまるで、恋人同士であるかのような仕方で。


「俺はそれでも構わねぇけど」


振り向かないまま、彼が言った。

彼に比べればずっと小さい私の手は、大きくて硬い手のひらにしっかり包み込まれていた。

「言ったろ、俺はお前の傍にいる権利が欲しいって」
「な…に、それ。そんなの、」
「つーかそっちの方が、俺のが気兼ねなくて大歓迎なんだけどよ」

ぎゅ、と手を握る力が強まって優しく引かれる。隣に並べば手を離され、向き合ったそのままに頭をくしゃくしゃと撫でられた。それはさっきの色香すら醸すような指遣いとは違う、優しく無垢な手つきだった。

「…こうやって、撫でることとか?」
「おう、まあな」

ゆっくり滴る熱い何かが、心の内側をじゅう、と焦がして燻り立つ。

きつく眼を瞑った。巡る血潮の熱さで思考が溶け落ちそうになる。やっと吸い込んだ酸素が肺の中で燃え立って息が出来ない。

「…名字は俺をすげぇ良いヤツみたいに思ってるかもしれねーけど」
「…」
「お前が困った顔してんのもその理由もわかってる上で、そこにつけ込めば絆されてくれんじゃねーかなって期待してるような、」

結構ずりィタチなんだわ。

ふっと後頭部に回った大きな手が、私の頭を彼の方へ引き寄せる。
暗くなる視界。制服越しの胸元に顔が埋まる。伝わってきた鼓動の速さに、どうしようもない衝動が込み上げてきた。

抑えようがない。それが未来を約束されない関係の結び目になることがわかっていても、心臓から滴り落ちる熱い雫は私の足場を溶かしてゆく。

「…怖いなあ、」

息苦しさに耐えかねて吐き出した問いは、まるで言うつもりも思っていたつもりもない、けれどこれ以上ないというほどシンプルな私の本音だった。

「何が?」
「私きっと、すごく面倒で重いタイプだよ」
「んなことねーだろ」
「普通の女の子みたいな、そういうつき合いなんてきっと出来ないし」
「彼女が欲しくて言ってンじゃねぇよ」
「それに、いつも莉子優先になる」
「それでこそ名字だろ。つーか、俺だってバレーが一番になる」

そっと身体を離され、影が落ちる。強い既視感。迫ってくる瞳の虹彩に踊る極彩色が、私を捕らえて離さない。

苦しくて苦しくて仕方なくて、ぎゅっと眼を瞑ったら、火傷しそうなほど熱い滴が目の縁から転がり落ちた。
こつん、額に硬い何かがぶつかる。

「なあ、名前」

吐息と混じり合う言葉が唇に触れる。心臓が揺れて痛い。
瞼の向こう、すぐ先には、きっとあの息が詰まるほど美しい瞳が待っている。


「お前が絆されてくれりゃ、万事解決なんだけど?」


目蓋をそっと持ち上げる。合わさった至近距離の視線の先、彼が眼を細めて私を射抜いた。緊張で白く震える指先を握り込む。
揺るぎなくて凛然として、けれど転がり落ちる感情の欠片をいつだって必ず拾い上げてくれる優しい瞳が、確かめるようにゆっくり瞬いた。

嫌なら拒め。

微かに囁かれた言葉が鼓膜を震わせ、強くなる彼の匂いが切なくなるほど心臓を締め付けた。
瞳を閉ざし、言葉にならない全てを込めて、ほんの僅かな距離を重なる唇でゼロにする。

「―――……」

離れた唇が、頬が、身体の内側が酷く熱い。見上げた先で細まる甘い瞳に、染まった頬に、行き場のない愛しさが溢れ出す。

言葉にならない全てが唇を震わせたのを制して、彼は私をぎゅうと抱き締めた。

「…なあ、」
「うん」
「好きだ」
「…うん」
「名前、」

耳元で甘く請う声音に、背中へ回した腕で応じる。
真っ赤に熟れた心臓が、ぽとり、彼の手のひらに落ちて行くのを感じながら、滴り落ちる最後のひとしずくに乗せて唇を開いた。





fin.

長らくお付き合い頂き誠に有難う御座いました。蒼い裂傷、これにて完結致します。
150621
*prevnext#
ALICE+